Chapter 1: 導入編
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「荷物はお部屋ですか」
「はい、えっと、そこの襖の側にお願います」
一足遅れて上がってきた私に月島軍曹は軽く振り返って尋ねる。私があわてて自室の襖を指差すと、板張りの廊下の上に襖の側に寄せて風呂敷を下ろした。居間におりますので、と軍曹は居間の方に消えた。
私は自室に入り、とりあえず風呂敷二つを移動させてからコートを四苦八苦しながら脱ぎ、コートハンガーのような衣装掛けに掛けておいた。朝シヅさんがしてくれたように襟元と帯の部分を少し直し、ふう、と息をついてから居間へと足を運ぶ。
廊下を進みながら、今何時だったか、お蕎麦屋さんを出たのが一時半だったからまだ二時前か、そもそも鶴見中尉は何時に帰ってくるんだろう、例えば五時上がりだったとしてもあと三時間もあるじゃないか、軍曹と密室で三時間二人っきりはまだちょっと心の準備が、などと悶々と考えた。
居間の障子は開けっ放しになっていて、奥で軍曹が火鉢の側にあぐらをかき、火箸で炭を掘り起こしていた。居間の火鉢は自室にあるものと違って、ローテーブルの真ん中に四角く落ち込んだ炭を燃やすスペースがあり、五徳とやかんが常に用意されている。卓の部分でお茶を飲んだり軽食を食べたりすることもできる、現代の感性で言い表すと、卓上囲炉裏と呼ぶと分かりやすいかもしれない。
ここで第一関門、どこに座るかだ。私は、女友達の内の一人である百戦錬磨の合コン戦士(飲み会で倉持くんとやらに連絡しようとしていた、そうあの子である)がいつかべろべろに酔っぱらいながらも真剣に語っていた兵法を思い出していた。
『孫子いわく、合コンではまずどこに着席するかが勝敗を分けると言っても過言ではない。まず気になる男がいたなら、真正面でも真横でもなく、斜め正面に座ることが肝心ね』
ぎり、とローテーブルを睨みながら、私は握りしめた右拳に汗が滲むのを感じた。なぜならローテーブルはほぼ正四角形なのだ。長方形でなければ、斜め正面には座れない。孫子助けて!
『斜め正面でも相手から見て右斜め・左斜めがあるよね。この場合、心理学や統計学的に、人は右側にあるものの方に注意が行きやすいと結果が出ているの。であるからして、狙うべき席は…相手から見て右斜め前!はいここテストに出まぁす』
孫子ありがとう。私は平静を装いつつ滑らかに月島軍曹の右側の席に正座をした。両手足とも冷え切っているのが分かる。足の指先をばらばらに動かしてみようとするがまったく感覚がない。せめて手だけでもと、膝の上で両手をこすり合わせる。まずい、ここですぐさま第二関門だ。何を話せばいいんだろう。助けて孫子!と再び脳内の彼女にテレパシー送るが、彼女は『うっ』と急に口を押さえてトイレに走って行った。待って孫子!
「寒いでしょう。手をあぶったらいい」
急に話しかけられ、肩がびくりと跳ね上がった。あ、そ、そうですよね、と動揺丸出しの口調で曖昧に笑って炭火に手をかざす。居心地の悪い静寂をなんとかかき消そうと、うふふ、あったかーい、などと上ずった声で呟いてみるも、言い終わった後には柱時計の規則的な音だけが部屋に響いていた。孫子が去ってしまえば私は無力だった。月島軍曹も、さすがにこの部屋の空気の重力変化に気付いているようだ。
「やはり私は玄関で待ちますので、気にせず好きなことをなさって下さい」
「だめです、寒いのでここに居て下さい!ね!」
軍曹は立ち上がろうと畳に片手を突いた。緊張状態の私は思わず両手で軍曹の腕を掴み制止させた。それにしても良い腕だ、ぜひ私のためにピチTを着て欲しい。
「そうだ、お茶でも入れますから!ね!」
