10,000hit リクエスト短編
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- 月島長編番外編 (縁談話後から網走出発までの話)
- 月島長編時間軸の20年後if (ロマンスグレー鯉登と未亡人ヒロイン)
- 記憶はないけど若干デジャブは感じる転生if (ハッピーエンドです)
- の三段構えです
- なんだかややこしくてすみません
- お題は"恋を自覚した瞬間"
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「…もしかしてあなた暇なんですか?」
「本ッ、当に失礼だな!」
雨に打たれて少し体調を崩してしまった私を三日連続見舞いに来る鯉登少尉は、正直暇人なんじゃないかと思った。お昼前に自宅にやって来ては三十分ほど居座って、特に何も言わずに帰って行く。
昨日のお昼の時点で体調はほとんど回復していたので、今日はさすがに来ないだろうと高を括っていた私は、一人居間で寝そべってだらだらと回想の海に溺れていたのだ。
「ご心配には及びませんよ、私、元気ですから」
「別にそういうつもりで来た訳ではない」
座卓の側に、どかり、と腰を下ろした鯉登少尉を無視して、私はうつ伏せ寝そべったままひたすら畳の匂いと感触を楽しみ続けていた。
「昼飯は、食べたのか」
「…減量中です」
「それ以上やつれてどうする」
「理想の体型を手に入れます」
私がそう言った後、わざとらしい溜息の音が聞こえた。
「何が食べたいんだ?」
「…何も、食べたくありません」
「なんでもいいから言ってみろ、連れて行ってやる」
鯉登少尉がなぜこんな風に優しさの押し売りをするのか、私には少し心当たりがあった。それは同情だ。望まない縁談を鶴見中尉に強要され、しかもその相手とは、私の心が未だ別の人に向けられている事を知る鯉登少尉本人であり、そんな状況に置かれて錯乱した私を目撃したのならば、この育ちの良い男に残された道は、憐れんで優しくする他ないんだろう。
畳に押し付けたお腹から、ぐう、と情けない音が鳴る。愛を失ってもお腹は空くように人間はできていた。血糖値の下がった頭で、失恋した時にバカ食いする定番のものは何だったかと考える。甘いものにそこまで食指が動かない私にとってケーキバイキングはそこまで魅力的に響かないし、そもそもここにはない。ぱーっとお酒を飲むにはまだ早すぎる上、旭川の一件があってからなるべく飲酒は控えているのだ、これでも。頭の中の選択肢を二重線で消していきながら、最後の一行に残った提案を口に出した。
「…中華」
「中華料理か、いいぞ。美味い点心の店を知っている」
「点心じゃなくて、辛いのが食べたい」
ヒイヒイ言いながら汗をかき、ストレスもろともふっ飛ばしたかった。ぐるりと寝返りを打って鯉登少尉の方を向くと、思いっきり顰められた両眼が私を見下ろしていた。
「激辛の麻婆豆腐が食べたいです、鯉登少尉殿」
時代は
香辛料たっぷりの
「はあ、辛い…最高」
器の中の麻婆豆腐を平らげると、テーブルの上に置かれた二・三種類のおかずには目もくれず、再び麻婆豆腐の大皿に手を伸ばした。
先程からあまり話さない鯉登少尉をちらりと見遣ると、器に取った麻婆豆腐をちょうど完食したようで、器をテーブルの上に下ろすや否やグラスの冷水を一気に煽った。
「何だこれ、舌がヒリヒリするな」
「花山椒ですよ、四川でよく使われる香辛料です」
この花山椒、食べ始めてから最初の数分はその香りを感じるくらいの存在感しかないのだが、どんどん食べ進めていくにつれて、舌の表面に蓄積していくように痺れをもたらし始めるのだ。
「鯉登少尉殿、辛いの苦手ですか?」
「…味は悪くないのに、こうも辛くする意味が分からん」
「あはは、それは鬱憤を晴らすためですよ」
私が冗談っぽくそう言うと、鯉登少尉は表情を変えずに私をじっと見つめた後、フイ、と視線を逸らして別の大皿に盛られたおかずに手を伸ばした。正直に言うと、馬鹿にするような軽口が飛んでくることを期待していたので、その反応には少し驚いた。しかしさすがに阿吽のツッコミを要求できるほど親しい仲ではないので、私は黙ったまま器に取った麻婆豆腐を口に運んだ。
