Chapter 6: 網走編
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シニヨンに打ったピンを一本ずつ引き抜き、机の上に置いていく。強く引っ張って結ったつもりはなかったが、緊張の解けた頭皮がじわじわと痛みを訴えていた。すべてのピンを抜き終えた後、ベースの三編みの毛先から元結を引き抜き、まだ編み目を保ったままの毛束に手櫛を通していく。軽くウェーブの癖が付いた髪から少しだけばらの残り香がした。
今夜はこのまま宿直室で仮眠を取りながら、インカㇻマッさんの容態を数時間おきに確認するつもりだ。念の為、見張りの兵士には午前一時に叩き起こして貰うよう頼んである。昨日の深夜から今の今まで働き詰めだった体は鉛のように重く、一瞬でも気を抜けば瞼が下がってきてしまう有様だった。宿直室に入る直前に確認した時刻は午後十時すぎ、とりあえず三時間近くは眠れる。
オイルランプのつまみを捻って灯りを最小限まで落とすと、早々とベッドに潜り込んだ。ちゃんとノックの音だけで起きれるだろうか。こんな時に目覚まし時計でもあればアラームをセットできるのに。
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私は温かい水面に浮いている。潮の匂い、明るい日差し、遠くに見える岩場、そこに並ぶ二つの影。潮風になびくくせ毛を手で押さえるあの子の口元はまだ幼い。その唇が動く時、私はその名前を再び聞く。
『だすけん、
顔に掛かった水滴が口に入る。その塩っぱさを飲み込んだ瞬間、私の体は水底に向かって引き寄せられるように沈み始めた。口から漏れた空気が泡となって上昇していくその中で、首に掛けた紐の先で揺れるブレスレットがきらきらと緑色に光っていた。
おい、起きろ。
嫌だ、もう私の心を食べないで。
「おい!名前さん、起きろッ!」
左頬を軽く叩かれ、枕の上で私の頭が揺れた。堰を切ったように口から荒い息が排出され始める。忘れてしまった筈の、一度見たことのある夢をもう一度見ていたようだった。いつ、どこで、誰がその名前を呼んだんだろうか。
「大丈夫か?」
私の顔を覗き込んでいる男の顔が薄明かりで照らされる。鯉登少尉だった。四角い小さな部屋、馴染みのない天井の模様、形の違う枕。そうだ、ここは宿直室だった。
「…夢の中で、溺れてました…」
「……はぁ、くだらん」
鯉登少尉は溜息混じりにそう言うと、ベッドの端に腰掛けた。
「…なんでここにいるんですか?」
「もうすぐ一時だ」
その背中と後頭部を見つめながら、そういえば見張りの兵士に午前一時のモーニングコールをお願いしていた事を思い出した。まさかこの人が現れるとは思ってもいなかったが。私はベッドの上で上体を起こし、肩に掛かる髪を後ろに払った。
「…私、行かなくちゃ」
「待て、話がある」
鯉登少尉は体を捻ってこちらを向き、掛け布団の上から私の膝を掴んだ。真剣な視線がこちらを射抜く。
「私と月島は明後日ここを離れて、樺太へ向かう」
発された言葉に含まれていた"私"、"月島"、"樺太"という単語を摘み取って頭の処理に掛ける。看護業務に追われ、結局監獄の一件がどう転んだのかについて何も聞かされていない私にとって、すべてが晴天の霹靂だった。
「いつ帰れるか分からん」
霹靂、雷が落ちたような衝撃に続く冷たい雨のような響きを持ったその言葉が、私の耳には『生きて戻れるか分からない』と聞こえた。
「…父上が、婚約を延期すると言ったそうだ」
違う、私はそんな風にその朗報を聞きたかったわけじゃない。
「あなたには好都合な話だろう」
