Chapter 6: 網走編
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十月の朝にしてはかなり冷え込んでいる。湿気た冷気を含んだ風が吹き付ける度、見えないくらいに細い針で軽く突付かれるような、ちりちりとした刺激が頬に走った。
網走川のほとりから水面の駆逐艦を見上げる。この船が彼らを樺太へと連れて行く。無事アイヌの少女を見付けて帰って来るまで、どれくらいの時間がかかるのだろうか。誰も答えを知らない。
少し離れた場所で話している三人の姿に視線を移す。鶴見中尉が鯉登少尉に何か話す度、鯉登少尉は月島さんの耳元で何かをささやき、月島さんが鶴見中尉にその何かを告げる。見慣れたコメディのような様子を、出立が刻一刻と迫る今この時に眺めるのは、実に妙な感覚だった。
軍帽、逞しい首、フード付きのコート、背嚢、背負った小銃、ボタンの付いた脚絆の足元。私が幸せにしたいその人は、私にさよならすら告げてくれない。本当は、病院の外で見送りを済ませてしまうつもりだった。最後まで縋るように追い掛けたところで、待つ長さと辛さは決して変わらないのは分かっている。それでも川岸までわざわざ出て来たのは、あの朝以来病院に姿を現さなかった月島さんに挨拶をするためだった。
川岸に着けた小艇には櫂を持った兵士が既に待機している。鶴見中尉に向かって敬礼をする月島さんと鯉登少尉の背筋は、ぴしりと伸ばされていた。もう出発するんだろう、今あそこに走っていって、その肩を掴んで振り向かせれば何かが変わるだろうか。本当にそうだろうか。
私は川岸に背を向け、誰にも告げないまま元来た道へと引き返す。最後まで縋るように追い掛けたところで、待つ長さと辛さは決して変わらない。なら黙って待てばいい。足早に生い茂る木々の下を通り抜け、数メートル先から家屋が立ち並ぶ道へと入っていく。『あなたは間違っていませんよ』、本当にそうだろうか。私はぴたりと歩みを止める。
「鶴見さん」
背後から私を呼ぶ声が聞こえた。私は証明したかった。本当に間違っていないのか、それだけを確かめるために声がする方へと振り返る。
小走りでこちらに近付いてくる月島さんの肩の後ろで小銃が揺れている。数歩手前からペースを落として私の正面で立ち止まり、寸分の息の乱れも感じさせないその口が開かれる。
「鶴見中尉殿が、あなたから胸骨圧迫法を教わっておくようにと」
淡々と告げられた業務上のお願いに、私は思わず苦笑した。
「こんな、ぎりぎりにですか?」
「すみません、本当に今さっき命じられたものですから」
「…分かりました。手短に説明します」
右手の人差し指を掲げると、月島さんの視線がその指先に向けられた。私は指をそのまま彼の胸部の中央へと移動させ、軽くそこを突いた。
「上半身のちょうど真ん中あたり、ここです」
「左胸、ではないんですか」
「左を意識すると左に寄りすぎてしまうらしいんです」
月島さんは顔を俯かせて私の指が当たる自分の胸元を見下ろしている。私は、その人差し指以外を握り込んでいた手を広げ、手の平全体をコートの上に当てた。そして少しだけ手の位置を上下に動かしながら、着込んだ衣服の下で打っているはずの鼓動を探す。
「ほら、ありました。意外と真ん中でしょう?」
「…そうですね」
軍帽のつばで隠れた目元、表情無く動かされた口元が小さく返事をした。私はその動きをちらりと見遣り、口が閉じられるのを見届けてから、視線を自分の手元へと下げた。
「ここを、一秒間に二回より少し遅いくらいの間隔で押し込みます」
「どれくらいの強さで、ですか」
「胸部の厚みの三分の一を凹ませる程度です。強すぎても、弱すぎてもいけません」
衣服に遮られながらも、私の手の平に伝わる比較的遅いリズムに感覚を集中させる。
「月島さんは、心拍数が低めですね。体が強いから」
アスリートなど、強い心臓を持つ人の心拍数は標準よりも低いらしい。一度の収縮で送られる血液の量が一般人より多いので、何度も打つ必要がないのだ。
「さっき走ってたのに、ぶれませんね」
「そういう訓練を受けてますから」
この人はぶれない、強い人。この人はきっと無事に帰ってくる筈だ。無事アイヌの少女を奪還し、金塊の謎を解き、最終的にすべて丸く収まる。きっと私がいなくても。
私は数日前に見たあの夢を思い出す。私は薄々気付いていた。あの夢を見るのは初めてじゃなかった。一度すべて見たことがあったのに、何故か忘れてしまっていた誰かの古い記憶の断片を、少しずつ思い出すように覗き見していた。二つの影が見えていたのに、私の意識が常にあの子にしか向けられないのは、その隣にあった存在に気付きたくなかっただけだ。
コートに当てた手に力が入る。指先が曲がり、掴まれた生地に皺を作った。