「ふう、汗かいてきちゃった」
口内を突く唐辛子の刺激に、私の鼻の頭からは汗が吹き出している。若草色のワンピースの袖で汗を拭うと、鯉登少尉が呆れた表情で私を見た。
「
「だって急に出かけるって言うから」
私の言い訳は半分本当で半分ウソだった。大体忘れることなくかばんの中に用意しているのだが、今日のように忘れてしまう日も多々ある。これ以上の小言を避けるため、まるで今日だけうっかり忘れてしまいました、というニュアンスを含ませて言い返すと、ジャケットの内ポケットのから白いハンカチを取り出した鯉登少尉が、テーブル越しにこちらへ差し出した。
「使え」
「…いいんですか?」
「構わん」
「なんかすみません」
鼻の頭はもう拭いきってしまっていたので、ちょっとだけ汗ばむこめかみの辺りを押さえるように拭いておいた。体温の上がった体から熱を発散させるように、ふう、と息を吐く。そんな私とは打って変わって、鯉登少尉は涼しい顔をして取皿の炒めものを箸で突付いている。
「そんな涼しい顔して。私だけ恥ずかしい」
「その辛い豆腐ばかり食べるからだ、他のも食べろ」
確かに一つのお皿ばかり突付くのは行儀が悪かったかもしれない。麻婆豆腐の入った器を下ろしてお箸に持ち替えようとした時、ふと鯉登少尉のこめかみの生え際にもじんわりと汗が滲んでおり、横髪が数本だけ皮膚に張り付いていることに気が付いた。
「あ、でもちょっと汗かいてますね、ここ」
私が自分のこめかみ辺りを人差し指で示すと、鯉登少尉はお箸を持った手の甲で拭うように自分のこめかみを触ったが、髪の毛は未だそこにくっ付いたままだった。
「髪の毛がくっ付いてます、もうちょっと上」
何度か示した場所の周りを擦っているが、なかなか髪の毛は取れてくれないようだ。私は椅子から少し腰を浮かせ、テーブルの上に身を乗り出すようにして、鯉登少尉のこめかみに右手の指先を伸ばす。
「ほら、ここです」
爪の先で軽く引っ掻くように払うと、ほんのり湿った肌から髪の毛が離れた。
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昨晩久しぶりに再会した陸士時代の同期が、十六になる娘が一目惚れしたどこの馬の骨かも分からない男と一緒になりたいと騒いでいる、と男泣きしながら打ち明けてきた。おいおいと雄叫びを上げ、卓の上に突っ伏す同期の背中に平手打ちを見舞った後、一年は顔を見ていない彼女の後ろ姿が脳裏に浮かぶのが分かった。
"一目惚れ"とは、その字面に反し、一人の相手に対して何度も起こりうるものだと最近になって気付いた。
今思い返せば、毎度その瞬間が訪れた時、若かりし自分はその事に気付いてすらいなかったものだとつくづく馬鹿らしくなる。例えば二十年前のあの日、馬鹿みたいに辛い中華料理を食べに連れ出した時もそうだった。
彼女が髪を除けるために手を伸ばしたその瞬間を今でも鮮明に覚えているというのに、あの時の自分はあれがそういった感情だという事に気付かなかった。いや、気付きたくなかっただけかもしれない。それ以前にもそれ以降にも、同じような瞬間は多々あった筈だった。旭川で手を取って踊ったあの夜でさえ、接吻をしようと企てたのは、興味本位の枠から外れ得ない思いつきの好奇心だったと勘違いしていた。
小樽市街を一望する小高い丘の上に広がった共同墓地には、盆の墓参りに来る人々の姿がちらほらと見られた。緩い石段を上る私を、じりじりと八月の日差しが照りつける。半年の満州視察から戻ったばかりのもう若くない体は、急激な気候の変化にすぐには順応できない。老いとは忌々しいものだ。
確かこの列だったか、と立ち止まると、奥の墓石の前でしゃがみ込む女の姿が目に入った。女は慣れた手付きでお供えの榊を取り替えている。遠目に見えるその横顔がこちらに振り向いた瞬間、地面から立ち上る陽炎が奇妙な幻覚を見せる。看護婦白衣の洋袴が風になびいた気がした。
「鯉登少尉殿」
くすんだ薄藍色の和服をまとったその女は腰を上げ、もう十五年以上前の階級と共に私の名前を呼んだ。今更少尉呼ばわりとはいつまで経っても失礼な女だと思ったが、それが妙におかしく感じ、叱咤の代わりに笑いが溢れる程度には、どうやら自分は成熟できているらしい。
