Chapter 6: 網走編
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鶴見中尉が待機するよう私に指示した病院とは、網走川を挟んで監獄と隣接した集落にある、診療所と呼んでも差し支えのない程小規模な施設だった。ここで働かせて下さい、と神隠しに遭ったあの主人公のようにこの病院の門戸を叩いてから早四日が経過した今日、私は外来担当としてひたすら柱時計とにらめっこしていた。あと五分で正午を迎えるというのに、外来患者は朝から一人として現れていない。柱時計の振り子の音だけが響く待合室で、私はだらしなく受付台に突っ伏し、壁に貼られた網走周辺の地図を見上げた。
地理的に監獄関係者の行き来も少なくないこの場所をわざわざ選んだのは、やはり作戦中の兵士輸送手段が駆逐艦であるという事が影響しているのだろう。港方面に広がる市街地の大型病院へ負傷者を輸送するには、きつくS字カーブを描く網走川をさらに上流へと進み、網走湖上でUターンして河口方面へと引き返す他方法が無いからだ。
「…あと二日、か」
あれから何の連絡も受けておらず、作戦決行予定日は二日後・新月の夜で変更は無いようだった。私に与えられた役割は"彼ら生かすこと"―当日の救護活動だけではなく、この小さな病院を野戦病院として機能させることだ。在籍医師は院長とその息子である三十代の若い医師のみ、そして作戦当日の宿直は院長及び私の二名だけ。軽傷者の救護は駆逐艦乗務の海軍衛生兵が担ってくれるだろうが、重傷者の外科手術を行える医師が一人だけなのは心もとない。
その時、正面入口のドアが開き、往診から戻ってきた院長の息子である医師が待合室内に入ってきた。私は慌てて体を起こすと取り繕った笑みを浮かべて首を傾げる。
「先生、おかえりなさい。往診どうでした?」
「看守がなんてことない風邪をこじらせただけだったよ」
いかにもつまらなかった、というような表情でボストンバッグを長椅子の上へ放り投げると、私が陣取る受付台の方へ近付いてくる。彼は台の上に置かれた私の手に自分の手をゆっくり重ね、私の手の甲を撫ぜ始めた。
「今時間あるかい、鶴見くん」
「…先生、だめですよこんな所で」
この病院は往診や検診等で監獄と繋がりがある。そんな場所にさすがの鶴見中尉もヨコの繋がりがある筈もなく、私は自分なりの"手段"で準備を進めるしかなかった。そして今、その準備も最終段階へと突入する。新婚にも関わらず看護婦の尻を追いかける事に余念がないこの医師を、作戦当日の夜に病院で待機させるための一手を打つのだ。
「明後日の夜…私、宿直なんです」
鶴見中尉が、陸軍の印籠を出すことができないこの場所に私を送り込んだその理由を、私は理解しているつもりだ。
「看護婦宿直室に、会いに来てくれませんか?」
歯が浮くようなセリフと共に見上げれば、歓喜と困惑の中間のような表情をした医師が私を見下ろしていた。
今まで私が彼らのためにやってきた事、例えばそろばんを弾く事、看護の勉強をする事、潜入捜査に同行する事、それらは鶴見中尉による具体的な指示と誰か監視の下に行われてきた半ば強制的な要請だった。今回、私は初めて具体的な指示も監視も受けず、たった一人でここに居る。彼らに見切りを付けるならば今が絶好のチャンスだろう。それでも私は、自分の身を汚そうとしてまで"彼ら生かすこと"に執着する。自分で口にしたセリフに嫌悪感と、そしてわずかな恍惚感が胸の奥に湧き上がるのを感じた。鶴見中尉が集めて止まないその狂信を、身を持って実感する日が来るとは思っていなかった。
柱時計の鐘が正午―午前診療の終了を告げた。一時間の休憩を挟んだ後、病棟担当の看護婦と業務を交代する予定になっている。立ち尽くす医師に意味深な視線を送りながらその手を軽く振り払い、私は何も言わずに出入り口へと向かった。
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集落内の食堂で昼食を済ませた後、建物の外に出た私を待ち構えていたのは秋晴れの広い空に浮かぶ美しいすじ雲だった。刷毛で描かれたような何本もの直線は北の方角へと向かっており、上を見上げたままその線が示す方向へとゆっくり歩き始める。
連なる家屋の屋根が視界の両端から消えた頃、ようやく顔を正面に戻した私は、関係者との接触を避けるために近付かないようにしていた網走川の近くまで来てしまっている事に気付いた。
「そこの素敵な看護婦さん」
急いで踵を返した私の背に向かって聞き慣れない女性の声が投げかけられた。"素敵な看護婦さん"―たぶん、私の事だろうか。恐る恐る川の方へと振り返ると、赤い着物の女性がその切れ長の目を細めて私に微笑み掛けていた。着物の模様と唇に入れられたくすんだ藍色―アイヌだ。そう認識した瞬間、明後日の作戦で鶴見中尉達が確保する予定である"アイヌの少女"の事が頭に浮かび、自分の肩に力が入ったのが分かった。しかし、目の前の女性は"少女"と呼ぶにはきちんと成熟している。おそらく無関係であると判断し、私はただの"素敵な看護婦さん"を演じようと口を開いた。
「…何かご用ですか?」
努めて普通の口調を意識したつもりだったが、私の声はどこか不自然だったのかもしれない。目の前の彼女は小さく笑い声を漏らした後、そのまま続けた。
「不思議な気配がすると思ったら、あなただったんですね」
まるで私を知っているかのような言い草だった。もし相手が見知らぬ男であれば、新手のナンパかと早々に見限って立ち去ることもできたが、彼女からは何の悪意も感じないどころか、その口調に込められた親しみすら感じ取れる。
