Chapter 1: 導入編
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ブラウン管のテレビでニュースが流れている。黒いスーツを着た大勢の男性達が建物の中に入っていく様をおびただしい数のフラッシュがストロボのように照らしている。何のニュースなのかはまったく頭に入ってこなかった。私は畳の上で足を真っすぐ投げ出して座っているようで、辺りにはどこか見覚えのある着せかえ人形とミニカーが数個散らばっていた。庭へ続くガラスの引き戸に目を遣る。外は昼で、何も干さっていない物干し竿の奥に雑木林が見える。
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すうっと頭が覚醒し、鼻の頭がすっかり冷たくなっているのを感じて布団を目のところまで手繰り上げた。部屋の中はまだ真っ暗だが、ここに来てから体内時計は日に日に正確になってきていて、起床時間が近付いていることをはっきり告げていた。
意を決して起き上がる。めちゃくちゃ寒い。布団を肩に被ったまま、膝歩きで火鉢の側ににじり寄る。火箸で炭を掘り起こし、煌々と熱を発する炭に手をかざす。しばらく遠赤外線を楽しんで、また膝歩きのままずりずりと鏡台の前に移動する。
マッチを擦り、オイルランプに火を灯す。鏡台に掛けられた布をめくると、見慣れた自分の顔が鏡に写った。
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この時代に来てから早くも一ヶ月が経とうとしている。寒さは増し、雪は深くなり、まさに年間最低気温グラフの一番くぼんだそこに達する頃だ。経験のない北海道の冬、さらに未知の時代である今ー明治の世。身の回りをとりまくすべてが不安定で手探りの中、私はなんだかんだでしたたかに生き抜いている。
鶴見中尉の手伝いとして兵舎に通い始めることになった最初の三日間は、それはもう目まぐるしいものだった。まず最初に白旗を上げたくなったのは兵士からの好奇の視線だった。体に穴が開くかと思う程、見られる、見られる。時代背景的に兵舎の中に女性用のトイレがないため、毎回隣の敷地の商店まで借りに行かないといけない。その際に否が応でも二階の比較的奥まった場所にある鶴見中尉の部屋を出て、廊下を歩き、階段を下り、建物の入り口を通り過ぎ、用を足した後また繰り返す。その間に少なくとも五名ほどの兵士をすれ違うことになるのだが、彼らは毎度毎度飽きずにガン見してくるのだ、ぎりぎりまで尿意を我慢する私の顔を。少なくとも彼らは無言で無遠慮にジロジロ見つめてくるだけで、私が会釈をしたりすると、ハッとした表情で目を反らすも会釈を返してくれたりする。ようやくそんな遣り取りにも慣れてストレスを感じることもなくなって来た三日目、厄介なあの兵士と対面することになった。
トイレに向かうためいつものように速歩きで廊下を移動していると、前方から兵士が一人こちらに向かって歩いてくる。さっさとすれ違ってしまおうと顔を伏せたまま歩みを進めていると、正面の兵士がわざわざ私の進路を塞ぐように立ち止まった。まさか月島さんかと思って顔を上げると、他の人と変わらない軍服と短く刈った坊主頭の見知らぬ顔がそこにあった。少し違っていたのが、笑みを浮かべていたこと。
「もしかして、あなたが噂の、鶴見中尉殿のご親族のお嬢さんですか」
「…そうですが。何か御用でも」
月島さんの教えを守りあえて愛想悪く接するように心がけていたので、目も合わせずに努めてぶっきらぼうに返す。
「兵士がみなあなたの噂をしてますよ」
「そうですか。では、私用事がありますので」
そう言って目の前の男を避けようと、左側に一歩踏み出して方向転換する。ところが、男もまた私と同じ方向に移動して通せんぼをするではないか。
「よかったら手伝いますよ」
「結構です。急ぎますので」
「遠慮なさらずに。どこに行かれるんですか。ご一緒しましょう」
私が右に踏み出すと、男もまた同じ方向に。二度繰り返した頃に、ようやく私はからかわれていることに気付いた。
「あの!本当に急いでるんです」
私が語気を強めてそう言うと同時に、廊下の奥の曲がり角から、尾形上等兵殿、と大きな声が聞こえた。男はちらりとそちらを見やると、今行く、と軽い口調で言い、こちらに向き直った。
「お手洗いが遠いと毎度大変ですね、名前さん」
男は含み笑いでそう言い残し、踵を返して去っていった。月島さんの忠告が頭の中で響いた。上等兵連中には近寄るな、と。
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眉墨の筆を持つ指にぐっと力が入った。一旦筆を眉から遠ざけ、ふう、と息を吐く。朝の貴重な出勤前の時間を無駄にするわけにはいけない。首をストレッチさせるように首を軽く回し、再びアイブロウに取り掛かる。