「もう中佐だ、名前さん」
「ふふ、すみません。昔の癖ですね」
私は名前さんの方へ向かって歩みを進めながら、過ぎ去った時間の長さに相応しい年の取り方をしている彼女の顔を見つめた。笑った時に見える目尻に薄く伸びた皺に、私ははっきりと、ああ今またその瞬間が訪れたんだ、と自覚した。
「久しいな」
「鯉登少、…中佐殿もお変わりないようで」
「…そんなに慣れんものか?」
「なんか、名前の一部みたいになっちゃってて」
話し方や仕草、呼び方までも昔と変わらない。唯一変わったのは、名前さんの隣にあの男がいない事だけだった。
みずみずしい榊と生米が供えられた墓石を見る。きれいに磨かれた汚れ一つない石の表面に刻印された文字を指でなぞりながら、現役定年の四十歳まで職務を全うし、その後平穏な退役生活を送った男の背中を思い出していた。
「…二年、か」
「ね。なんだか、早いような遅いような」
名前さんは墓石から目を逸らし、眼下に広がる家々を見つめた。
軍服胸元の物入れからたばこを取り出して一本咥えると、先端にマッチで火を点ける。二口程吸って燃焼を安定させた後、吸口を墓石側に向けて八足台の縁に置いた。お前は普段吸わんかったが、私がたまにやった高いたばこは美味そうに吸っておったからな、ありがたく思え、と心の中で唱えた。
風向きが少し変わり、たばこから立ち上る煙が名前さんの顔の方に流れた。それを避ける事もせず、彼女は目を伏せながら小さく呟く。
「もうちょっと長生きして欲しかったな」
「…あなたを遺して逝く事以外、悔いはなかっただろう」
「…だと、いいな」
「幸せな男だったと思うぞ」
紆余曲折を経たものの、最終的にお前は幸せだったんだろう。そうではなかったとは言わせない。
私が墓石に向かって二度頭を下げると、名前さんも同じように礼をした。その後、少しずれた調子で共に二度手を叩き、最後に一礼で終える。風は止み、たばこの煙が真上に向かって伸びていた。
「苦労はないか」
「大丈夫ですよ。遺族恩給も頂いてますし、いざとなれば手に職もありますから」
「何かあったらいつでも言ってくれ」
「いつもお気遣いありがとうございます」
二年も経てばここまで気丈に振る舞えるものなのだろうか。名前さんは、昔と何も変わらない笑みを浮かべながらこちらを横目で見上げた。
「満州に発つ前、養子を取られたと聞きましたが」
「従兄弟の息子で、良い薩摩隼人だ」
「機会があったらご挨拶させて下さいね」
「ああ」
今は市ヶ谷で学ぶ養子の事を考える。来年に控えた卒業の後、何事もなければ第七師団の配属になるだろう。食事の機会でも設けてやらねばなるまい。
「…結局、お嫁さんは貰わないんですか?」
「…もうそんな年ではないだろうが」
名前さんは墓石に視線を移動させ、そのまま黙っていた。多分その質問を口にした事を後悔しているのだろう。後先考えないところも全く変わっていなかった。
四十になるまでに養子を取るようにというのは、五年前に亡くなった父上の遺言だった。結局シベリヤ派兵の余波と養子の陸士入学の都合で、ようやく縁組をまとめる事ができたのは半年前、私はもう四十一になっていた。父上はきっとご存知だったんだろう、私がこのまま独身を貫くつもりである事を。
墓石を見つめ続ける横顔にちらりと視線を遣る。まとめられた髪、そのこめかみの辺りには、何本か混じった白髪が太陽の光に反射して輝いていた。かく言う私も、父上に似て若白髪の体質なのだろう、量こそ減らないものの半分以上が白髪になってしまった。人は例外なく変化し、老いていく。あの時とはもう違うのかもしれないと思った。何度も見逃しては後になって思い返すその瞬間を、もう逃したくなかった。
「名前さん」
困ったように眉を寄せた顔がこちらを向く。
「今からでも、"鯉登"になるか?」
「…こんなおばさん捕まえて何言ってるんですか」
「私も十分老いた」
「かっこいいおじさんですよ、鯉登少尉殿は」
蝉の鳴き声が響く墓地で、名前さんは朗らかに笑いながら私を見上げ、私を少尉と呼び続ける。
「でも私、まだ"月島"のままでいたいな」
名前さんは再び墓石に目線を戻した。