「…私達、どこかでお会いしましたか?」
私が投げ掛けた率直な質問に対して、彼女はにこやかな口元は崩さず、曖昧に二・三度まばたきをして首を傾げた。どうやら私の質問に答えるつもりはないらしい。
彼女は私が不思議な気配の持ち主だと言ったが、彼女こそ不思議な雰囲気を纏っているように思える。それに、かなりの美人だ。曲がることなくまっすぐに向けられるその視線に負けて目を逸らしそうになった時、彼女は再び口を開いた。
「看護婦さん、あなた随分遠いところからいらっしゃったんでは?」
わざとらしく指をこめかみに当てながら透視をするかのように目を瞑る彼女を見て、私は肩の力ががっくりと抜けるのを感じた。さすらいの占い師、といったところだろうか。
「…ええ、東京の生まれですから」
そもそも北海道は元々開拓地であり、他所から入植してきた人間など山程いる。私は占いを信じないが、美人のパフォーマンスの腰を折るほど遊び心が無いわけではなかった。最後に壺を売りつけられなければいいのだが。
私の返答に満足しなかったのか、彼女は集中した表情のまま片手を顔の高さまで上げた。手の平を上にした状態で指を軽く曲げ、まるでその手の平の上に乗せた何かを見つめるような仕草で薄く目を開いた。
「東京よりももっと遠いところでは?」
「すごいですね、北海道に来る前は英国に住んでたんですよ」
完全に開ききった彼女の目が、その指の隙間から私を見ていた。何かを見通すような強く美しい瞳。同じ見通す目であるというのに、鶴見中尉の瞳とはこんなにも印象が違う、透き通った目をしていた。
「いいえ。英国よりも、もっともっと遠いところですね?」
みぞおちの辺りを強く掴まれるような感覚が私を襲った。誰にでも当てはまる話をして占いが当たったように見せかけたいなら、直線距離で約九千二百キロ離れたイギリスよりも遠い場所から来たなんて、どうして断言してしまうのだろうか。違う、彼女は遠い"ところ"と言った。距離の話ではないのかもしれない。だとすれば、鶴見中尉と月島さん以外は絶対に誰も知らない筈の秘密を、どうして彼女は知っているのか?
「近い内にまたお会いしましょう」
そう言うと彼女は腕を下ろし、こちらに背中を向けて川辺の方へと引き返していった。私が発そうとした、待って、という言葉は口の中で曖昧に溶け、私は湧き上がる疑問と共に唾を飲み込むしかなかった。
近い内にまたお会いしましょう、不思議な言葉だった。
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スカートの裾から中に侵入した手が私の太ももを撫でると、パチリとガーターベルトのクリップがサイハイソックスから外れた。近付いてくる唇から顔を逸らし、この状態のままどうやって時間を稼ぐかだけを考え続けているが、医師の性急な手は既に私のブラウスのボタンに掛かっていた。
「先生…待って下さい」
「君が誘ったんだろう、鶴見くん」
彼の人差し指と親指が第一ボタン横の布地を摘んだ瞬間、遠くでペースの早い鐘の音が鳴り始めた。
「…この音?」
「ああ、監獄の鐘だな」
監獄の鐘が鳴ったという事は、杉元一味の侵入が監獄側にバレてしまった事を意味しており、鶴見中尉にとっては監獄突入に向けての合図である。
「先生、非常事態ですから…やめませんか」
「どうせ囚人が脱獄を図っただけだろう…すぐ捕まるさ」
そんな意味を持つ鐘の音も医師の耳にはただの日常茶飯らしく、その指は止まらずに、二つ、三つとボタンが外れていく。その途中、私の胸元に乗っかったブレスレットを見つけた彼は、ボタンを外す手を止めて私を見下ろした。
「…君みたいな子がなぜこんな所に一人で来たのか、ずっと考えてたんだよ」
ランプの灯りがぼんやりと彼の顔を、その憐れみと軽蔑の中間のような表情を照らしている。
「どうせ男に捨てられたんだろう?」
嘲笑うような口調が私の神経を逆撫でする。男に捨てられた私は傷心のあまり贈り物の腕飾りを胸元に隠しながら一人地の果て網走へと失踪した―とでも言いたいのだろうか、この男は。完全に見当違いというわけでもない所が余計に腹立たしい。
「女ってのはつくづく憐れだな…僕が忘れさせてあげるよ」
ふざけるな。そもそも海軍少将の息子にだってできないんだから、ちんけな診療所の息子ができるわけないだろう、そんな事。
負傷者が運ばれてくるまでの間、この男を病院内で留めておくためだったら抱かれてでも時間稼ぎをするつもりだったが、もうそんな生温い事を言っている場合ではない。ここまで私を、女を馬鹿にされて、黙って抱かれてなんかやるもんですか。
「…先生」
「なんだい、鶴見くん」
「馬鹿にしないで下さい」
私に覆いかぶさる股間に向かって渾身の力で蹴り上げる。私の膝がその不愉快な硬さに到達した瞬間、建物全体を揺らす程の爆発音が鳴り響いた。私の上に崩れ落ちる体、揺れる屋根、ビリビリと震える窓。
「…え、私?」
そんなわけも無く、それは網走川に架かる橋が爆破された音の筈だった。直に三つ巴の戦闘が始まる。早ければ一時間以内にも負傷者が運ばれてくるかもしれない。
息も絶え絶えに唸り声を上げる医師の体を横に転がし、私はベッドから立ち上がる。胸元で揺れるブレスレットをしまいこむようにボタンを留めながら、このままこの男を放っておいたとしても、間もなく始まるであろう艦砲射撃が聞こえれば、無闇に外へは出て行かないだろうと考えた。
「先生、今夜は働いて貰いますよ」
準備は整った。