違う、そんな皮肉っぽい顔で笑わないで。
「"理由"は見付かったのか?」
布団の上から私の膝を掴む手が撫でるように太ももへと上がってくる。足を引っ込めようとすれば、痛いくらいの力で下に向かって押し付けられた。体勢を変えてベッドに片膝を乗せた鯉登少尉が、こちらに首を伸ばして近付いてくる。
「なあ、名前さん、見付からんのだろう?」
肩を押され、私の後頭部は再び枕の上へと着地する。真上から私を見下ろす鯉登少尉の目には怒りが浮かんでいた。自分の思い通りにならないすべての事に対して、そして私に対して。それでも私は口を開く。
「理由なら、あります」
「言え」
「言ってもあなたは信じません」
「いいから言え」
私の肩に添えられた手に力が入った。
「…私は、」
そう言い始めた時、オイルランプの灯りが何の前触れもなく大きく揺らぎ、消えた。誰も何も話さない真っ暗闇の中で、唯一得られる感覚は掴まれた肩の痛みだけだった。
『ピピピピッ、ピピピピッ、』
存在しないはずの電子音がすぐ左横の枕元から発され、ランプの光にしては青すぎる、そして月明かりにしては強すぎる光が私の目を突き刺した。眩しさで狭まった私の視界に入ったのは、見開かれた鯉登少尉の目に映り込む真っ白い長方形の光源だった。
電子音と光の源へと震える手を伸ばす。手に収まる四角いプラスチック、下部に差し込まれた充電ケーブルの感触を確かめると、私の手が画面を遮ったのか、枕元を照らす青白い光が揺れた。
「…なんだ、これ…?」
鯉登少尉の呆然とした声が響く。私はそれを無視して、枕元の端末を手に取り画面を確認する。"アラーム 01:00"。親指で"ストップ"の表示をタップすると、鳴り響いていた電子音がようやく止まった。スクリーンは待受画面へと戻り、私の好きな映画のスクリーンショットを背景に、"2020年10月10日 土曜日 01:00"を表示している。どうして、これがここに。
スクリーン右上の電池残量は100%、そしていかずちのマークが付いているという事は、このスマホは今も電源に繋がっている。体が揺れる程に鼓動が強く早く打ち始めた。
「退いて下さい」
困惑の滲んだ私の言葉の後、肩からゆっくりと鯉登少尉の手が離れた。私は左手で上体を起こしながら右手で端末を操作し、本体背面のフラッシュを点灯させる。ゆっくり右手を持ち上げると、強い直線的なLEDの光が部屋の内部を青白く照らした。テレビ、クローゼットのドア、ローテーブルとその上に置かれたノートパソコン、床には私の通勤バッグ、低い本棚、そしてベランダの窓に掛かる遮光カーテン。紛れもなく、東京の私の部屋だった。
「おい、どこなんだ…ここは」
鯉登少尉のいつもより低い声が私の頭をさらに混乱させる。ただただ長過ぎる夢から目覚めただけなら、この人がここに居る筈がない。私は本当に戻って来たのだろうか。端末から充電ケーブルを引き抜き、フラッシュをカーテンに向けてごくりと唾を飲み込んだ。あの窓の外の景色を、階下に広がる杉並区の住宅街を確認しなければならない。
「絶対にそこから動かないで」
ここに居てはいけない筈の男にそう念を押し、私は足をベッドから下ろした。慣れ親しんだカーペットの感触を足の裏で踏みしめながらベランダの窓へと近付く。すぐ横の低い本棚に背面を上にした状態でスマホを置く。攻撃的な程に鋭い現代の光が天井を差している。震える両手でカーテンを掴む。三度深呼吸を繰り返す。私は思いっきり布地を左右へと開いた。
格子窓越しに広がる暗闇に、うっすら浮かび上がる低い木造家屋の集落、そして網走川沿いに生い茂る木々の先端が見えた。両手から力が抜け落ち、だらりと体の両横に垂れた。
「…帰って、来た…?」