見逃した何かを思い返しては後悔する日々を続けた事、それもただの変化と老いの過程だ。そして人は順応する。しかしその順応の後、見逃した何かを再び目の前に認識した時、それを追い掛けたい衝動を止められるかと言われれば、答えは否であると思う。人は例外なく変化し、老いて、順応し、そして再び恋に落ちる。何度も何度も、それを繰り返すのだ。本当に馬鹿らしくなる。
「汗、かいちゃった」
名前さんは、着物の袖口から無理やり引っ張り出した襦袢の生地でこめかみに垂れた汗を拭う。未だに
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シートベルトを外してドアを開けると、サウナのような熱気が涼しい車内に入り込んできた。
「うわ、あっつ!」
太陽が真上に上る正午数分前、コインパーキングのアスファルトからは陽炎が立ち上り、車から下ろしたサンダルの片足が恐ろしいくらいの熱に包まれた。普通に降りたくない。
「そのペットボトル持って出てくれ、爆発したらかなわん」
運転席から車外に出ようとしている鯉登さんが、助手席側のドリンクホルダーに刺さったままのジンジャーエールのペットボトルを指差した。確かにこの温度なら爆発しても驚かない。キャップの辺りを掴んでそのままハンドバッグの中にしまい、気合を入れて車外へともう片方の足を下ろした。
道路を挟んで向こう側の数十メートル先に、大きな漢字の看板と中華街の豪華な門が見えている。人通りの多い歩道の上をその分かりやすい目印に向かって歩いていると、いつもハンドバッグと一緒に腕に引っ掛けている日傘の重みがないことに気付き、立ち止まった。しまった、車の中に置いてきてしまった。
「あ、日傘忘れちゃった」
「すぐそこだからもういいだろう、腹が減った!」
「もう、分かりましたってば」
11時半過ぎには着けるよう出発したはずだったのに、お盆休みの首都高は思いの外混んでいて、お腹の空いた鯉登さんはいつもに増してご機嫌斜めだった。まあすぐお店の中入るし、と日傘は諦めて、速歩きで門を目指す鯉登さんの背中を追いかけた。
門を越えた中の通りの人混みは凄まじく、お目当ての店の前にできた人の列を見る前から嫌な予感はしていた。これは待つの嫌がられそうだな。恐る恐る白いTシャツの袖先を摘んで引っ張ると、鯉登さんが私を見下ろした。
「…結構混んでますね」
「予約してあるぞ」
「えっ、さすが!」
さすが、絶対に待ちたくない男は用意周到である。自動ドアからすれ違うように出てきた若いカップルが、45分待ちだって、と話しているのが聞こえた。
店内に入ってすぐの待合スペースに置かれた椅子もすべて埋まっていて、自動ドアの辺りで立ち止まる私達を見た店員さんが、申し訳無さそうな顔をして小走りで近付いてきた。
「いらっしゃいませ、申し訳ありませんが…」
店員さんは私の目を見て話しかけてきたので、そのまま予約済みの旨を伝えようと、予約者である鯉登さんの名前を伝えた。
「あ、予約している"鯉登"です」
鯉登様、鯉登様、と繰り返しながら手元のバインダーに視線を落とした店員さんはその真中辺りに名前を見つけたようで、笑顔で顔を上げると、私と隣に立つ鯉登さん両方に視線を送りながら、では鯉登様ご案内いたします、と言って階段の方へと歩き出した。
私は素直にその背中について行こうとしたが、2・3歩進んだところで後ろから鯉登さんがついて来ていないことに気付き、そちらに振り返った。鯉登さんは妙にぼーっとした顔で私を見ている。
「…どうしたんですか、お腹空いたんでしょ?」
「…いや、なんでもない」
お腹が空きすぎて低血糖にでもなったんだろうかと心配したが、鯉登さんはすぐに私から目を逸らして歩き出した。その時、鯉登さんの右目の下辺りに抜けたまつげがくっ付いていることに気付いた。
「鯉登さん、ちょっとストップ」
「どうした?」
素直に立ち止まった鯉登さんの顔に手を伸ばし、頬にへばりついた1本の長いまつげを爪の先で引っかくようにして落とした。
「まつげ付いてましたよ」
少し驚いた表情の鯉登さんを見上げた時、どうしてかは分からないが、妙に懐かしい気分になった。
