Chapter 6: 網走編
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「…信じらんない、こんなの」
散弾で吹っ飛ばされた筈のふくらはぎの組織がもう元に戻り始めている。刀による刺し傷・切り傷や一発の銃弾の銃創と違い、散弾は広範囲に着弾する。そのため着弾部位周辺の組織を抉り取ってしまうので、完治までにかなりの時間がかかると言われている上に、そのまま培養が上手く進まずに周辺から壊死してしまうパターンも少なくはない。
私は患部に顔を近付けて、そのきれいな赤い傷口をまじまじと眺める。化膿もしておらず、ただただ素早く健康に回復している。どうなってるんだろう、これ、本当に。
「…そんなに見られたら恥ずかしいんだけど」
ベッドの上に足を投げ出した杉元が照れた様子で顔を逸らした。どこに恥ずかしがる要素があったんだろうか。私はもう一度患部に目線を戻し、消毒液で濡らした綿で傷口を軽く突付いた。杉元は全く痛がる様子を見せない。
「あなただったら、手足がちょん切られても生えてきたりして」
「…冗談の趣味悪いぜ、看護婦さん」
杉元は低く苦笑いを漏らした。私は黙って衛生ガーゼを傷口に当て、その上から包帯を巻いていく。今は共同戦線を張っているとは言え、この逞しい足の持ち主が今までに沢山の兵士の命を、そして今回二階堂一等卒の手を奪った事には変わりない。博愛の精神、平等な看護とはこんなにも難しい。
「…なあ、包帯、ちょっとキツくないか」
「…あ、すみません」
思わず力み過ぎてしまっていたようで、巻き付けた包帯を一度すべて取り去り、最初から巻き直し始める。後からずれたりたわんだりしないよう注意深く手元に集中している私だったが、ベッドの枕側から杉元の視線が向けられている事がなんとなく気配で分かった。
「何か聞きたい事でも?」
目線は手元に向けたまま杉元に向かって尋ねる。足の傷の事、もしくは頭の銃創についてだろうか。私の手は寸分の狂い無く均等な厚みを保ちながら包帯を重ねていく中、杉元は爆弾級の質問を私に投げつけた。
「月島軍曹とイイ関係って本当?」
まるで専門分野外、しかもタイムリーに痛い所を突く質問に、私の集中は完全にぶった切られた。手元を一旦止めて杉元に冷たい視線をぶつけるが、当の本人はそれを物ともせず、妙にわくわくした表情で私を見返した。
「いや、鶴見中尉からおもしろい話をしてたもんだからさ」
「…なんですか、それ」
「看護婦さんと鯉登少尉の縁談がどうのこうのって」
私の手から包帯のロールがぽろりとこぼれ落ち、白いシーツの上に同色の線を描いて転がった。
「え、もしかして三角形なの?」
「……」
「えッ?えー、うっそォー!」
なんなんだそのリアクション、腹立つな。まるで小樽の病院の先輩ナース達が恋の噂話をする時のような調子で肩をくねらせている。私は金属トレーから取り上げた医療バサミで包帯をちょん切ると、垂れ下がった端を適当な巻き目の間に折り入れ、そこに向かって手の平を振り下ろす。ばちり、と鈍い音を立てたと同時、杉元から野太い悲鳴が上がった。
「い"ッ、て!」
「早く着替えて下さい。そこの歩行補助器具、忘れないように」
シーツの上に転がった包帯のロールを忘れず回収し、金属のトレーと共に早々と病室を後にした。時刻は午前五時、彼らはあと一時間で出立する。
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インカㇻマッさんの病室に入ろうとドアノブを握った時、中から小さな話し声が聞こえ、私はゆっくりと手を離した。
少し掠れた女性の声に続いて聞こえる低い男性の声。谷垣一等卒が出立前に会いに来たのだろう。二人のように、お互いがお互いの方を向き合った関係は純粋に素敵だと思う。私は自分の立場を、そして彼らの立場を理解しているつもりだ。私は鶴見を名乗る者として、彼女は人質として、彼は戦う者として、それぞれの翌日を迎える事になる。そして残される彼女は、来週、来月、来年、もしかすると一生やって来ないかもしれない知らせを待ち続けるのだ。
目の前のドアノブがわずかな音を立てて回り、ドアが内側に開いた。
「鶴見さん、」
「す、すみません…立ち聞きするつもりじゃ」
話を終えた谷垣一等卒が、ドアの正面で立ち尽くす私を驚いた顔で見た。私が一歩退いてドアの前にスペースを開けると、彼は廊下に踏み出し、後ろ手でドアを閉めた。
「…心配、ですか?」
黙って足元を見つめる谷垣一等卒に小さく問いかける。彼は少しだけ思いつめた表情をした後、その眼差しに力強い光を宿してこちらを向いた。
「いえ。俺が戻るまで死ぬなと、約束しましたから」
行く者、留まる者、そのどちらもが責任を果たし合う関係。ただ焦がれ続けるだけの私に請け負える責任があるとすれば、それはどんな事なんだろう。
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「待て、名前さん!」
