Chapter 7: 樺太留守番編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「どうして何もお尋ねにならないんですか?」
その薄藍色の唇に近付けようと構えたスプーンをぴたりと止め、唐突な質問を投げかけた後、微笑んだままこちらを窺っているインカㇻマッさんを見つめた。スプーンをお粥の入ったお椀の中に一旦戻して、あらためて彼女の勘の良さを恐ろしく思った。それが本当に勘なのかは分からないが。
「…何を、でしょうか」
別に白を切りたいわけではなかったが、私は思わずそのように質問を質問で返した。彼女が何について言っているのかには見当が付いていた。ベッドの上で少し体を起こせるようになったインカㇻマッさんと、ここ数日の間で話す機会がぐっと増えているにも関わらず、私はひたすらその話題を避けてきた。
「あなたが一番お聞きになりたい事を、です」
やはりこの眼だ。見透す眼。私はインカㇻマッさんと顔を合わせる度に『あなたは間違っていませんよ』の、その本当の意味を問い質したい衝動に駆られては結局怖気付いて、差し障りのない天気や食べ物の話を振ってきた。
本当に聞いてもいいのだろうか。私にその覚悟があるんだろうか。勿体振るようにゆっくりと口を開いて、ためらいながらもその質問を声に出そうとした。
でも、その言葉の解釈が私の思い違いだったとしたら、どうすればいいんだろう。
「…あの、どうして私の事を知っていたんですか?」
本当に聞きたかった問いは喉の奥に消えた。私にはまだその覚悟がなかったんだと思う。代わりに上ずった声に乗せて口に出したのは、私が二番目に聞きたい事だった。インカㇻマッさんは少し目を丸くして驚いたような仕草を見せたが、すぐに目を細めて優しげに口を開いた。
「以前、鶴見中尉の自宅にお邪魔したことがあります」
今度は私が目を丸くする番だった。私にとってのインカㇻマッさんは、三百キロ以上離れたこの網走の地で初めて出会った人間の筈で、まさか知らないところで鶴見中尉と繋がっていたとは微塵にも思わなかった。
「あなたはご在宅ではなかったようですが、確かに不思議な気配…予感のようなものを感じたんです」
インカㇻマッさんは何かを思い出すように斜め上の
「…そんなに変ですか、私?」
「あらごめんなさい、気に触りました?」
インカㇻマッさんは、ふふふ、と小さく笑い声を上げた。
「では、特別と言い換えましょう」
天井の角に向けられていた彼女の視線が私に向けられる。親しみの気持ちが込められた温かな眼だった。
「名前さん、私を生かして下さってありがとうございました」
布団の端からゆっくりとインカㇻマッさんの手が出て来た。その手の甲はしばらくの絶食のせいで少し痩せていたが、今週から重湯や三分粥を始めたので、次第に穏やかな血色を取り戻しつつあるようだ。一度は動きを止めた体に私が再び命を吹き込んだ。褒められることなど特に無かった平凡な人生の中で、唯一私が胸を張って誇れる行いだったと思う。
スプーンに添えていた手を離して、インカㇻマッさんの手を持ち上げるように下から重ねる。私達は目を合わせて微笑み合った。
「とても興味深い歌でしたね」
「…えっ、聞こえてたんですか?」
「ええ。接吻もしっかり覚えていますよ」
心肺停止後も数分間だけ聴覚や思考能力は停止しないらしい、という話は聞いたことがあったが、まさか本当にそうだったとは。"接吻"という表現に違和感を覚えて苦笑いしていると、インカㇻマッさんは握った手に少し力を込めてから口を開いた。
「あなたとは、きっとご縁があるんでしょうね」
私は重なり合った手に視線を向けて、彼女がそう言うと本当にそんな気がしてくるなあ、とぼんやり考えた。
「是非恩返しをさせて下さい」
「いいんですよ、そんなの」
「探しものがあれば、私が見つけるのをお手伝いしましょう」
再びインカㇻマッさんを見ると、彼女はどことなく得意げな表情を浮かべていた。確かに占い師の本領が発揮できそうな恩返しの方法である。しかし、今のところ探しものはないと思う。ブレスレットもずっと首からぶら下げているので、紐が千切れたりしない限り失くすこともないだろう。
「じゃあ、何か失くした時はすぐに言いますね」
「いつでもどうぞ」
ただの軽口のような楽しい会話。今後私が何か失くした時、本当に彼女にその在処を尋ねるだろうか。確かに最近、まるで偶然のように不思議な事は度々起こるけれど、それでも私は占いを信じるのだろうか。少しだけ考えを巡らせて、すぐに切り上げた。
