Chapter 7: 樺太留守番編
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「生き埋め刑か」
鯉登少尉がぽつりと呟いた。
後ろ手に縄で繋がれた樺太アイヌの男が連行される様子を見送りながら、俺は目を潰した上で生き埋めにするというその刑罰について考えた。どちらにせよ何も見えない暗闇の中で、刻々と低下してゆく酸素濃度を身を以て感じるのだろう。最終的に死に至るまでどれくらいの時間が掛かるのだろうか。
「刑罰であっても直接的な殺人をさけたいのだろうな」
「それだけ彼らにとって、殺人は不浄で忌み嫌うものなんでしょう」
自分で口にしたその言葉が、どこか離れた場所から聞こえてくるような錯覚を覚えた。不浄の行いによって吊るされる筈だった自分の首はへし折れておらず、未だにしぶとく酸素を通し続けている。果たして人殺しをわざわざ生かす価値なんてあるのか。
『価値がないなんて、言わないで』
監獄突入後の明朝、杉元の病室で彼女が言った言葉が胸に蘇った。彼女は俺の手を胸元に導いて、静かに上下する心臓の上に乗せた。衣服越しに感じた円状の小さな無機物の凹凸――あれは確かに腕飾りのようだった。今でも彼女の胸元にあるのだろうか。もしそうならば、と考えると妙に安心した。
あれは自分が失くしたもの、捨ててきたものを象徴しているような気がしていた。まるで切り離したい自分の一部を彼女に預けているような感覚だった。いつかその一部を自分の胸の中に返すことになるのかもしれない。諦めではなく受け入れることを知る日が来るとしたら、ずっと目を逸らし続けてきたその痛みと対峙する日が来るとすれば、それは俺が彼女の下に戻った時なのだろう。
『生きましょう、月島さん』
俺は自分の心臓に手の平を当てる。厚い外套越しでも僅かに分かる程度にはきちんと動いているようだった。しかし、これがいつまで動き続けるのかは分からない。どこにも行かないと、必ず待つと言った彼女が本当にそこで待っている確証もない。俺も彼女も、いくら自分たちがそう願おうと、意思に反することなどいくらでも起きる。だからこそ自分には約束など口にできる筈がなかった。
名前、と頭の中で彼女の名前を呼ぶ。彼女は違うんだと、あの子のようにはならないと確証が得られるまでは、その胸元に自分の一部が今でも共にあるかもしれない、というぼんやりとした希望だけで充分な気がした。そんな確証を持てる日が本当に来るのかどうかは未だに分からなかった。
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『名前』
それはいつもの浮上するような目覚めとは違って、まるで急に催眠術を解かれたような覚醒だった。見慣れた宿直室の天井が見える。鎮静剤のお陰で脳が休まったのか、頭はすっきりとしていた。
視界に指先が入ってくる。私のこめかみの辺りが優しく拭われた。そうだ、私はシアターの扉を押しながら泣いていたんだ。その指先の持ち主へと視線を向ける。西日が差し込む部屋のベッドサイドに鶴見中尉が腰掛けていた。
「怖い夢でも見たか」
「…怖くはありませんでしたよ」
ただただ胸を抉るように切なく、長い長い夢だった。そして私はそのラストシーンまでようやく辿り着いた。流れ始めたエンドロールをしかとこの目で見たのだ。
「気分はどうだ」
「悪くないです」
思わず薄っすらと笑みが溢れた。私はまだここに居て、身動きする度にぎしぎしと音を立てる旧式のマットレスの上で寝転んでいる。鶴見中尉の手が私の額に移動し、そのまま横髪を撫で付けるようにゆっくりと側頭部に向かって動いた。
「来週にでもここを離れなさい」
鶴見中尉は私の頭を撫でる手を止めずに穏やかに告げた。
「宇佐美上等兵と二階堂一等卒を登別へ向かわせる。同行するといい」
登別、その地名を頭の中で繰り返す。ネットや旅行雑誌で何度も見たことのある名前だった。そんな場所に一体何をしに行くんだろうか。まさか囚人の目撃情報か何かがあって人員を派遣しようとしているのだろうか、だとすればなぜ私まで――悶々と考えているのがしっかり顔に出ていたのだろう、鶴見中尉は軽く苦笑した後に口を開いた。
「安心しろ、ただの慰安休暇だ」
どうや目的は純粋に温泉のようだった。冬の湯けむりに包まれる星空の下の露天風呂を想像し、ほんの少し自分の心が動いたのが分かった。しかし、そんな道楽目的の理由では尚更同行するわけにはいかない。いつになるか分からない帰りを待つ身として、そしてあまりにも不安定な心を持て余す身としては、できるだけ今の場所から動きたくはなかった。
額と側頭部を往復する鶴見中尉の手をやんわりと退け、随分軽くなった上体をベッドの上で起こした。
「おじさま、私は行けません」
しっかり目を見つめてそう告げた。鶴見中尉は私の目をしばらく見返した後、目を伏せながら溜息を吐くと軽く頭を左右に振った。いつもの演技っぽい仕草だった。
「私はお前が心配なんだよ」
掛け布団の上に置いた私の手に向かって鶴見中尉の手が伸びてくる。手の甲が労るように撫でられた。
「温泉にでも浸かってゆっくりするといい」
「そんなことしてる場合じゃ…」
私の反論を途中で切り上げさせるように手が強く握られた。そして私は理解する。これは提案ではなく、命令だと。
「お前にそんな疲れた顔をさせていると鯉登閣下に知れたら、申し訳が立たんからな」
