Chapter 1: 導入編
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十五分ほど馬橇に揺られると兵舎の前に到着した。昨晩と同様に見張りの兵士が二人入り口の側に立っている。昨晩は月島軍曹が見張りの兵士を一瞬建物内に呼び出し、その隙に鶴見中尉が私を連れて馬車へ乗り込んだため、兵士の中で私の存在を知るものはまだいないはずだ。今日も隠れて入ったほうがいいのか軍曹に尋ねようとしたが、軍曹は特に気にする様子もなく馬橇から降り、私に風呂敷を渡すよう言った。風呂敷二つを手渡して、軍曹は軽々片腕に抱えると、私に向かってもう片方の手を差し伸べた。多少バランスを崩しながらも軍曹の手を借りて地に足をつける。
「あの、私、本当に入っていいんですか?」
「構いません」
入り口に目を向けると、兵士二人はこそこそと耳打ちしあっていた。素性の分からない女が軍の建物に訪ねてくるなど稀なことなのだろう。月島軍曹が建物の方に向き直ると、二人は飛び上がる勢いで元の位置に戻って"気をつけ"をした。
入り口に近付くと、二人は月島軍曹に向かって敬礼をした。私を横目でちらちら見てくるのが気まずい。軍曹もそれに気付いているようで、二人に向かって、鶴見中尉殿のお客人だ、と告げて、そのまま通り過ぎた。
玄関で履物を脱ぎ、階段で二階へ上がる。おそらく昨日の部屋への道のりを辿っているのだろう。道のりの間にも何人かの兵士とすれ違ったが、軍曹はもう何も説明しなかった。昨日の部屋の前に辿り着き、軍曹が比較的大きな音で二回ノックする。
「鶴見中尉殿、いとこ姪御様をお連れしました」
ハキハキとした声で用件を告げる。すごく軍人っぽくて、ちょっときゅんとした。中から鶴見中尉の声で、入れ、と返事があった。
軍曹がドアを開け、先に入ってから内側でドアを押さえる。私は伏せた目を上げて部屋の中を見た。鶴見中尉は昨日と同じ椅子に腰掛けているのが見え、昨晩の光景が鮮明に蘇る。お入り下さい、と軍曹が急かすので、失礼します、と言ってから部屋に足を踏み入れた。
軍曹はドアを閉めた後、抱えていた私の風呂敷を手近な棚の上に置き、ドアの近くに戻って"休め"の体勢をとった。私も立っていた方がいいのかな、と所在なさげに突っ立っていると、鶴見中尉が片手で、掛けたまえ、と手前の椅子を指すので、遠慮なく掛けさせてもらう。
「買い物は楽しかったかね」
「はい、必要なものが買えました…おかげさまで」
「月島軍曹は役に立ったようだな」
「…はい、荷物を全部持っていただきましたから。何かお礼しないと」
軽く振り返って軍曹を見る。軍曹は目も合わせずに、いえ結構、とまたさっくりお断りになった。残念。中尉に向き直ると、私をニヤニヤと表現してもいいくらいの笑みで見ていた。あからさまなのでやめて欲しい。
「さて、今日足を運んでもらった理由だがー明日からここで私の手伝いをして欲しい」
「…あの、お恥ずかしながらこの時代の炊事洗濯はちょっとまだできかねるんですが」
「下働きをしたことがないことくらい見れば分かる。君は会社に勤めていたんだろう。具体的に、何をしていた?」
「経理職です。会計の補助業務ですね」
「丁度良い。勘定の手伝いと、私の秘書業務を任せよう」
毎日家で軟禁されることになるかと予想していたので、中尉の提案は意外だった。しかしよく考えてみると、私を家に軟禁すると常に誰かに監視させる必要がある。なにより自宅で住まわせている自分の親戚をわざわざ部下に監視させるなど、私の正体を公にしない限り、疑問が生じるはずだ。人員を別に割いたり機密漏洩のリスクを犯すよりも、常に人の目があり、かつ自分の目も届きやすい場所に居させるほうが効率が良いだけだということに気が付いた。まあからくりを理解したところで、どうせ私に拒否権はないはずだが。
「わかりました。面倒を見ていただいているので、喜んでお手伝いします」
「今は三等計手が旭川に召集されていてな。経理業務に関しては彼が戻ってから始めてもらう」
決まりだな、と言って、中尉は軽く肘置きを叩いた。
「よし、昼食がまだだろう。美味い蕎麦を食べに行こう」
勢いを付けて立ち上がると、コート掛けから襟元にファーのついたロングコートを手に取り、スマートに振りかぶって軍服の上に重ねた。あの額当てのインパクトが強すぎて霞みがちだが、鶴見中尉は意外とがっしりしているしスタイルも良くて、同年代であろううちの会社の課長なんかと比べたら、雲泥の差である。若い頃はさぞモテただろうな。
月島、名前の荷物を持ってやれ、の一言で、軍曹はまた私の風呂敷を運び出した。軍人さんにこんなただの買い物の荷物持ちをさせるなんて本当に申し訳ないし、まあ軍曹からすれば命令に従っているだけなのだが、それでも私はきゅんとしてしまう。
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近くのお蕎麦屋さんで三人で昼食を済ませた後、鶴見中尉は一人で兵舎に戻って行った。では月島、よろしく頼むぞ、と去っていく背中を疑問でいっぱいの目で見つめる私に、月島軍曹は特に気にする様子もなく、ご自宅まで送ります、と告げた。
とぼとぼ無言で少し溶けた雪道を歩いて行くと、十分もかからない内に鶴見中尉の自宅に到着してしまった。兵舎からは意外と近いようだ。
玄関の引き戸を開けようとしたが扉がうまく動かない。よく見ると、取っ手の上に立派な錠前が掛かっていた。
「あれ、シヅさんいないのかな」
「鶴見中尉殿から鍵を預かってます」
月島軍曹がコートのポケットから鍵を取り出したので、私は邪魔にならないように斜め後ろに下がった。錠前を支えるのと鍵を持つので両手が必要だが、軍曹は器用に肘と脇腹あたりで風呂敷を挟み、解錠に取り掛かる。荷物持ちます、と手を伸ばすが、問題ないです、と一瞥される。慣れた手付きで鍵を開けると、引き戸を開けて私に入るよう促した。
私は大人しく中に入り、今日はありがとうございました、と挨拶しようと姿勢を正した。軍曹は玄関に入って後ろ手に引き戸を閉め、錠前を下駄箱の上に置き、風呂敷を玄関の一段上がった所に降ろすと、さらに自分も腰掛けてブーツを脱ぎ始めたではないか。
「え、あ、上がっていかれるんですか?」
「鶴見中尉殿が帰宅するまで家で待つようにとの命令でしたので」
ブーツを玄関の端にきれいに揃えると、風呂敷を再び抱えて我が物顔で中に入っていった。玄関に立ち尽くしたままの私は展開の速さにまだ追いつけないでいた。誰もいない家で、月島軍曹と、一つ屋根の下。念の為、今着けている下着がどんなものだったか必死で思い出す。よし、ピンクだ。