Chapter 7: 樺太留守番編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
網走港には二隻の駆逐艦が停泊している。一隻はそのまま有事のために待機、そしてもう一隻が私達を連れて登別まで移動した後、そのまま函館へと帰還すると聞いていた。鉄道網が未だ発展しきっていない北海道北東部から、雪深いこの時期にど素人の私を連れて陸路で移動するのは不可能と踏んだのだろう。ありがたい計らいだとは思ったが、そこまでするのならば私は同行しなくても構わなかったのだが。
「だーれもいない海」
波止場の欄干に背中を凭れ掛けて首を思いっきり反らせると、視界に雲混じりの空と細かく波の立った海面が逆さまに広がった。ぴっちりと纏めた筈の髪がぱらぱらと凍えるような潮風に煽られ、初々しい恋の歌を口ずさむ私の頬を引っ掻いた。
「二人の愛を確かめたくってー」
明朝の港はもちろん寒い。分厚い靴下を二枚重ねた上からブーツを履いていても、遠の昔につま先の感覚はなくなっていた。私は目を閉じ、既に何度も思い返し尽くしたあの夢のラストシーンを、小舟に乗ったあの人の背中に向かって話しかける私視点の映像と感覚を、飽きずにまた繰り返していた。
逆さまの水平線をぼんやりと見つめる。こんな事を以前にもどこかでしたような記憶があった。あれはどこだったんだろう。そうだ、あれは網走に向かう途中に寄港した根室での出来事だった。身投げするとでも勘違いした鯉登少尉が慌てて私の腕を引っ張ったんだっけ――八つ当たりで私に向かって声を荒げる彼の表情を思い出すと少し笑えてきた。
「あーなたの腕を、すーり抜けてみたーの」
先遣隊は今どこにいるんだろう。彼らが出立してから早二ヶ月半が過ぎていた。
「はしーる水辺の眩しさ、息もできないくらい」
下方向にある雲の切れ目から差し込む朝日が上方の海面に反射している。元々決して上手ではない歌声が、首を反らせているせいでさらに詰まったように上擦っていた。白い息が上っていく。
「はやく、つよく、捕まえに来、ッ――!?」
ばきり、寄りかかる木製の欄干からそんな音がしたと気付いた時には、既に私の体は後方の海に向かって傾き始めていた。
数時間前にインカㇻマッさんから告げられたばかりのお告げ――"水難の相"という言葉が頭を過ぎった。お告げと呼ぶには正確すぎる。最早あれは予報の域だったのだ。
コンマ一秒以下の出来事が、ゆっくり時間をかけて引き起こされていく。なんとか体を垂直に保とうと宙をもがく自分の手が視界に映り、そしてブーツの底が雪の上を滑る感覚がはっきりと伝わってきた。水温は何度だろうか。その中に落ちたら、私の心臓は止まってしまうだろうか。
急に手首が掴まれ、前方に向かってかなりの力で引っ張られた。反動で首ががくりと前に揺れ、急に目の前に現れた紺色のコートに思いっきり顔をぶつけた後、その人物と共に雪の上へと倒れ込むように着地した。
鼻筋にボタンがヒットしたせいで奥の粘膜がじんじんと痛み、今にも涙を生成しようと疼いている。革手袋を着けた手で鼻を押さえながら恐る恐る目を開けると、雪の上に仰向けで大の字に寝転んだ宇佐美上等兵が見開いた目で私を見つめていた。
「何やってるんですか」
ぞくりとする程表情のない声に思わず、ヒッ、と声を上げ、横方向に体をロールさせて宇佐美上等兵の上から飛び退いた。そのままホフク前進のような体勢で上体を軽く持ち上げると、先程自分が寄りかかっていた欄干に視線を向ける。波止場の片側に沿って長く設置された欄干がその部分だけ一メートル幅程抜け落ちていた。
「……うそでしょ」
「こんな真冬の海に飛び込むなんて、僕は御免ですからね」
宇佐美上等兵はそう言ってからむくりと体を起こし、吹っ飛んだ軍帽を拾って頭に乗せた。そしてショックで動けないままの私の側まで膝立ちのまま移動すると、肩と腕を支えて起き上がるのを手伝ってくれるようだった。
「…あ、ありがとうございます」
