Chapter 6: 網走編
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男の首筋に指先を当てる。頸動脈は規則正しいリズムで拍を打っていたが、その両瞼はまだ閉じられたままだった。開頭手術自体は成功したものの、この後何事もなく目覚める確証はまだない。東向きの窓の外に広がる空の端が少しずつ明るくなりだしていた。
病室に小さくノックの音が響く。返事をしようと振り返ったが、私が言葉を発する前にドアが軋んだ音を立てて開かれた。未だに赤黒い汚れが付着したままのコートを着ている月島さんが、静かに病室内に入ってきた。
「…鶴見中尉殿は一度艦に戻られました」
「…分かりました」
ただの業務連絡、それだけの会話。私は杉元が横たわるベッドの方へと視線を戻し、疲労によって下がってくる瞼を解すように指先で眉間を揉んだ。
「あなたも少し休まれた方がいい」
背後から抑揚の無い声が投げ掛けられた。
「…急変の可能性があるので、目覚めるまではここで待機します」
もし現代であれば、開頭手術後となればICUに入れられて二四時間看護の対象となる筈だ。しかしここには心電図のモニターも、急変があればそれを音で知らせる便利な機械も無い。呼吸や心拍数に異常がないか手作業で逐一確認するしかないのだ。
「…人殺しを、わざわざ生かす価値なんてあるんですか」
私の鼓膜を揺らした月島さんの言葉には一切の感情が籠もっていなかった。その冷たく低く淀んだ声は空気よりも重く、まるで病室の床がぬかるんだ泥に変わってしまったと錯覚させる程に、私の心を沈ませた。
私は再び背後へと振り返り、返り血で汚れた月島さんのコートを眺める。雨、血、泥にまみれた戦場に立つその姿を思い浮かべ、彼が今までどんな人生を歩んできたのかについて想像を巡らせた。どんな風に生まれて、どんな人を愛して、どんな風に傷付き戦ってきたのか、私は何も知らない。
「人殺しでも、命は命です」
そんな私にも一つだけ分かるのはそれだけだった。私は椅子から立ち上がる。ブーツの底がずぶりと埋まるような感覚がして足元を見るが、ただの木張りの床が広がっているだけだった。
「価値がないなんて、言わないで」
コートの染みから視線を上げ、私の足元を見続けている月島さんの目を見ながら告げた。私が一歩近付くごとに、その伏せた目線の角度が下方にずれてゆき、疲れ切った青白い瞼が露わになる。
毎夜その瞼が閉じきって眠りにつく様子を、傍で見守る人に私はなりたかった。たとえそれが叶わなくても構わなかった。目の前から消えた背中を追うことはできなくても、私も目を瞑り、暗い瞼の裏に映るその背中を見つめ続けるだろう。
月島さんの左手を取り、その手の平を私の胸部の中央へと導く。規則正しく打つ私の心臓の動きを、そして白衣の下で輪を描くブレスレットの凹凸を知って欲しかった。
「生きましょう、月島さん」
温かい手の平が私の胸元にある。人を殺めながら自らも傷付き続けるこの手に、いつか幸せの形を感じ取らせてあげたい。そう考えた時、なぜか胸の支えが取れたような、腑に落ちたような心地良い軽さが胸元に広がった。私が落としたブレスレットを拾い上げたのも、壊れたそれを直そうとしてくれたのも、そしてそれを幼い私に返したのも、いつだってあなただった。
感情を堪えるように細められた瞼の隙間から覗く月島さんの瞳が私を見た時、私の頭には一つの仮説が浮かんだ。不思議にも私がこの時代に辿り着いた理由は―
「…あのー、邪魔して悪いけど」
背後のベッドから気の抜けた声が聞こえた瞬間、胸元に当てた月島さんの手が素早く離れた。私は驚きのあまり数秒身動きが取れずにいたが、起き上がろうとでもしているのかベッドが軋む音が聞こえ、慌てて杉元の方へと駆け寄る。
「ちょ、ちょっと!動いちゃだめです!」