出立の見送りで外に出るため、コートを取って来ようと宿直室に入りかけた私を大声で呼び止めたのは鯉登少尉だった。こちらに向かって速歩きで近付いてくるコート姿の腰には軍刀がぶら下がっており、本当に出発間際であることを強く意識させられた。
「もう出られますか」
「これを」
鯉登少尉が私に向かって拳を突き出した。どうやら中に何か持っているらしく、その下に手の平を差し込むと、ぽとり、と何か小さな物が転がり落ちてきた。これは、ボタンだ。
「…いや、卒業式じゃあるまいし」
「何を言っている、今付けてくれ」
鯉登少尉がコートの左腰あたりを指差す。左右対称に並んでいるボタンが、一つだけ欠けていた。
「さっき刀緒が引っかかって、取れたのだ」
「あ、なるほど」
「ここに針と糸はあるのか」
「ありますよ、入って下さい」
ドアは開けたまま宿直室内に入り、机の引き出しから巾着に入った小さな裁縫セットを取り出す。鯉登少尉はすぐ側の椅子にコートを着たまま腰を下ろし、いかにも不遜な態度で足を組んだ。
「…ちょっと、コート脱いで下さいよ」
「軍刀を取るのが邪魔くさい。このまま付けてくれ」
巾着を握る指先に力が入る。この男、一日会わない内によくもここまで開き直れたものだ。私の正体を知って弱みでも握ったと思っているのか、はたまた私に振られた腹いせなのかは知らないが、どうも今朝の鯉登少尉はいつになくお坊っちゃん全開である。
当てつけに大きく溜息を吐き、裁縫セットから白い糸、針、糸切りバサミを取り出す。十分な長さで糸をカットしてから、椅子の上でふんぞり返る暴君に向き直った。
「脱がないときれいに縫えませんけど、いいんですね?」
「裏側なんぞ誰も見んだろう」
意地でも脱ぎたくないらしい。私は鯉登少尉の左横に膝を突き、糸の先を口に含んで少しだけ濡らすと、目の高さで持った針の穴に慎重に通す。さて、ここからが本題だ。糸の端に玉結びを作りながら、このボタンが元々付いていたであろうコートの生地を凝視する。どうやって着られた状態の服にボタンを付けたものか。
「…ちょっと失礼しますよ」
鯉登少尉の右腰あたりにあるコートの合わせ目から手を突っ込み、指先を今からボタンを取り付ける位置まで移動させた。手の甲には軍服の生地の感触と、ほんのり体温が伝わってくる。正直すごくやり辛い。
「あの、せめて前開けて貰えませんか」
「このままやってくれ」
「そうですか…」
歩み寄るつもりもないらしい。本来であれば、玉結びを生地の裏側に置くために裏側から針を入れるのだが、今回は仕方ないので表側のど真ん中から針を入れることにした。生地をすくい取るように針を動かし、脚付きボタンの穴に針をくぐらせ、コートの下の軍服まで縫ってしまわないよう慎重に針を進めていく。
「器用だな」
「ええ、実は嫌いじゃないんですよ、針仕事」
上質な硬い生地を糸が滑る抜ける音が気持ち良い。おそらくこのボタンはよく袖や物が当たる位置にあるんだろう、脚付きボタンの根本に糸を何度も巻き付けて補強を施し、ボタンの裏側に隠れるようきつく玉結びを作った。
「できましたよ」
糸切りバサミが、ぱちり、と音を立てて余分な糸を切り落とした。
自分より少し高い位置にある鯉登少尉の顔を見上げると、その不遜な座りにはまったくそぐわない、なんとも覇気の欠けた表情で宙を見つめていた。
「どうしたんですか?」
「…
鶴見中尉の命令だというのに、どうやらあまり乗り気ではないらしい。この人の事だ、別に恐怖とかそういう類の理由ではなく、鶴見中尉と離ればなれになりたくないだけなんだろうと高を括り、そのまま適当にあしらってしまおうかと思っていた。
「オイがけ死んだや、名前さんは悲しんか?」
ぽつりと呟かれた縁起でもない問いを聞くまでは。
毎度刺青人皮関連の
「あなた、バカタレですね」
私の割と失礼な物言いにムッとした鯉登少尉がこちらを見下ろした。そして目が合うと、きっと私の表情から何かを悟ったのだろう、少しだけ頬を緩ませた。私も彼と同じく天の邪鬼なのだ。
「…行ってくる」
「ご立派です」
白いコート姿が椅子から立ち上がると、目の前で軍刀の刀緒が揺れた。私も一足遅れて立ち上がる。
結局あの夜、奇妙な成り行きでなんとか鯉登少尉を納得させるに至ったものの、私は未来人で月島さんを幸せにするために来たから婚約できません、なんて突拍子もない経緯を鯉登閣下に話せる筈もなく、私の"理由"探しはまだ続いている。先延ばしになっただけで、問題は何も解決していないかのように見えた。
鯉登少尉がこちらに向き直り、私の両肩に手を置いた。
「月島も、必ず私が連れて帰って来る」
安心しろ、と続けられた後、不器用な手が私の後頭部を軽く撫でた。
明るい金色の朝日が差し込む窓際の机の上に視線を遣ると、無作為に置かれた裁縫セットの巾着が目に入った。瞬きを行おうとする瞼が閉じきる直前、一瞬その巾着が四角いプラスチックに取って代わったように見えた。上瞼と下瞼を強く合わせる。再び目を開く。宿直室のただの窓辺の机が視界に映った。
「…待ってますね」
行く者、留まる者。私は留まる者として、ここで待ち続けなければいけない。私は、行かない。