Chapter 7: 樺太留守番編
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ある程度広さのある診察室、その床に広げられた何枚もの刺青人皮。それらの合間を縫って歩く鶴見中尉は、手に持った棒の先で人皮をずらしたり回転せたりして暗号の線と線を繋ぎ合わせようとしている。その様子を見つめる宇佐美上等兵と私は、お互い何も話さずに薬品棚の前にただ突っ立っていた。
「暗号解読の歴史は、解読者を脳病院送りにしてきた歴史でもある」
まさに今自分が解読を試みているにも関わらず、鶴見中尉の声はどこか他人事のような響きを含んでいた。果たして鶴見中尉がそうなってしまう事なんてあるんだろうか。囚人とはいえ生きた人間を殺し、その生皮を剥いで作ったパズルのピースを棒で突付きながら見下ろす彼がさらにこれ以上狂気に走るなんて、私には想像がつかなかった。思わず口元を押さえる。気分が良くない。
「解読に取り憑かれて、日常生活に支障をきたすのだ」
一瞬、もしかして鶴見中尉は私の事を比喩しているのかと思った。だるい両足の感覚が次第に薄れていく。あの夢と奇妙な"幻覚"のせいでもう二週間以上まともに睡眠が取れていなかった。体は猛烈に休息を求めているのに、恐怖に支配された頭がそれを許さないのだ。
「名前」
眠い、眠りたくない。見たい、見たくない。知りたい、知りたくない。堂々巡りの考えが頭に浮かび上がっては消えていく。一つだけ確かなのは、私は現代に戻りたくないという事だった。
「…名前さん?」
あの夢を見ることで例の連れ戻されるような"幻覚"が引き起こされるとしたら、私は眠るわけにはいかない。あれが本当にただの幻覚だとしたらまだ救いようがあるのかもしれない。だが、あれは鯉登少尉にまで見えていたのだ。それでも私はあの現象を敢えて"幻覚"と呼び続けることにした。
「こら、名前」
「…すみません、なんでしょうか」
何度か呼ばれていたのに反応が遅れてしまった。慌てて顔を上げると、こちらに振り返った鶴見中尉が私を見つめていた。
「顔色が悪いな」
ゆっくりとした瞬きの後に再び姿を現したその黒い眼が私を見通している。
「ちゃんと休んでいるのか」
「…ご心配なく」
思わず目を逸らして簡潔に返事をした時、特に意識せず視線を向けた机の上に、ある筈もないコンピューターの黒いスクリーンが見えた。縁に蛍光色の付箋が何枚かくっつけられており、すぐ横に置かれたペン立ては去年同期から貰ったハワイみやげのマグカップだった。紛うことなき、会社の私のデスクだった。
膝から力が抜け、ふらりと後ろに傾いた体が薬品棚にぶつかる。ガシャン、とガラス戸の大きな音が部屋に響き、崩れ落ちそうになる私の体を支えるように横から宇佐美上等兵の手が伸びてきた。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
「ッ触らないで!」
「わっ、危ないなあ」
私の肩を掴もうとする手を振り払うと、慌ててその手を引っ込めた宇佐美上等兵が不機嫌そうな顔をした。もう足に力が入らない上に、ひどく頭も混乱している。そのまま床にへたり込んで強く目を瞑った。ブーツの足音がこちらに近付いて来る。
「どうしたんだ、名前」
鶴見中尉の声が聞こえた直後、肩に手が乗せられた。私はその手も乱暴に払い除ける。短い溜息が聞こえた。
「宇佐美上等兵、家永を呼んで来い」
ばたばたと小走りで部屋を出ていく足音と、すぐ側で聞こえる布擦れの音、そして私の切れた息の音が頭の中で反響していた。ゆっくりと目を開け、恐る恐る机の上へと視線を遣る。何も置かれていない。ひり出すように長く息を吐いた。
「どうして嘘を吐く?」
私の側に片膝を突いてしゃがみ込む鶴見中尉はそう言うと、上下する私の肩にもう一度手を置いた。それを振り払う気力はもう残っていなかった。
「ちゃんと寝てないんだろう」
「…眠くないから眠らないだけです」
嘘は言っていない。いくら気分が悪くなろうとも、頭がふらふらして膝に力が入らなくても、私は眠くなんてなかった。廊下から急ぎ足の足音が聞こえてくる。視界の端に映っているドアの下部が開き、膨らんだ黒いスカートの足元が室内に入ってきた。
「どうされましたか?」
「鎮静剤を打ってやってくれ」