インカㇻマッさんから手を離し、お椀に突っ込んでいたスプーンを再び握った。ぬるくなったお粥をさじの先で少量すくうと、その薄藍色の唇に近付ける。
「でも、今は元気になることだけを考えて下さい」
「はい。そうします」
迎え入れるように開けられた口にゆっくりとスプーンを運んでいく。時間をかけてお椀の半分を食べさせ終えた頃、インカㇻマッさんは急に眉を寄せて顔を逸らした。
「もういいんですか?」
「…ちょっと、気分が悪くて」
慌てて手ぬぐいを差し出すと、彼女はそそくさと受け取って口元を押さえたまましばらくじっとしていた。胃の損傷があったので悪心は仕方ないのだが、なぜか女の勘が頭の中で違う原因を告げていた。手に持ったお椀を机の上に置き、インカㇻマッさんの耳元に口を近付けて小さな声で質問をした。
「あの、違ってたら申し訳ないんですけど…」
------
完全に脱力した両腕が浮力でゆらゆらと揺れながら水面に漂っている。ここへは毎晩訪れているのか、もしくはしばらくぶりだったのか、もう感覚が曖昧になるほど私の意識は海水に溶け込んでいた。
いつもと同じ岩場に少し背の高くなった二人の影が見える。あの子の巻き毛は一つに結われていて、前回見た時よりもぐんと大人っぽくなっている印象を受けたが、恥ずかしそうに頬を染めて目を伏せる仕草は全く変わっていなかった。
隣に立つ彼の口が動くのが見える。こんなに遠く離れているのにそれが分かるのは、やはりこれが夢だからなんだろう。きっと二人に私の姿は見えていない。ここでは、私はただの傍観者でしかない。
『戦争が終わったら、一遍だけおめのために帰るから』
きっと今の私よりも若い彼の表情には、まだ未来に対する希望が見て取れた。あの子の耳元に近付いていく彼の口元を目で追いかける。
『その時に―』
思わず強く両耳を手で押さえた。飛沫が飛び、均衡の崩れた体がゆっくりと沈み始める。空気の粒が上昇していく。私の息の一粒一粒が漏れ出して、水の中に溶け込んで消えていく。
そして体がどこかに着地した。背中に感じるスプリングマットレスの感触が揺れている。
短く切れた息を何度も吐き出す音が、耳を塞いでいるせいで頭の中に反響し、実際の音量よりも大きく聞こえていた。自分の意思ではないにせよ他人の記憶を盗み見している立場なのに、勝手にこんなに傷付いて一体私は何がしたいんだろうか。こんなもの見たくない。これ以上知りたくない。そう強く思う反面、同じくらい強くラストシーンを渇望していた。どれだけぼろぼろになっても、この苦しみをあの人も味わったのだと思えば耐える価値があるような気がした。
夜明けが近いのだろう、涙で滲む視界は少しだけ明るい。水滴を払い落とすように何度か瞬きをすれば、まるで点滅するように木目の天井と真っ白な天井が交互に映った。私は瞬きを止めて目を瞑った。瞼にぎゅっと力を入れて、遠くから聞こえてくるトラックの走行音を無視する。
毎度この夢を見るたびに、心が焼けただれるように痛むたびに、こうやって私は連れ戻されそうになる。少しずつ長くなっていく"滞在時間"がただただ恐ろしかった。これは私への罰なのだろうか。あの人の前では理解のあるような顔をして、二度目の恋だったらなんて、そんな白々しいことを言ってしまった私への戒めなのだろうか。
あの日の口付けは確かに希望をもたらした。はじめちゃん、そう呼んだことが切っ掛けだったとしても、はっきりと伝えた筈の気持ちに返事をして貰えなくても、それでも僅かな兆しだけを信じて待てると思った。日に日に広がっていく染みが心を変色させていく。その侵食をなんとか食い止めながら、私は理由を探し続けるしかなかった。
部屋が、しん、と静まり返る。ゆっくりと瞼を開けて木目の天井を恐る恐る確認した瞬間、もう一度涙が流れ出てきた。
あの人が私を見る時、あの子と私を重ね合わせていることはもう分かっている。それを止められないことも、私にはどうすることもできないことも分かっている。でも、あの人があの子のことを思い出す時、一瞬でも私の姿がそこに過ぎることはあるのだろうか。
暦は既に十二月へと入った。先遣隊が出立してからもうすぐ二ヶ月が経とうとしている。週に一度ほど鶴見中尉宛に電報が届くことから、まだ彼らは日本領内に居るようだった。
凍るような深い雪に包まれているであろう樺太の地を想像する。あの人は、今誰のことを考えているんだろう。
(先遣隊の灯台到達は網走潜入の2ヶ月後、12月上旬)
記憶おさらい用リンク
二番目に聞きたい事: 53: 唇のカイヤナイトはプルシアンブルー
蘇生: 54: 縁取るジルコンはレッド
一番聞きたい事: 55: 沈殿したラルビカイトはマッド