鯉登さんは肘をついた手に顎を乗せてぱらぱらとメニューをめくっている。私は事前にネットでメニューを調べた上、頼みたいものも決めていたので、好きなもの頼め、というお言葉に甘えて早速店員さんを呼んだ。
「麻婆豆腐の辛さどうされますか?」
「…ねえ鯉登さん、辛くしてもいい?」
「名前の好きにしたらいいだろう」
「じゃあ辛口と激辛の間でお願いします」
「お飲み物はいかがいたしましょうか?」
「…ねえ鯉登さん、」
「1本だけにしておけ」
「じゃあ青島ビールを1本下さい」
こんなに至れり尽くせりでいいのだろうか。最後に鯉登さんが頼んだコーラを復唱した後、店員さんはテーブルから離れて行った。
スマホの通知を確認する鯉登さんが、画面に視線を落としたまま呆れた口調で私に話しかける。
「あんまり辛いものばっかり食うと腹下すぞ」
「えっ、デートでそれ言っちゃいます?」
「…デートなのか?これ」
「……もういいです」
割とデリカシーのない言葉に少しイラッとしたので、からかうつもりでわざと返し辛い方向に会話を持っていった。私の思惑通り、鯉登さんは眉を寄せたまま押し黙った。
「名前」
「…なんですか」
「…悪かった」
「冗談ですよ、怒ってないです」
むっとした目が私に向けられた。私はその視線に笑顔で応えた。
「んー、辛い…最高!」
口コミ通りの花山椒の効き加減に思わず声が漏れた。数ある麻婆豆腐を売りにする中華街内のお店の中で、この店を選んで本当に正解だった。そしてビールのグラスを煽れば、まさに私はこの世の天国にいる。
冷たい飲み物を口に含んでもカプサイシンの発汗効果は止まらないようで、鼻の頭にじわじわと汗が浮かんでくるのが分かった
「うわ、早速汗出てきました」
「早いな」
バッグからハンカチを取り出すのが面倒くさくて、つい親指の付け根辺りで適当に小鼻を拭った。その女子らしかぬ仕草を目撃した鯉登さんは、少しお尻を浮かせてパンツのヒップポケットからバーバリーのハンカチを取り出し、私の手元に投げた。
「いや、いいですよ、バッグの中に自分のありますし」
「ダッシュボードの上に置きっぱなしだったぞ、覚えてないのか?」
私はピタリと手を止め、ジンジャーエールのキャップを開ける時に吹き出した中身をハンカチで拭ったのを思い出した。そうだ、あの時濡れてるからってバッグの中にしまわなかったんだった。
「…使わせていただきまーす」
日焼け止めが取れないようにパタパタと軽く押さえるようにハンカチを動かす。ある意味汗をかくために来たので、色の付いたものをTゾーンには塗ってこなかったのが功を成した。
それにしても、暑いし熱い。借りたハンカチを団扇代わりにして首元を扇ぎながら、麻婆豆腐をすくったスプーンを口に運び、ビールを煽る。花山椒でピリピリと痺れる舌の上で炭酸がはじける。目の前でコーラのグラスを傾ける鯉登さんも、同じような痺れを感じているんだろうか。だったらいいなあ。そう考えた時、友達以上恋人未満の一線をちょっと越えたいと思っている自分の心をようやく自覚した。
私はビールのグラスをテーブルに下ろし、軽く息を吐いてなけなしの気合を入れた後、いつも通りわざと返し辛い会話の準備をする。今さら気付いたけれど、私はいつもこうやって鯉登さんに甘えてるんだな。
「でもね、鯉登さん。分かってますよ」
「…何がだ?」
鯉登さんは不思議そうに聞き返し、大きめに切られた回鍋肉とキャベツを頬張った。
「わざわざお盆の混んでる時期に、わざわざ横浜まで連れてきてくれるなんて、」
咀嚼を続ける頬の動きを眺めていると、私の頬には無意識な笑みが浮かんだ。咀嚼が終わり、ごくり、と飲み込む喉の動きを見届けてから、少しいじわるな質問を口に出してみる。
「私、鯉登さんのお気に入りかな?」
私を見つめて数度まばたきした鯉登さんは、いつもなら大体目を逸らして怒ったように否定したり、鼻で笑って馬鹿にしたような態度を取ったりする。それも楽しいけれど、できれば今日は違う反応が見たい。
鯉登さんは目を細めていたずらっぽく笑ってから、口を開いた。
「だったらなんだ」
なぜだかすごく遠回りした気もするけれど、今までの心地よい関係を抜け出して、少し変わってみたい気分だった。
「ふふ、だったら、すごく嬉しいかも」