「またどこか捻ったりしてませんよね?」
私を引っ張り上げる宇佐美上等兵の顔には少し呆れの色が浮かんでいるように見えた。そういえば初めて宇佐美上等兵と出会った時も、私は病院で尾形に突き飛ばされて腕と足首を負傷していたんだっけ。そんな私を自宅まで送り届けてくれた彼の本性に、あの時はまだ
「――いっ、たぁ…!」
右膝がかくりと雪の上に落ち、慌てて首筋を手で押さえる。筋を違えたような不快な違和感の正体は、恐らく引っ張られた時にむち打ちになってしまったからだろう。宇佐美上等兵が怪訝な表情で私を見下ろしている。
「え、なんで首なんですか」
「…むち打ち、だと思います」
首に手を当てたままゆっくりと首を回してみる。肩こりによる筋肉の張りを右肩辺りに感じたものの、先程感じた首筋の強烈な痛みは一切生じなかった。
「……あれ?治った…?」
「気のせいだったんじゃないですか。さあ、行きますよ」
宇佐美上等兵は私の両脇の下に手を差し入れると、"高い高い"の要領で私を立ち上がらせる。急激な浮遊感の直後にブーツの底がすんなりと雪の上に着地し、そのまま革手袋に包まれた私の左手が取られ、ぐいぐいと引っ張られ始めた。
「今回は僕が名前さんの子守りですからねー」
歩きながら肩越しに振り返った宇佐美上等兵の表情はやけに楽しそうだった。怖いほど無表情だったり、呆れたり、楽しそうだったりと相変わらず機嫌のアップダウンが激しい人だ。半ば引きずられるように雪の上を早足で歩きながら、鶴見中尉が私を登別へと向かわせたい理由について考えた。鯉登少尉も月島さんも不在の今、"
------
そんな借り物の"玩具"とはいえ、さすがの宇佐美上等兵もこんな所までは一緒に来れる筈もない。
「…っあー、美味いッ」
空になった有田焼のお猪口をぷかぷかと浮かぶお盆の上に戻すと、私はおっさんのような声を上げて顎まで湯の中に浸かり直した。そう、ここは北国・登別の湯である。
天井から滴り落ちた冷たい露が頭頂部にぽたりと着地した。ふふ、と小さな笑い声が私以外誰もいない室内浴場に響く。正直に言うと露天風呂を楽しみたかったというのが本音だが、第七師団御用達の湯治場であるこの辺りの外湯はすべて兵隊さんで溢れているらしい――つまり、残念ながら女の私は利用することができないのだ。
とは言え、こうやって熱燗を煽りながら檜の香りが漂う内湯を独り占めするのも悪くない。この旅館の利用客も大多数は軍人らしく、女将さんの言う通り女湯はいつでもすっからかんのようだった。私は再びお盆の上のお猪口に手を伸ばすが、先程飲み干してしまったことを思い出して徳利に手の向きを変える。徳利のくびれた部分を摘み上げるようにしてお猪口に傾けると、一口分にも満たない量のお酒が寂しく零れ落ちてきた。
「……えっ、もうないの?」
十五分程浸かっている内にもう半合を飲みきってしまったようだった。血液の巡りが良くなっているせいかアルコールの回りも少し早いように感じる。手早く残りのお酒をお猪口から飲み干すと、お盆を手に早々と湯船から上がった。部屋への帰り道に調理場へ寄ってまた半合分燗して貰おう。そうだ、それがいい。
少しだけひんやりとしている無人の脱衣所に入り、大判の手ぬぐいで体を軽く拭いた後、水分が滴る髪を覆うようにして湿った手ぬぐいを巻き付けた。そして籐製のかごの中に入っている新しい肌襦袢をめくり、その下に隠しておいたブレスレットを左手首に着ける。硫黄を含む温泉水で変色すると困るので、入浴の際はさすがに外さざるを得なかったのだ。
等間隔に並ぶ石と鎖の感触を指先で確かめる。きっとまだまだ過酷な旅を続けているであろうその後ろ姿を思い浮かべ、あの人こそここでゆっくりと温泉に浸かるべきなのに、と溜息を吐いた。
(ヒロインの転落未遂と月島さんの首負傷は同時刻)
記憶おさらい用リンク
根室で鯉登と: 45: 裏切りとヌーマイトはダーク
宇佐美と初対面: 17: 跳ねるラルビカイトはマッド