鶴見中尉の言葉に思わず顔を上げた。立ち上がろうとして床に突いた手を強く握り込まれ、そのまま引っ張られる。私の背中が鶴見中尉の胸元に寄り掛かったと認識した瞬間、後ろから肩を羽交い締めにされた。
「必要ありません!」
「心配するな、少し落ち着いた方がいい」
「いやっ、放して下さい!」
気力を振り絞って腕を振り回すが拘束は解けそうになかった。家永先生は器具を乗せたワゴンの上からシルバーのトレーを取り上げると、私の側にしゃがみ込んでトレーを床に下ろした。
「…本当によろしいんですか?」
「ああ、構わん」
赤い唇から放たれた質問は私にではなく鶴見中尉に向けられたものだった。それでも私は家永先生の濃いまつげに縁取られた眼をじっと見つめて、訴えかけるように必死で声を紡ぐ。
「お願い、やめて、眠りたくないの」
家永先生はちらりと私の顔を見たが、すぐに手元へ視線を戻した。瓶に刺さった注射針がシリンダーに薬品を吸い上げていく。鶴見中尉の右手が私の肩から離れ、ゆっくりと私の目元を覆い隠した。
「おやすみ、名前」
首筋に鋭い痛み感じた。冷たい感覚がじんわりと広がると共に、体から力が抜けていく。
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いつもと同じ海水、天気の良い空、波もほとんどない。仰向けに浮かびながら、降り注ぐ温かな日差しに目を細めた。夢の始まりはいつでもこんな風に穏やかである。
不意に水の撥ねる音が聞こえた。いつもの岩場へと視線を向けたが、そこにはあの子の姿も彼の姿もなかった。どうやら今回のストーリーはいつもと何かが違うらしい。そのまま波打ち際沿いに視線を動かしていくと、砂浜の方で小舟を海原へ押し出す彼一人だけの姿が見えた。着崩れた着物とたすき掛けの袖から覗く体付きは以前よりも良くなっているのに、その表情はくたびれていた。
彼は長い竹の棒で浅瀬の底を突きながら小舟を動かし、複雑に連なる岩々の方へと移動していく。棒の先で水中の岩陰を探るように確認している彼は何かを探しているように見えた。小舟の動きによって、今まで規則的だった波のリズムに少しの乱れが生じ、その揺れが海面を伝って私の下へも届いて来た。まっすぐな髪が海中で煽られる。
彼が戦争から帰ってきた時、既にあの子はどこかへと去ってしまっていた。きっとそれが、このストーリーのラストシーン。
私は仰向けの体を
凪いだ海原は泳ぐ私の邪魔をしなかった。スイスイ、と言う程ではなかったが、特に苦労をすることもなく小舟の側に辿り着くと、その縁に軽く右手を掛けて体を安定させた。その際に丸い桶型の船体がほんの少しだけ揺れたが、こちらに背を向けたままの彼は気付いていないようだった。
「月島さん、何を探しているんですか」
見上げる背中に向かって声を掛ける。彼は振り向かない。
「ねえ、基さん」
何度名前を呼んでも聞こえていない事くらい分かっていた。ここは彼の中の世界で、私はただの傍観者だ。スクリーンに向かって手を振っても役者が手を振り返してくれないように、ここに居る私と彼もまた、分かたれたところに存在しているのだった。易々と辿り着いた筈なのに、彼は私の声が届かない程遠いところにいて、私の知らない何かを探し続けている。
彼が竹の棒で水底を突くと小舟がまた動き出した。私が小舟の縁から右手を放した途端、支えを失った体が水底に向かって沈んでいく。まるでエンドロールが始まった瞬間我先にとシアターを出ていく観客のようだ、と思った。
瞑っていた目を開けた。正面には無音のままつらつらと文字を流す大きなスクリーンが見える。私は肘掛けに両手を突くと早々に座席を立ち、誰も座っていない座席の前を通り抜けていく。そのまま暗い通路をシアター後方に向かって上る。そして重厚な観音開きのドアへと手を掛けた瞬間、どうにも後ろ髪を引かれる思いがして一瞬だけ振り返った。
空っぽのシアターで、エンドロールを流すスクリーンだけが煌々と映写機の光を反射している。最後列からスクリーン側に向かって三列目、右奥の辺りに誰かが座っているのが見えた。逆光でも分かる程に見慣れた坊主頭のシルエットがそこにあった。
私はドアへと向き直る。両手で重いドアを押し開けながら、エンドロールが終わった後も座席に座り続けているであろう彼の姿を想像すると、両目から涙が静かにこぼれ落ちた。
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