軍曹が戸惑いながらまた腰を下ろしたのを確認してから腕を離し、そのまま今度は私が立ち上がろうと片手を突いて畳を蹴る。しかし、かじかんで感覚が無くなってしまったつま先ではグリップが効かず、ヒャッ、と情けない声を上げて軍曹の方に倒れ込んでしまった。おいっ、とめずらしく焦った声で軍曹は短く言い、私の両肩のあたりを掴んで支えてくれたが少しタイミングが遅かったようで、慣性に則り地面に向かって軍曹は背中から、私は顔からダイブする。しかし軍曹の腹筋はすばらしいもので、背中を畳に打ち付けることなく直前で止まる。だが私は自重に勝てず、鼻筋を軍曹の鎖骨に思いっきり打ち付けてしまった。
「大丈夫ですか」
「…す、すみません、私は平気です…鎖骨、折れてませんか」
私は左腕で支えて上体を起こし、右手で鼻筋を押さえながら言った。生理的に浮かんでくる涙のせいで笑えるくらい鼻声である。
「これぐらいでは折れませんよ」
「よかった…本当にごめんなさい」
「いえ。足、どうかなさったんですか?」
ようやく上体を起こしきってお姉さん座りの体勢に戻る。軍曹も私が退き切ったのを見計らって軽々とあぐらの体勢に起き上がった。まさかずっこけるとは思わなかったーしかも月島軍曹に向かって。緊張と興奮と羞恥心が頂点に達したのか、なぜこけてしまったのかを説明しようとする私の口から、吹き出すように笑いが飛び出したのだった。
「いや、あの…ふっ、ふふふ、足がかじかんで…あははは!」
自分でボケで大ウケしているような状態の私を軍曹は若干呆れたような目で見ていたが、私はもはや自分で笑いを止めることができなかった。
「感覚がなくてっ、ず、ずるっと…あーははは!」
すると突然軍曹が腕を伸ばして私の足を足袋の上からがしりと掴んだ。これには驚いて、まるでしゃっくりのように笑いが止まる。軍曹は手をつま先の方に少しずつずらしながら何かを確認するように続けて二・三度握った。
「かなり冷えてますね。ちゃんと足袋を重ねていましたか」
「へ?一枚だけでしたけど」
「凍傷になりますよ」
軍曹が立ち上がり、失礼、と一言告げると、腰を曲げて左手を私のウエスト、右手は脇の下に手を入れて、ぐっと持ち上げられ、奇声を発する暇もなく立たされる。そのまま支えられて縁側のアームチェアに座らされ、軍曹は台所の方へ消えていった。
台所の方で何度か物音が聞こえ、一分も経たない内に軍曹が水を溜めた大きめの桶と、あさぎ色の小綺麗な手ぬぐいを抱えて戻ってきた。火鉢の側で桶を畳の上に下ろし、五徳に乗ったやかんからお湯を注ぎ入れ、手で桶の中をかき混ぜ温度を確認する。良い温度になったのか、再び桶を抱え上げてこちらへ向かってくる。
月島軍曹は桶を私の足元に置くと、わざわざ膝を突き、私の足袋を脱がせ始めるではないか。素足に触れる軍曹の手は荒れて硬かったが、温かかった。半ば夢見心地で大人しくしていると、足首を掴まれて桶のお湯の中に私の足を沈めた。じんわりと表面から侵食されるように足の芯に熱が戻ってくる。
「…はー、あったかーい…」
目を閉じて無意識に口走り、頬が緩む。ふっ、と鼻で笑う音が聞こえたので驚いて目を開けると、軍曹がうつむき加減で手の甲を鼻に当て、笑いを噛み殺しているのが見えた。
「…っ、すみません、只の思い出し笑いです」
「何か楽しい思い出でも?」
「まだガキの頃、同じように湯を用意してくれた子がいまして」
軍曹はそこまで言うと急に押し黙り、湯に浸かる私の足を見ていた目線を縁側の外にずらした。外に向けられた瞳の色はここから見えなかったが、郷愁とかつて側に居た誰かを思っていることは明白だった。知ってますか月島軍曹、本当に優しい人は、愛す喜びと失くす悲しみどちらも知っているんですよ。まるであなたみたいに。
「湯がぬるくなりますから、もう上げましょう」
軍曹が右手で私の足首を掴んで湯から上げ軽く揺さぶって水を切り、左手に持ったあさぎ色の手ぬぐいで優しく拭ってくれる。いいですよ、自分でできます、と喉まで出掛かったが、そのまま唾と一緒にごくりと飲み込んだ。ひざまずいて私の足を拭くその姿は、私ではない誰かへのつぐないのように見えたからだ。