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そしてその三日間を過ぎれば、兵士たちも私の一挙一動に注目したり凝視することもなくなった。ストレスが減ったのは良かったのだが、代わりに私の中で一種の罪悪間が生じ始める。不躾な視線を送ってくることもない礼儀正しい兵士たちに対して、私が不遜な態度で居続けることへの罪悪感だ。おしゃべりの相手もおらず、毎日寂しくそろばんを弾いたり鶴見中尉にお茶を淹れるだけの私を不憫に思ったのか、一部の兵士がたまに甘い茶菓子やフルーツを届けてくれるようになったのだ。月島さんには悪いが、こんな人の親切を無為にできるほど私はご令嬢の役になりきれるわけもなく、少しずつ彼らと打ち解けていくことになったのだった。
「名前さん、みかん食べますか」
鶴見中尉から鉄瓶にお水を足してくるよう頼まれ、高そうな南部鉄器を持って土間に向かっていると、後ろからお声がかかる。振り返ると背の高い兵士、二人いる二階堂一等卒の内のどちらかが、みかん一つを片手にこちらに向かって来る。
「冬になったら毎年実家が送ってくるんですよ」
「いいですね、みかん。好物です」
ありがとうございます、と言ってからみかんを右手の平で受け取り、鼻に近付けて匂いをかぐ。柑橘のさわやかな香りと植物特有のほろ苦い香りはちょっとした気分転換になりそうだ。二階堂一等卒も土間の方へ向かっているらしく、そのまま一緒に廊下を歩く。
「俺がどっちだか当てれたら、もう一個あげますよ」
「本当ですか」
高い位置にある横顔を、じいっ、と見つめるものの、申し訳ないがやはり見た目で判別はつけれそうにもなかった。どうせ二択なので勘で答えてみる。
「浩平さんの方ですね」
「残念、不正解です」
私の勘は当たらなかったようだ。失礼にあたるかと思い、すみません、と謝ると、二階堂一等卒は、母さんくらいしか見分けつく人なんかいませんよ、と笑いながら言った。
土間の入り口に面した食堂の大きな座卓の側で、兵士が四・五人集まってみかんを食べながら談笑しているのが見える。その中にはもう一人の二階堂一等卒もいて、こちらに気付くと腕を上げて、おい浩平こっちまだみかんあるぞ、と言った。
「うん?あれ、やっぱりあなた浩平さんじゃないですか」
隣に立つ二階堂浩平一等卒は、ぶぶっ、と盛大に吹き出し、笑い始めた。腹が立ったので、みかんを握った拳で丸まった背中を軽く小突いてやった。
「洋平、名前さんにみかん一個投げてやれ」
「ちょっと待って私手がふさがってるんですけどっ」
わたわたする私の横からさっと手が出てきたので、鉄瓶とみかんを持たせる。二階堂洋平一等卒は座ったままこちらに向かってみかんをゆっくりと下投げで投げる。ゆっくりと放物線を描くみかんは頂点に到達し、そろそろ下降を始めるかという頃に、私はみかんの予測落下地点がかなり前方にあることに気付く。腰は少し落とし、顔は上げて目線はみかんを追ったまま、急いで三歩前方に駆け寄り、半ば正座でスライディングするようにへその辺りでしっかり両手でみかんを捕まえた。
「おお、上手い」
「とったどー!」
畳に両膝を突いたまま、みかんを天井に掲げて笑顔で決めセリフを言い放つと、背後から非常にわかりやすい咳払いが聞こえた。嫌な予感がしてすぐさま振り返る。外回りから帰ってきたばかりなのか、紺色のコートを着たままの月島さんが眉間に皺を寄せ無表情で私を見下ろしていた。
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口紅を塗り終える頃には、火鉢のおかげで部屋が少しだけ暖まっていた。火鉢はそもそも部屋全体を暖めるものではないそうだが、火を焚き続けていれば多少空気は暖かくなる。軽く布団を畳んでから着替えを始める。
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「少しおてんばが過ぎるんじゃないですか」
「すみません、つい…」
月島さんは水が入って重くなった鉄瓶を右手に持ち替えながら言う。二個のみかんは私の手の中にある。月島さんと一緒に鶴見中尉の部屋へ戻る私の足取りは重い。
「あまり愛想を振り撒かないようにと言ったでしょう」
「愛想は振り撒いてないですよ。ちょっとはしゃいだだけです」
私がむっとして言い返すと、月島さんはため息をついた。はしたない女だと思われただろうか。取り繕うように左手のみかんを差し出す。
「よかったらひとつどうぞ」
「鶴見中尉殿に差し上げるのでは?」
「いえ、中尉とはこっちをはんぶんこしますから、月島さんが召し上がって下さい」
月島さんは一秒ほど考えた後、ありがとうございます、と言って左手でみかんを受け取り、そのままコートのポケットにしまった。丸く盛り上がったコートの表面がかわいい。
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鏡台の前に戻って、髪に櫛を通す。現代から着けてきた黒いヘアゴムで低い位置に髪を一つにまとめ、くるりんぱをし、毛先をそのまま巻き込んだ後、シヅさんからもらった飾り櫛で固定する。
鏡台の掛け布を戻し、オイルランプの傘を持ち上げて中の火を吹き消す。縁側に面した障子から明朝の青白い光が差し込み始めていた。
「さて、行きますか」