Chapter 1: 導入編
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「月島さんとお呼びしてもいいですか」
桶と手ぬぐいを片付けて戻ってきた月島軍曹が火鉢の元に腰掛け終えるのを待たずに尋ねた。軍曹は私を見て二度素早くまばたきをした。
「別に構いませんが」
「あと、あんまり私に畏まって欲しくないんです」
数秒考えるような素振りを見せて右手の人差し指でこめかみを三度掻いた。
「それも構いませんが…兵舎では人の目があるので。あなたはあくまで鶴見中尉殿のご親族、という設定ですから」
「そうですが…」
「あと私はもともとこういう喋り方です」
月島軍曹、改め月島さんが胸を張ってそう主張するので、私は少し笑ってしまったが、当の本人は何がおかしいのかわからない、といった顔でくすくす笑う私を見ていた。
「まあ、善処はします」
「ありがとうございます」
湯桶の一件で傷付いたはずの私の心は意外にも平静だった。ああやって思い出というファインダー越しで私を見る月島さんの目をこちらから見る度、私は少し傷付き、その苦痛の見返りとして彼に一歩近付く正当な権利を得る、という錯覚。健康的じゃないな、と心の中で苦笑した。
「そういえば、明日から兵舎に顔を出すにあたってご相談がありまして」
話題を変えるようにぱちりと手を叩く。月島さんが、応えられる範囲内であれば、と返した。
「どのように振る舞えばいいかわからないんです。非公式な立場ですから、朝礼でみなさんにご挨拶というわけにもいかないですし、かと言って我が物顔で出入りするのも良くないですし」
「兵士達に深く関わる必要はありませんよ」
「でも、お高く留まりやがって、って思われませんか」
「今みたいに愛想振り撒いていると目を付けられます。何のための肩書だと思っているんですが」
「…私の世間知らずを納得していただくためでは?」
「虫除けですよ、虫除け」
あいつらの中に若い女性を放り込むなんて正気の沙汰じゃない、と小声で呟いた。どうやら私を兵舎に連れてくるというのは鶴見中尉の独断のようで、月島さんはお世辞にも賛成というわけではなさそうだ。
「あなたが"鶴見名前"と名乗る以上危害を加えられるようなことは無い筈ですが」
「(…名前呼んでくれた)」
「用心するに超したことはありません。特に上等兵連中には近付かないように」
忠告はしましたよ、と月島さんは念を押した。上等兵連中がどうまずいのか深く突っ込んで聞いてみたいところだったが、あいつらはまったく、と独り言を漏らして月島さんは頭を抱えてしまったので、曖昧に笑って濁すことにした。
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玄関の戸が開く音がして、シヅが参りました、とよく響く声が聞こえてきた。柱時計を見ると丁度三時半である。廊下から優しい足音がこちらに近付いてくる。居間に差し掛かり、腕に風呂敷を下げ両手で野菜の入った大きな竹ザルを抱えたシヅさんがこちらに会釈した。
「おかえりなさいましお嬢様。月島様も、めずらしいですね」
「鶴見中尉殿より、鶴見さんを送り届けてそのまま中尉殿の帰りを待つように、とのお達しでして…お邪魔しております」
月島さんも座ったままシヅさんに会釈する。シヅさんは苦笑いで返す。
「非番の日まで鶴見様のお手伝いですか。大変ですね」
「特に休みでもすることが無いので、まったく問題ありません」
「お夕飯よろしければ召し上がって行かれますか?」
「いえ、お構いなく」
どうやら月島さん、今日はお休みの日だったらしい。確かに、さすがの鶴見中尉も通常出勤中の部下に従姪のショッピングのお供を命じることはしないか。
「すみませんでした、お休みの日に付き合わせちゃって」
「いいですよ、当直明けの非番なんて兵舎にいてもうるさくて眠れませんし」
「…寝てないんですか?」
「まあ。これくらい平気ですが」
今日私が月島さんにかけてきた様々な迷惑が頭の中で走馬灯のように流れていった。雪に足を取られては支えられ、店先で待ちぼうけを食らわせ、荷物を持ってもらい、紅の件では突っかかられ、コケた私に乗っかられ、挙句の果てには足湯の補助だ。
「私シヅさんの手伝いしてきます。中尉が帰ってきたらお教えしますから、横になってて下さい」
「いや、本当に大丈夫ですよ」
「じゃあ、せめてここでしばらくゆっくりしてて下さいね」
「はあ、じゃあお言葉に甘えて」
私はそうそうに立ち上がり、あぐらをかいたまま手持ち無沙汰に部屋の中を見渡す月島さんを残して居間の障子を閉めた。
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どうやらシヅさんは明朝から昼前で一通り家事を済ませた後一度自宅に戻り、今の時間の頃に再びやって来ては夕飯の支度をしているらしかった。思い切ってシヅさんに、まったく台所のことがわからないことを告白すると、では今日はシヅと一緒に花嫁修業ですね、と笑ってくれた。
シヅさんは持ってきた風呂敷を解くと中から二本の長い紐を取り出す。一本は真っ白、もう一本は物鮮やかな葡萄色だった。私がその葡萄色に目を奪われていたのに気付いたシヅさんは、これとっても素敵な色でしょう、と言って着物の袖をたすき掛けにしてくれた。