私は一度戻って、帰ってきた。横の本棚があった筈の場所にちらりと視線を送る。あの低い本棚は机へと、そして上に置いた筈のスマホはオレンジ色の弱い灯りを揺らすオイルランプへ様変わりしていた。
「名前さん」
ベッドに腰掛ける鯉登少尉が私を呼んだ。
「教えてくれ、あなたは何者なんだ」
この人は知ってしまった。スマートフォンの電子音を、画面を、LEDの明かりを、私の部屋を、テレビも、何もかも。
「絶対に誰にも言わないって、約束できますか」
「約束する」
私は窓に背を向けて鯉登少尉に向き直る。またわずかに震えだした手を胸元に当てながら、気道の内側の表面を空気が撫でる感覚を味わった。声が発される。
「2020年から来ました」
この時代で告げる二度目の真実の言葉は、あっけなく部屋の四方へと散り散りに消えて行った。鯉登少尉は眉をぴくりとも動かさず、ただ黙ってこちらを見つめていた。
「信じなくても結構です」
「…目的は?」
空気が震える。それは一月末に
「あの人を、幸せにしたいんです」
胸元に当てたあの手の平の熱さが鮮明に蘇る。
「くだらないですか?」
「…結局、それがあなたの"理由"なのか?」
鯉登少尉はそう言うと、ベッドから立ち上がった。床を踏みしめるブーツの音が一歩一歩こちらに近付いて来る。そして私の正面で立ち止まると、彼の両手が私の背中に回された。首元の"27"、白い生地、落下する私を受け止めたこの感触と、もう"良い友人"ではいられない。
「はい」
私は鯉登少尉の耳元で、"さよなら"を意味するその返事をはっきりと告げた。この人を逃げ道にする罪悪感から逃れるためではなく、自らの意思で前に進むための決別だった。
「分かった、もういい」
くぐもった返事が私の右肩から聞こえた。結局この人は最後まで"良い友人"を演じ続けてくれた。私は、私が認識する彼の本当の思いがそれで合っていたのかどうか少しだけ知りたくなったものの、それはきっと酷な話なので、もううやむやにしたままでいいのだと思う。
ぐりぐりと目元を私の肩に押し付ける鯉登少尉が、すん、と鼻を鳴らした。
「…えぇ、泣いてるんですか…?」
「泣いとらんわバカタレッ」
あーあ、やっぱり知りたくなかった。苦し紛れにその丸い後頭部に手を伸ばし、髪を押さえつけるように撫でる。子供扱いするな、なんて怒り出すかと思いきや、意外にも鯉登少尉は撫でられるがまま大人しくしていた。
「…鶴見中尉殿は、全部ご存知なんだろう?」
「はい。私が鶴見を名乗っているのも、おじさまの案ですから」
「…月島は?」
「……知ってますよ」
少し溜めた後にそう答えると、鯉登少尉は顔を上げ、そのほんの少し赤い目を顰めながら私を見た。
「…"誰にも言うな"とは、その二人にもか?」
鯉登少尉の疑問は正しい。私達は同じ秘密を共有する味方同士である筈なのだが、一概にそうとも言えないのが実情だった。目を瞑ればすぐに思い出せる、あの首の圧迫によって意識が薄れていく感覚。そもそもあの時点で私はまだ誰にも話していなかったというのに、ただの脅しにしては強烈すぎるお仕置きだった。
肩の寒気と共に目を開け、鯉登少尉に警告を発する。
「そうです。特におじさま―鶴見中尉には、あなたが知っているという事を絶対に悟られないで」
「何故だ」
私の強い口調にも尚食い下がろうとする鯉登少尉が、いかにも納得できないというように口を一文字に結んだ。鶴見中尉に絶対の忠誠を誓うこの人に、小さな裏切りを強要するのは心苦しくもある。けれど、どうしても知られるわけにはいかなかった。
「私、殺されちゃうかも」
自分の口から溢れた一言は、思っていたよりも冷たい現実味を帯びていた。