Chapter 6: 網走編
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「意識無し、呼吸・脈拍安定、頭部打撲と下顎骨亀裂骨折の疑い、右手首より先損傷しています!」
呼吸・脈拍安定の言葉は耳に入っていたにも関わらず、担架の上でぐったりとしているその兵士が二階堂浩平一等卒だという事に気付いた瞬間、私の意識は一瞬だけ過去へと舞い戻った。燃え上がる兵舎から運び出された遺体を遠くから眺める私自身の後ろ姿を、私は俯瞰から見つめている。戻れ、戻りなさい。私はその肩に手を伸ばし、涙を流す自分自身の顔をこちらに振り向かせた。
現実に戻ってきた私は、隣に立つ白い手術用ガウンを身にまとった白髪の医師―院長に向き直る。
「処置室を使いますか?」
「…いや、病室でやろう。おい!お前がやれ!」
一つしかない処置室はさらなる重傷者に取っておかなかればならない。院長は普段は温厚なその口調を荒げ、準備室からちょうど出て来た彼の息子に向かって大声で指示した。息子医師は慌てた様子でガウンの紐を後ろ手で結びながら、担架を持つ衛生兵達を病室の方に誘導し始める。
院長は冷静そのものだった。北海道の端で小さな病院を営む医師が、こんな不測の事態にも動じず対応できるのは、年の功だけが理由なのだろうか。私の疑問を肌で感じ取ったのか、マスク上部の強い眼差しが私の方へ向けらる。
「箱館戦争の頃、箱館病院で研修医をしていたんだよ」
「そう、でしたか」
箱館病院の院長を務めた旧幕府軍側の人間・高松凌雲は、箱館戦争中、敵味方関係なく戦傷者を治療したという。赤十字の精神の原点となる人の下で、この院長は働いていたのだ。
「鶴見くん、君も処置の補助にまわりなさい」
「…はい!」
『その制服で立派にお勤めして、自分の力で自分の幸せを掴み取りなさい』
シヅさんの言葉が胸に蘇る。生きてこそ、勤めてこそ、生かしてこそ、私は幸せの味を知る。忘れるも忘れないも、誰に決められる事ではない。私が決める事だ。
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二階堂一等卒への処置も滞りなく進み、残すは手首の縫合のみとなった時、処置室の外から慌ただしい声や足音が聞こえてきた。また新たな負傷者が運ばれてきたのだろうか。
「先生、私確認してきます」
「ああ」
緻密な作業に集中して手を動かす医師に一言告げてから室外に出ると、待合室の床に下ろされた二台の担架、そしてその回りで膝を突く数名の衛生兵と院長の後ろ姿が見えた。
「院長!」
私の呼び掛けに振り向いた院長の表情は硬い。嫌な予感がした。急いで待合室に駆け込むと、二台の担架に乗せられたその人物どちらもが、私の見知った顔である事に気付いた。
「…不死身の、杉元、と…」
血塗れの顔で意識を失っている杉元と、かたや真っ青な顔で眠ったように横たわる"あの"アイヌの女性。その唇は薄い藍色に染められ、赤い着物の腹部にはナイフが突き刺さっていた。
「…その人は…!」
「鶴見くん…この人は、もうだめだ」
女性の手首を持ち、脈を計っている院長が静かに首を振った。苦い顔をした衛生兵が女性の胸元に置いていた手を外すと、院長に向かって冷静な声音で告げる。
「…心肺停止」
私はその場に立ち尽くし、彼らが今から何をするのかを黙って見ていた。心肺停止を宣言した衛生兵は見限ったかのように立ち上がり、他の衛生兵と共に杉元が乗った担架を処置室の方へと運び始めた。かたや院長は女性の手を床に下ろし、俯いたまま黙りこくっていた。どんな処置をするのか、蘇生は、腹部の止血は、どうするんですか。
「院長、早く指示を下さい。私は、」
「…もうだめなんだ」
そう言って院長は女性に向かって両手を合わせた。どういう事だ、心肺停止なのに、どうして何もしないのか。CPRは、心臓マッサージは―そこまで考えたところで、私はようやく状況を理解した。この時代には、まだそれが存在していないのだ。
「…先生、そこをどいて下さい!」
私の形相に気圧されたのか、院長は膝立ちのまま後退るようにして女性の側から離れた。私はその空いたスペースに滑り込むようにして床に膝を突き、激しく打つ自分の心臓の音を聞きながら、記憶の引き出しの奥底に手を突っ込んだ。その中を手探りでかき回し、四年前の自動車教習所での映像を必死で探し当てようとする。
『―1分間に100回から120回の胸骨圧迫を30回繰り返して…』
人形の胸部に講師の重ねた両手が置かれ、そこに体重を掛けるようにして一瞬押し込み、胸の凹みが完全に元の位置に戻るまで力を抜く。
これだ。
「先生!私が三十回胸を押したら止めて下さい!」
女性の胸部の中央に両手の平の基部を置き、垂直に力が入るよう肩と膝の位置を調整する。大きく息を吸い、そして吐く。
『―スピードが分からなければ、この曲に合わせるといいですよ』
ホワイトボードに映し出されたスライド下部にあるアイコンを講師がクリックすると、聞き親しんだ曲がスピーカーから流れ始め、受講者達はくすくすと小さく笑いを漏らした。
あの時は私だって笑って聞いていたのに、本当にこれを口ずさみながらCPRを実施する時が来るとは想像すらしていなかった。覚悟を決めた私は、BPM120のあの曲を口ずさみながら胸骨圧迫を開始する。