シヅさんが言うに、この板張りの台所は今の時代ではかなり新しいものらしく、まだ一般家庭では土間があるそうだ。大根の皮むきを命じられ、ピーラーという文明の利器に慣れきった私は、なけなしの集中力を全投資して包丁を持つ手を動かしていた。物を取りに台所を出ていったシヅさんが戻ってきて、戸のそばでニコニコしながら、こっちこっち、と手招きをしている。大根と包丁をまな板の上に置いて、なんだなんだとシヅさんの後に着いて行くと、シーッというジェスチャーをしながら居間の障子をゆっくり一五センチほど開けた。
隙間からこっそり居間を覗いた私は思わず笑みをこぼしてしまった。軍帽で顔の上半分を覆い隠しあぐらをかいて壁に凭れかかっている月島さんは、腕を組んだまま船を漕いでいた。いつもはぴっちり上まで留められているジャケットの襟が今は鎖骨あたりまで開かれていた。やだ軍曹かわいい。インスタに上げたい。障子を閉めてシヅさんの方に振り返り小声で言う。
「やっぱりお疲れだったんですね」
「お嬢様とのお買い物が楽しかったんでしょう」
いたずらに笑うシヅさんのを見たその瞬間、この怒涛の二日間にすっかり忘れていた"現代"に残してきたものたちがふいに頭に過ぎった。頭を振って、今は考えないようにすることしかできなかった。
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油揚げの匂いのする湯気を顔いっぱいに浴びながら味噌を溶かしていると、玄関の戸が開く音がした。シヅさんと私は顔を見合わせてから、慌ただしく小走りで台所のドアへと急いだ。
シヅさんは玄関に向かい、私は居間の前で立ち止まってそーっと障子を開けた。月島さんはすでに目覚めていたようで、ジャケットの襟もぴっちり閉じられていた。軍帽も右手に抱えられている。
「あら、もうお目覚めでしたか」
「…お見苦しいところを」
ちょっとからかうように言うと、月島さんはバツが悪そうにそっぽを向いた。
ギシギシと廊下を歩く音がこちらに近付いてくる。月島さんはすっと立ち上がり、開かれた居間の入口に向かって姿勢を正した。すぐに鶴見中尉が姿を現し、私の横に立って軽く右手を上げた。月島さんがすばやく敬礼する。
「ご苦労さまです。お邪魔しております」
「月島、非番の日に悪かったな」
いえ、問題ありません、とハキハキした声で言い、腕を下ろした。
「鶴見中尉殿、おかえりなさいませ」
突っ立ったまま何も言わないわけにもいかないので、とりあえず無難にそう言うと、鶴見中尉は手袋を着けたままの右手を口の横に持ってきて衝立を作り、"おじさま"と呼びなさい、とニヤニヤしながら私に耳打ちした。
「鶴見様、今日はお嬢様がお夕飯の支度を手伝って下さってるんですよ」
何も知らないシヅさんが鶴見中尉のコートを小脇に抱えて、ご機嫌に話す。
「おお、それは楽しみだなァ。月島、食べていくか」
「いえ、お構いなく」
やっぱりさっくり断るんだ。
「食事の前に月島と話してくる。そのまま準備しておいてくれ」
「かしこまりました。お嬢様、お台所で続きをお願いします、シヅもコートにブラシを掛けたらすぐ戻りますので」
シヅさんはニコニコしながら廊下の奥に消えた。自室に向かう鶴見中尉の後を追って月島さんも居間を出ようとする。
「月島さん、お帰りになる時声をかけて下さい。お見送りしますから」
「いえ、お構いなく。お忙しいでしょうし」
どことなくそっけない態度で月島さんも廊下の奥に消えてしまった。一人取り残された私は、ひっそり肩を落とし、台所にとぼとぼ戻った。
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「どうだった」
「怪しい行動や言動は特にありませんでした」
鶴見中尉の対面に座卓を介して正座する。中尉は座卓に右肘を突き、その右手で琺瑯の額当てに指を突いた。
「彼女の"時代"について何か話したか」
「いえ、こちらからは質問するなとの命令でしたので、特に何も」
「そうか…やはりもう少し時間が必要だな」
正座した膝の上で拳を固く握った。座卓に隠れて鶴見中尉からは見えないだろう。
「彼女から自発的に力になりたい、そう思わせる環境が必要だ」
「はい」
「月島、名前に"よく"してやってくれ」
ああ、またか。爪が手の平に深く食い込むのを感じる。
「時に月島」
「…はい、なんでしょうか」
拳を見つめていた目線を鶴見中尉の手に動かす。
「お前は占いを信じる"タイプ"かね?」
「…たいぷ?」
「類い、とかそういった意味の英語だ」
中尉は手袋を着けたままの人差し指で座卓の上で指を滑らせる。T、Y、P、E。
「いえ、私は信じません」
中尉の両目を見つめて言い切った。
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「…あれ、やっぱり月島さん、もう帰っちゃいましたか」
私が居間に姿を現すと、座卓の側に膝をついて配膳する名前が残念そうに呟いた。敢えて彼女の直ぐ側に腰を下ろすと、肩に手を乗せて二・三度撫ぜた。怪訝な視線が私の手と顔を行き来する。
「明日また会えるではないか」
名前は満更でもない表情でそっぽを向いた。
君はまだ知らないだろう。あの日、占いの老婆がそのお告げを伝えた人物、それは私ではなく、月島だったことを。そして老婆はさらに興味深いことを言ったのだ。
『兵隊のお兄さん、その女はね、あなたに一度会ったことがあるようだよ』