未来の義娘だろう、と続けた鶴見中尉とこれ以上目を合わせ続けることができず、部屋の奥に置かれた円柱型の石炭ストーブへと視線をずらした。何度か瞬きを繰り返す。確かにあの夢を見た筈だったのに、部屋の中の景色は一瞬たりとも変わろうとしなかった。
「名前」
鶴見中尉に名前を呼ばれても、私はまだ自分の思考の渦に囚われたままだった。やはりラストシーンまで辿り着いたからなのだろうか。もう、連れ戻されることはないというのだろうか。
「あの時、一体何を見た?」
抽象的な問いに、ようやく私は鶴見中尉へと視線を戻した。変わらない黒い眼が私を見つめている。聡明なこの人ならば、診察室で私がよろめく直前に机へ目線を遣ったことくらい把握しているに違いなかった。
「…いえ、何も」
私の返答が嘘だと言うことにも気付いていないわけがない。それでも鶴見中尉は何も言わなかった。
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午前四時半、一階・階段下の物置のようなスペースに隠れていた私は、見張りの兵士が二階から降りてくる足音を頭上に聞いている。屋外のトイレへと向かうのだろう、兵士はそのまま正面玄関へと続く一階廊下の奥に消えていった。
手荷物はその場に残し、物音を立てないように階段を上っていく。二階の廊下突き当りから一つ手前の病室で立ち止まると、ノックもせずに隙間から体を室内に滑り込ませ、後ろ手にドアを閉めた。
「……名前さん?」
真っ暗な室内で私の名前を呼ぶ小さな声が聞こえた。コートの右ポケットからマッチ箱を取り出し、机がある方向へと歩きながら手早く手元で火を点ける。そのまま机の上に置いてあるオイルランプの芯に火を移すと、ベッドの上で横になったまま私を見つめているインカㇻマッさんの頬が薄オレンジ色に照らされた。
登別行きを命じられてから一週間弱、療養を名目に私は病院から追い出されていた。そして出発当日の今日、周りの目を盗みながらなんとか侵入することに成功したのだった。
いつもの看護婦白衣ではなく、紺色のロングコートを着用している私をインカㇻマッさんは含みのある目で見つめると、ゆっくり上体を起こして両足をベッドサイドに垂らした。もちろん彼女は私がここを離れようとしていることに勘付いているようだった。
「本当にごめんなさい、お世話するって谷垣一等卒と約束したのに」
私はそう告げ、インカㇻマッさんの隣に腰を下ろす。宿直室と同じ旧式のマットレスがぎしりと音を立てた。
「私は大丈夫です。占いにもそう出ていますから」
インカㇻマッさんは右手で優しくお腹を撫でながら答えた。妊娠約六ヶ月になるその膨らみはなだらかに丸く、数日見なかった内に少し大きくなっている気がした。あの刺し傷が少しでも下にずれていなくて本当に良かったと思う。私はゆっくりと彼女のお腹に左手を伸ばし、脇腹の辺りを軽くさすりながら口を開く。
「この子が生まれてくるまでに、必ず戻って来ますね」
インカㇻマッさんが言うように、もし私達に縁があるとしたら、私は看護婦として、そして友人として出産に立ち会ってみたかった。同じ待つ者として彼女の側に寄り添っていたい。
不意にインカㇻマッさんの手が、私の手の甲に添えられた。
「名前さん、次回お会いする場所はここではありませんよ」
微笑みながら告げられた不思議な予言には妙な説得力があった。まるで断言するような口ぶりに少し驚いた私は、ちょっとだけ疑いを含んだ視線をインカㇻマッさんに向ける。
「そんな事まで分かるんですか?」
「あなたと再会する場面を、一度夢で見たんです」
彼女は夢で見たことを百パーセント信じているようだった。そんなこともあるのか、と考えながら私は目を伏せる。彼女が見たのは未来を告げる夢、対して私が見たのは過去を告げる夢。それらの信憑性を今確かめる術はないけれど、占いを信じない筈だった私も少しずつ見方を変えざるを得ないようだった。
「不思議ですねぇ」
「そうですねぇ」
独り言のような私の呟きにインカㇻマッさんは小さく笑いながら同調した。狭い病室に響くひそひそ声が空気の中に消える頃、彼女は私の手の甲から手首へと触れる場所を移動させ、先程とは異なる、冷えたガラスのような声音で私の名を呼んだ。
「名前さん」
インカㇻマッさんの表情は真剣だった。
「どうか"水"にお気を付け下さい。水難の相が出ています」
私は言いかけた言葉を喉の奥に飲み込んだ。今から二時間もしない内に、船に乗って旅立つなどと言える筈もなかった。私の手首を軽く撫でるインカㇻマッさんの指先が、数ヶ月ぶりにあるべき所へと戻ったブレスレットの石を弾くように突いた。
「素敵な腕飾りですね」
看護婦としての役割からしばらくの間遠退くことになるため、今朝からまた手首に着けることにしたのだった。慣れない異物感が少しだけ照れくさい。
最後にこのブレスレットを手首に着けた日を思い出す。あれは八月の早朝、朝日に照らされた町並みと小樽港を見渡す小高い丘の上で、私は指でフレームを作り、その長方形の中に切り取ったパノラマを収めた。
『ここに来たかったんです。月島さんと一緒に』
最初のさよならの直前に私が言ったなんとも能天気な一言が頭を過ぎる。そして月島さんの手がこのブレスレットを私の手首に巻きつけ、留め具を鎖に噛ませた。いつかもう一度二人であの場所に行けるだろうか。あんなに美しい場所を、悲しい思い出の象徴にしておきたくなんてなかった。
記憶おさらい用リンク
月島と病室で: 55: 沈殿したラルビカイトはマッド
思い出の丘の上で: 40: 降るラリマーはレイニーブルー