いてて、と呟きながら補助も無しに上体を起こした杉元だが、全身麻酔下の開頭手術からまだ三時間も経っていない筈だった。意識が戻った事は喜ばしいにせよ、普通に起き上がれる筈がないのだ。杉元は首をぼりぼりと掻きながら、ベッドサイドで立ち尽くす私を見上げる。
「看護婦さん、なんか食いもん――あれ?」
眉を寄せて二・三度まばたきした彼は、どうやら私が旭川で尾形百之助に拉致られた、あの看護婦だという事に気付いたようだった。
「…あんた、あの時の」
見上げるギラついた目に負けじとガンを飛ばすように見下ろすが、杉元は私の後ろに立つ月島さんに視線を動かし、そしてまた私に戻した。そうやって何度か視線を往復させた後、きつく一文字に結んでいた口を、にたあ、と歪ませると、意味深な言葉を呟き始めた。
「…ふーん、そう、なるほど…"お手つき"、ねえ…」
「ご飯食べたいならちょっと黙りましょうか」
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五、四、三、二、一。これで十分が経過した。私はノックもせずに正面のドアを開くと、室内の椅子に腰掛ける鶴見中尉へとしかめっ面を向ける。
「おじさま、時間切れです」
「分かった分かった。そうカッカするな、名前」
「さあさあ、みなさん出て行って下さーい」
急かすように手を叩けば、鶴見中尉は溜息混じりで椅子から立ち上がり、杉元は松葉杖を突きながら素直にドアの方へと移動していった。一人ベッドの横で立ち止まったままの谷垣一等卒に視線を遣る。
「あなたもです。しばらくは外して下さい」
二人が部屋から出て行った後も開けっ放しになっているドアを指差し、毅然とした口調で言い放つ。谷垣一等卒は黙ってベッドの上を一瞥した後、その場に留まったまま、私に向き直って深々と頭を下げた。
「インカㇻマッから聞きました、あなたが命を救ってくれたのだと」
私はその黒々とした坊主頭のつむじを見つめながら、自分の身の振り方について考えていた。谷垣一等卒は、鶴見中尉を裏切った脱走兵だ。
「…看護婦として成すべき事を成したまでです。あなたからお礼を言われる筋合いはありません」
平等に命を救う義務はあれど、ほだされるわけにはいかない。それなのに自分の目はどんどん潤んでくる。まずい、普通に嬉しい。私がすんと鼻を鳴らすと、谷垣一等卒は驚いた表情をして頭を上げた。
「あ、あの…」
「…ほんとうに、よかった…!」
堰を切ったように嬉し涙がぼろぼろと溢れてくる。霞む目元を白衣の袖で拭うと、潤む視界の中で谷垣一等卒がほころばせたその口を開くのが見えた。
「インカㇻマッを、よろしくお願いします」
「…はい!」
はっきりと告げたその返事は格好悪く震えていたが、それでも自分を誇らしく思う。私は正しい事をしたんだ。
部屋から出て行った谷垣一等卒の背中を見送った後、私はベッドの枕元へと近付く。横になった女性の口は荒い呼吸のせいで小さく開いていたが、その口角は少しだけ上がっていた。
「インカㇻマッさん」
そう呼びかけると、彼女の瞼が薄く開き、透き通った瞳が私を見上げた。
「…また…お会いしましたね…」
か細い声が私の耳に届いた。私はもう一度鼻をすすりながら、彼女の額に乗せられた手ぬぐいを手に取り、こめかみや首筋に滲む汗を優しく拭き取る。
「今は話さなくていいんですよ、休んで下さい」
なだめるようにそう告げて新しい手ぬぐいを彼女の額に乗せた時、熱い手の平が私の手首をしっかりと掴んだ。何か体調に異変でもあったのだろうか。
「どうしました?どこか痛みますか?」
初めて会った時のような"見透す目"で私を見上げるインカㇻマッさんは、しばらくの間黙ったまま微笑んでいたが、不意に薄藍色の唇がわずかに動き始め、私はその動きを注視した。
「…あなたは、間違っていませんよ…」
占いを信じない私達の数奇な巡り合わせは輪のように繋がる。すべてを偶然で済ませてしまえる程、この世は単純にできているのだろうか。