「…あんなこっといいな、でっきたらいいなッ、!」
胸骨の沈み込み具合がこれでいいのかは分からないが、今は私がやるしかない。私以外の、ここにいる誰もが分からないからだ。
「―かっなえってくれるッ、ふっしぎな、」
「三十回だ!」
院長が私の背中を叩き、大声で告げた。すぐさま胸部から手を外すと、左手で女性の鼻を摘み、右手で顎を上げて気道を確保する。
『1秒間かけて息を吹き込みます。傷病者の胸元がきちんと上がっているか、目視で確認して下さい』
私は早くなった息を限界まで吸い込み、薄藍色の口元へと、開いた自分の口を密着させる。息を強く太く吹き込みながら、彼女の胸部がゆっくりと膨れるのを確認した。きちんと息が肺に送り込まれているようだ。一秒間の吹き込みを終えて口を離し、肺から空気が抜けるのを待った後、もう一度人工呼吸を行う。
胸部を確認する私の視界に、再び彼女の手首を持って脈を取る院長の横顔が映り込んだ。真剣な表情で指先に全神経を集中させる彼が、その顔をまた横に振るが、その表情から先程見せた諦めは消え去っていた。
脈も呼吸も戻ってはいないが、まだまだ諦めるのは早い。私は再び胸部圧迫を開始するために上体を起こし、胸骨の中央に手の平を重ねる。
「また三十回、お願いします!」
「分かった!」
院長も、私が今行っている未知の行為が何を意味しているのか理解し始めた筈だ。"流れ"が変わってしまったとしても命を救えるのならば何だって良かった。
「…三十回!」
「っ、はいッ!」
私の肺がはち切れてしまうかと思う程に息が上がっているが、それでも彼女の肺に息を吹き込み続ける。胸部が上がり、沈む。そして二度目の人工呼吸を施そうと彼女の口元を見た瞬間、その唇がほんの少し動いたのだ。
「せ、先生!脈は!?」
「…待て…よし、戻ったぞ!」
慌てて彼女の心臓の位置へと手の平を当てる。かなり遅くはあるが、確実に拍を打ち始めていた。彼女の口元ぎりぎりまで近付けた私の耳にも、うっすら呼吸の風と音が届き始める。
「呼吸戻りました!」
まだ予断を許さない状況であるというのに、溢れる笑みを抑える事ができなかった。近い内にまたお会いしましょう、そう言った彼女と本当にまた会えるのだ。ほとばしる感情を落ち着かせようと、軽く目を瞑って息を整える。そして再び目を開いた時、私の正面に居た筈の院長の姿は消えていて、代わりにしゃがみ込む黒い肋骨服姿が映り込んだ。
額当てと顔に飛び散った血液に、今度は私の心臓が止まりかけた。
「―ッ、おじさま!その怪我!?」
「慌てるな、私の血ではない」
にんまりと笑った鶴見中尉はそう告げ、茶色く乾いた血で汚れた手を私の肩に乗せた。
「見ていたぞ」
私を見つめる黒い眼に私自身の顔が映り込んでいる。
「よくやった、名前」
掛けられた労いの言葉は、どんなお酒よりも心地良く私を酔わせるような響きを持っていた。鶴見中尉の額当ての隙間から、たらり、と透明な液体が鼻筋に垂れ落ちた事により、私はそんな恍惚のプールから地上へと引き上げられたのだった。
「…おじさま、また垂れてますけど」
「失礼」
私の肩から手を離した鶴見中尉は、軍袴のポケットからハンカチを取り出して鼻筋を拭った。その背後からこちらに向けられる院長の視線を感じたが、私はあえて目を合わせようとしなかった。私が鶴見中尉を"おじさま"と呼んだのを聞いて何か思うところがあったのだろう。
処置室から戻ってきた二人の衛生兵が、今度は心肺の戻ったアイヌの女性を奥の病室へ運び始め、院長はそれを誘導しながら廊下の奥へ消えて行った。
「名前、あれに手術の準備をさせろ」
鶴見中尉が唐突にそう言いながら、出入り口の方を指差した。そこには見目麗しい洋装の女性と、彼女の腕を掴む血塗れの月島さんが無言で立ち尽くし、こちらを凝視していた。私はその絵面のインパクトにただただ圧倒されながら、妙に心がざわつくのを感じていた。
「…どなたですか、あの女性」
「あれは刺青の囚人で、医者だ」
「…は?」
聞き間違いだろうか。網走監獄は男性刑務所の筈だ。あんな美人が入るような場所ではないし、そんな美人が女医だなんてどうあがいても私では太刀打ちできっこない。そんな私はきっと呆けたような顔をしているのだろう、鶴見中尉は私の手首を鷲掴みにすると、自ら立ち上がりながら私も一緒に引っ張り上げた。
「杉元の頭の手術をさせる、急げ」
「は…?」
無理矢理立たされた私はふらつきながらも、出入り口の側に立つ二人から目を離せずにいたが、鶴見中尉が告げた"頭の手術"という言葉でようやく我に返った。
「脳を銃弾が貫通した」
「…はぁ!?」
衛生兵は杉元の容態について何も言っていなかったため、私はてっきり命に別状は無いものだと思い込んでいたが、ある意味あのアイヌの女性よりもっと重態じゃないか。
「生きてるんですか…?」
「不思議な事に、心臓は止まっていないらしい」
旭川でも二発の銃弾を胸に受けながら、あの距離を走り抜いた男―化け物のような生命力だ。気球が離陸する直前、私に銃口を向けながら罪悪感を滲ませる杉元の表情が、ふと頭の中に蘇った。
月島さんの隣に立つ美人女医を見つめる。無表情で私を見つめ返す彼女に向かって、覚悟を決めた私は口を開く。
「先生、行きましょう」
真っ赤なルージュに縁取られた唇が弧を描くと共に、その腕を掴んでいた月島さんの手が外れた。私は、別に安心などしていない。