Chapter 6: 網走編
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肌にまとわり付くような重い空気の感触を日中からずっと感じていた私の予想は当たっていたようで、日没後すぐから霧雨が振り始めた。
日が暮れて一人部屋に戻ってしまえば、毎日こんな風に過ごしている。しんと静まり返った和室の中で古い畳の匂いを肺一杯に吸い込み、布団も敷かずにただ寝転がり、出口のない思考の迷路をぐるぐると彷徨っては、時折涙を流して溜息を吐く。月島さんはもちろんの事だが、鯉登少尉も忙しくしているのか、一昨日からほとんど姿を見ていない。それで構わなかった。今は誰に会っても、いつものように振る舞える自信がない。
宿に用意されていた寝間着用の浴衣、そして畳のイ草の匂いに混じる雨の香りが小樽の自宅を思い出させる。自室で眠りに就こうと目を閉じる私の耳に入ってくるのは、玄関の戸が静かに引かれる音、軋む床張りの廊下、そして私の部屋の前を通り過ぎる足音。
ぎし、と襖の向こうで床が軋む音が聞こえ、現実へと帰ってきた私は音がした方へと顔を向ける。
「名前」
廊下から呼びかける鶴見中尉の声が、まるで私がまだ回想の世界に居座り続けているような錯覚を抱かせた。
「入ってもいいか」
「…どうぞ」
滑らかな木が擦れる音と共に襖が開かれ、鶴見中尉が室内に入ってくる。畳の上にだらしなく寝転ぶ私を見て苦笑した後、そのまま私の肩の横辺りにあぐらをかいて座り込んだ。
「まるで自宅に居るような感覚だな」
「私もちょうどそう考えてたところです」
私が横目で鶴見中尉を見上げると、その黒い瞳も横目で私を見下ろす。お互いの視線が交じり合った瞬間、私達はどちらからともなく微笑みをこぼした。
「そろそろいらっしゃる頃かな、と思ってました」
「中々構ってやれんですまなかったな」
艦内では同室と言えども、本当に寝る時しか寝室に帰って来ない鶴見中尉と挨拶や業務連絡以外の話をするのはいつぶりだろうか。定期的に私を気遣うような行動を見せる彼がそろそろこの部屋に姿を現すんじゃないかと、ここ数日どことなく予想はしていた。
鶴見中尉の手が私の顔に伸び、まつげの先にくっ付いたままの水滴をその親指が優しく拭った。
「泣いてる場合ではないぞ」
「…すみません」
「名前、少し飲むか」
意外なお誘いに目を見開く。鶴見中尉はお酒を嗜まない筈だった。
「…何かあったんですか?」
「お前のご機嫌取りだ」
「あら珍しい」
鶴見中尉に促されて体を起き上がらせると、ちょうど襖の向こうから仲居さんの声が聞こえた。丁寧に開かれた襖から部屋に入ってきた仲居さんの手には膳が抱えられており、それを私と鶴見中尉の正面にゆっくりと下ろした後、頭を下げて退室していった。
膳の上には山菜のお漬物と薄く湯気を立てる徳利、そしてお猪口二つが乗っていた。鶴見中尉がお猪口を手に取ったのを見計らって徳利を持ち上げる。その陶器の表面は熱めのお風呂くらいの温度まで温まっており、注ぎ口からふんわりとアルコールの匂いが立ち上っている。
「少し燗を付けさせたが、良かったか?」
「好きですよ、秋のぬる燗」
こちらに向けられたお猪口に注ぎ口を傾ける。ちょうど半分まで注いだところで鶴見中尉から、もういいぞ、と声が掛かったので、慌てて徳利を垂直に戻した。こちらに差し出された彼の手に徳利を渡せば、私が持っているお猪口にはしっかり八分目まで日本酒が注がれた、
「乾杯」
「いただきます」
お猪口を軽く上に掲げるだけの乾杯をしてその縁に唇を着けた。後味がもったりしていない辛口はやはり燗するに限る。
「美味しいですね、これ。どこのお酒ですか?」
「新潟だ」
口をお猪口から外した鶴見中尉は私の質問に答えた後、苦い顔をして口を数度もごもごと動かした。
「ふふ、やっぱりお好きじゃないですか?」
「…やはり良さは分からんな」
どうしてもお酒は好きじゃないようだ。こんな
膳に乗った小皿から、大ぶりに切られた名前の分からない山菜のお漬物を指先で摘み取って口に放り込む。ほんのりとした苦味とまろやかな甘味の昆布だし、そして淡い塩気が舌の上に広がった。浅漬けのようだ。
私が二切れ目の浅漬けに手を伸ばした後、鶴見中尉も同じように指で一切れ摘み上げ、ひょいと口に入れた。咀嚼しながら指先をぺろりと舐めた彼も膳にお箸が用意されている事を知っている筈だが、今日は気取らず私のようにお行儀悪くしたい気分なんだろうか。
私が三度目の手酌で自分のお猪口を満たした時、ようやく鶴見中尉は最初に注がれた分を飲み終えたようで、空になったお猪口を膳の上に戻してから、口直しの浅漬けをもう一切れ口に放り込んだ。
「お酌しましょうか」
「いや、もういい」