「はじめ、ちゃん」
私の口が、あの子がそう呼んだ名前を呟いた瞬間、月島さんの肩がぴくりと動いた。手の平で計る心拍数が上昇していく。
「…どこで、それを」
喉の奥から絞り出すような問い掛けが月島さんの口から漏れた。ああ、やっぱりそうなんだ、隣にいたのはあなただったんだ。私はその名前を口にしてしまった事に、心の底から後悔した。
一度見た筈の、彼の記憶のその先はまだ思い出せていない。あの岩場に佇む二人のその先に何があったのか、紆余曲折は分からずとも、もうあの子が彼の隣にいない事は明白だった。月島さんと私を隔てる一枚のレンズ、きっとそこには消えたあの子の残像が今でも写り込んでいる。
私は証明したい。その名前を呼ぶ初めての人に成れなくても、戻ってきたあなたを笑顔で迎えることができると。心臓の上に当てた手を外し、大きな肩周りを包み込むように両手を月島さんの背中に回した。手の平に触れる背嚢のざらざらとした綿の生地も、腕の内側に当たる小銃の硬さも、引っ括めて抱きしめる。
「私はどこにも行きませんから」
コートの肩口に埋めた私の口から漏れ出す言葉は、なんとも格好悪く縋るような響きを持っていた。
「お願い、私を見てよ、基さん」
恋は二度目なら、もう一度立ち止まって、もう少しだけ器用になって欲しい。そしてできるなら、この行き止まりの向こう側まで私を連れて行って欲しい。
私の首筋を月島さんの小さな溜息が掠め、縋り付いた肩がかくりと下がった。体の横に垂らされていた両手が私の腰へ添えるように回されたものの、ただ触れているだけで力は入っていない。
「あなたは本当に言う事を聞かない人ですね」
呆れたような声音で叱られているというのに、私は肩に回した腕をさらに持ち上げ、その太い首に絡ませた。きれいに剃られたばかりの頬と横顎、石鹸の香りに隠れたほのかな月島さん自身の匂い。やっぱりこの人なんだ、私はそう再確認した。私は間違っていない。
「いつまでこんな事を続けるつもりですか」
「…あなたの気が、変わるまで」
「気が変わったところで、どうにもなりませんよ」
「…私が、どうにかします」
つらつらと私の口をついて出る都合の良い言い訳が、月島さんの肩口に染み込んでいく。出任せだと思われても仕方ないかもしれない。確証も説得力も持ち合わせていない私にできる事、それは留まり、待ち続ける事だけだ。
「好きです、基さん」
今まで告げることの無かったはっきりとした思いを、私は今震える声に乗せてその耳元へと届ける。腰に添えられた月島さんの手が、すでにぴったりくっ付いた体をさらに沈み込ませるように私の体を抱いた。
「俺が戻るまで、待つんですか」
「はい、待ちます」
「本当に、どこにも行きませんか」
「はい、どこにも行きません」
あなたが帰ってくるその日に私はきっと証明できる。私は約束を破らない事を、そして私がこの時代に来た理由を。
月島さんの右手が腰から離れ、私の首の裏へゆっくりと移動した。こんな寒い朝でも温かい手の平に首を預けるようにして、私は顔を上げる。少し乾燥した唇が私に近付き、こんなにも回り道した五回目の口付けを、目を閉じて受け入れた。
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深夜、宿直室で目が覚めた。すぐにまた寝入ってしまおうと布団の中で何度か左右に寝返りを打ったが、下腹に感じる重痛いあの感覚に気付き、顔を顰めながら目を開いた。今月もまた来たか。
面倒くさいがお手洗いに行かなければ、と布団を横に捲り上げ、暗闇の中で両足をベッドから下ろす。裸足の足裏に、あのカーペットの感触が広がった。
「―ッ、!? 」
声にならない悲鳴を上げ、すぐさま両足をベッドの上に戻した。急に倍の速度で動き出した心臓に釣られて、肺が酸素を取り込もうと必死に呼吸を促す。おかしい、私は帰って来た筈だった。
枕元に向かって手を伸ばし、敷布団の上を叩くように手探りで四角いプラスチックを探す。枕の下やマットレスの隅まで手を這わせたが、柔らかい綿の生地以外何の感触にも触れることはなかった。
意を決して再び足をベッドから下ろす。右足の先から少しずつ硬い木の床へと徐々に着地させていく。最終的に両足の裏をペタリと床に付け、その冷たい感覚を頭に染み込ませながら立ち上がった。
「……そんな筈、ない」
机の上に、灯りの消えたオイルランプの輪郭が見えた。その隣に転がるマッチ箱を手に取ると、震える指で一本取り出し、目を瞑ったまま擦った。
シュボ、と小気味の良い音と、瞼越しに映る明るいオレンジ色の光。私は目を開ける。今や見慣れてしまった、私が寝泊まりしている宿直室の狭い室内が灯りの色で着色されていた。
勘違いも甚だしい。私はどこにも行かないし、約束は破らない。