「…私ばっかり飲むの、恥ずかしいんですけど」
「おかしいな、名前は無類の酒好きと聞いたんだが」
演技っぽい口調でからかわれ、腹立たしさと気恥ずかしさが同時に私を攻撃する。お酒は言うまでもなく好きだが、無類とはなんだ無類とは。
「誰からお聞きになったんですか」
「鯉登少尉…の通訳をした月島軍曹、だな」
質問の後に再度お猪口へと唇を付けた私は、今はできれば聞きたくなかった男二人の名前に肩を揺らし、それをごまかすように人肌くらいまで冷めた日本酒をすべて喉に流し込んだ。空になった私のお猪口を見た鶴見中尉が膳の上の徳利に手を伸ばす。
「仲良くやっているそうだな」
「…まあ、それなりには」
曖昧な質問と共に日本酒が注がれる。お猪口を持つ指先にじんわりと熱が伝わり、濁した答えを吐いたばかりの口内を清めるように再度お猪口を口元に運ぶ。それなりに仲良くやりながら、それなりに決別の理由を探している。嘘ではなかった。
「いい加減諦めは付いたか」
「…まあ、それなりには」
引き続く曖昧な質問にもう一度濁した答えを投げ返す。明確な拒否の後に知らされた意図の分からない真実が、私の諦めの心を揺るがしているのは嘘じゃなかった。
赤の他人を除けば、しがらみが無い関係というのは存在しないのかもしれない。その人には言える事、あの人には言えない事、そして誰にも言えない事。頭の中で常にそれらを振り分け続ける私にとって、すべて引っ括めて見抜いてしまう鶴見中尉のするどさはある種の安らぎのようでもあった。
私をこの立場に縛り付けた張本人であるにも関わらず、私に救いを与える男。赤の他人であるのに一番近い男。諦めと安らぎ。
「来なさい」
横から肩を抱き寄せられ、鶴見中尉の肩に頭を凭せ掛けた。黒い袖口から伸びる温度の低い手の平がゆっくりと擦るように私の肩と二の腕を行き来する。
「あの時は、辛い言い方をして悪かったな」
「嘘付き、思ってないでしょうそんな事」
"あの時"とは、小樽を出発した日の艦内でのやりとりを指しているようだ。確かにあれは色んな意味で本当に殺されるかと思った、とあの首への圧迫感を思い返しそうになったその時、肩を離れた鶴見中尉の手が私の首筋に当たった。ひんやりとした人差し指が浴衣の襟元に入り込み、肌を引っ掻くように動かされる。その冷たさと微かな刺激に薄く息が漏れ、私は慌てて手の平で口を押さえた。
「すまんな、冷たかったか?」
「…何してるんですか」
「この紐」
鶴見中尉はその人差し指を鉤のように曲げ、襟の中に隠れるようにして私の首に掛かる黒い紐を引っ掛けた。長い輪状の紐がゆっくりと引っ張り上げられ、ペンダントトップとして紐に括り付けられてているあのブレスレットが襟元から引き抜かれた。
私でもあの人でもない手が緑の石を摘み上げ、その硬い感触を楽しむかのように握り込まれた。
「お前は、私に"幸運をもたらす女"なんだろう?」
「…占いは信じないんでしょう?」
「お前の事は信じておるぞ」
右頬に硬い髭の感触が走った後、そのまま軽く唇が当てられた。私は瞼を閉じてもう一度記憶の中の小樽駅へと着地する。その右頬に口付けようと首を伸ばすが、正面にいた筈の姿はこつ然と消えていた。私以外誰もいないホームにけたたましい汽笛が響く。もう行かなくてはならない。
瞼を開き、鶴見中尉の肩から頭を持ち上げると、その手から離れたブレスレットが私の胸元へぱたりと落ちた。顔が熱い。
「…ちょっと、飲みすぎました」
「はは、そんなに美味かったか?」
「おじさまのせいですよ」
何もかもこの男のせいだ。だから、私はこの男について行く。
手に持ったお猪口にはぬるくなったお酒がまだ残っていたが、これ以上口を付ける気は起きず、零さないよう慎重に腕を伸ばして膳に戻した。それに合わせて鶴見中尉が軽く畳の上で背筋を正してから、口を開く。
「明日、道中気を付けるように」
「どうせずっと馬車に乗ってるだけですから」
私は明日の朝、単独で網走へと出発する。
「決行日は来週―新月の夜だ」
艦隊は明日にでも斜里を出港し、監獄側に気取られないよう作戦決行までは網走沖にて待機となる。つまり網走港はそのまま通過するので、作戦行動中の乗艦許可が下りていない私はここから別行動だ。
「何かあれば病院に密使を送る。分かったな?」
「はい、問題ありません」
監獄から程近い病院にて待機の後、作戦後の救護にあたれ。それが私に与えられた命令だった。顔の熱さの割に頭はすっきりと冷えている。覚悟も諦めも意図も理由も幸運も、すべて命あっての物種だ。
「死なないで下さい」
「お前が私達を生かすんだ」
焼け落ちる兵舎の前で交わしたその言葉を、私も鶴見中尉も忘れてはいない。あの人が去ろうとも、新たな誰かが寄り添おうとも、私達だけは変わらない。