Chapter 6: 網走編
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根室から更に北上を進めた私達は、右手に望む国後島をも超え、知床半島を回り込んだ先の小さな港町・斜里に到着した。函館、根室に続く三箇所目の寄港地であり、既に網走近郊へと潜伏している少数の兵士を除き、作戦に参加するすべての兵士との最終合流地点である。
有坂中将がわざわざここまで持って来た機関銃を始めとする様々な武器弾薬や燃料など、港には積込予定の物資のクレートが山積みになっている。残念ながらこの小規模な漁港にはまともな接岸設備が無いため、各艦に四つずつ用意された接岸用ボートをフル稼働して兵士達が資材の搬入を進めている。
私は倉庫の前に積まれたクレートに腰を下ろし、港と倉庫をせわしなく行き来する兵士達をかれこれ三十分は目で追い続けている。正直言って暇だ。まだまだ積込作業が終わる気配は無さそうだと言うのに、港の方から機関銃で遊ぶ有坂中将と鶴見中尉の声が聞こえてくる。そんな事しているから作業が終わらないんでしょう、と苛立ちの視線をそちらに向けた時、二人の背後に立つ月島さんの姿が目に入った。
しばらく見ない間に衣替えをしていたらしく、その凛々しい冬衣軍服姿を遠くからじっと眺める。最後にこの濃紺のジャケットを見たのはいつだっただろうか。記憶の中の小樽駅に舞い戻った私は、ホームで私を見送る月島さんの右頬に口付ける。驚いた様子で右頬を手で押さえたその顔を直視できずに、私はクレートの上に乗った自分の膝へと視線を落とした。紺色の袖から出た自分の手が共布のスカートを握りしめている。奇しくも、私の服装もあの日と同じ看護婦式服だった。
月島さんが高熱を出したあの日からもうすぐ一週間が経とうとしている。翌日の朝、なんと一晩で月島さんの熱は下がったと鶴見中尉から報告を受け、私は胸を撫で下ろしたと同時に、近々自分にも現れるであろう諸症状を迎え撃つべく部屋に引き篭もる準備をした。そして何の兆候も見られないまま更に一日が経過した次の朝、咳き込む男が私の部屋のドアをノックしたのだった。
視界に黒いブーツの足先が映り込み、私は顔を上げる。
「…あら、鯉登少尉殿」
不機嫌そうな表情の鯉登少尉が私を見下ろしながら鼻をすすった。
「…まだ喉が痛い」
「はいはい、宿に着いたら生姜茶淹れてあげますからね」
その朝、
「…絶対、あのくしゃみだと思ったんだが」
「いや、でも私全然調子悪くありませんし」
驚いたことに、私には症状がまったく現れなかったのだ。もしかして本当に私は馬鹿なんだろうかと一晩真剣に悩んだ程だった。結局、私に月島さんの風邪はうつっていたのか、うつっていたとしたら何故症状が出なかったのか、そして鯉登少尉はどこから風邪を貰ってきたのかの真相は、すべて闇の中である。
「なんとかは風邪を引かないって言うからな」
鼻で笑った鯉登少尉が笑えない冗談を零した時、すぐ側の倉庫から鼻歌交じりの宇佐美上等兵が出て来た。その両頬にはあの日の落書き棒人間が未だに居座っており、それを見た鯉登少尉が小さく舌打ちをした後、わざわざ自分から突っ掛かりに行ってしまった。
「いい加減にそのホクロの絵を消せ!」
しゃがれた声でがなってもあまり迫力は無いのだが、鯉登少尉はきつい形相で指先を宇佐美上等兵の顔に突き付けている。
「ああ、これ…入れ墨にしたんです」
まるでラブレターを受け取った乙女のように頬を染める宇佐美上等兵を見て、私はその落書きが誰によって描かれたものなのかを瞬時に理解した。心酔を超えて狂信の域に達しているに違いない。怯んだ様子の鯉登少尉が宇佐美上等兵に背を向けてこちら戻ってくるが、その顔には対抗心よりも困惑が強く浮かび上がっており、私は隠れて胸を撫で下ろした。
「…鶴見中尉殿の所へ戻るぞ、名前さん」
鯉登少尉が私の背中に手を当てて移動を促した瞬間、まるでつららのような視線を感じた私の背筋におぞましい寒気が駆け上がった。目線を動かさなくても分かる。呪いのフランス人形と同じ目をした宇佐美上等兵が視界に映り込んでいた。
「…ヒッ」
「おい、どうした」
これだけの瘴気に当てられながら寒気一つ感じていない様子の鯉登少尉が、一向に前に進もうとしない私の顔を覗き込んだ時、向けられる視線の圧がさらに強まったように感じた。お分かりいただけただろうか、この人が私に近付けば近付く程あの呪い人形の視線が強まる事に。
「…そ、そうだ、生姜生姜!」
「…はぁ?」
「生姜買ってきますから、さあ先に戻って下さい!」
無理矢理な理由を繕って鯉登少尉の背中を押すと、眉を寄せてこちらを何度か振り返りながらも大人しく港の方へと歩いて行った。そしてその背中がある程度の距離まで遠ざかったのを見計らい、私は呪い人形と対峙するために視線を宇佐美上等兵へと動かした。
「よかったー、気付いていただけて」
「…何のおつもりですか」
「もう言っちゃおうかと思いましたよ、土蔵の事」
口を動かす度に上下左右伸び縮みする棒人間のコミカルな動きとは反対に、発された脅しの言葉はまったく笑えない。
「…好きにすればいいじゃないですか」
「まあ、そうですよねぇ。やましい事が無いなら何の問題も無いですしねぇ」
まるでやましい事があったと断定するような言い草になぜこの男はここまで言い切れるのかと疑問に思ったが、あの出来事をこれ以上繰り返し思い返せる程、私の傷はまだ癒え切っていなかった。思わず目を逸らした私を愉快そうな表情で眺める宇佐美上等兵が、不意に思い出したように声を上げる。
「そうだ、ちょっと診て欲しいんですけど」
笑顔のままこちらにずかずかと歩いて来たかと思えば、私の目の前に右頬の棒人間を、ぐい、と近付けた。
「な、なんですか…」
「こっちだけ治りが遅くって」
黒々としたインクで染められた皮下組織の上をひた走る棒人間をじっと見つめる。棒人間の頭部は少し淡くムラのある黒色をしているので、恐らくここは元々のホクロそのままなんだろう。手足の部分と下に描かれた二本の効果線の上には所々剥がれかけた赤茶色のかさぶたがくっ付いており、周辺の皮膚が乾燥したように少し引き攣れていた。
「掻いちゃったんじゃないですか?これ」
「えー、気を付けてたんだけどなぁ」
ショルダーバッグの中に右手を突っ込み、手探りで小さなガラスの小瓶を見つけ出す。取り出したそれは、函館の西洋薬品店で見つけた現代にも伝わる名品・ヴァセリンだ。
「何ですか、それ」
「ただの保湿剤です」
コルクの蓋を取り去り、小指の爪の先をスパチュラ代わりにして軟膏をすくい取ると、頬のかさぶたに乗せるように塗っていく。
「ちょっとべたべたしますが、触らないようにして下さいね」
そう告げた時、宇佐美上等兵が顔をまったく動かす事なく、そのくっきりとした輪郭に縁取られた瞳だけを素早くこちらを向けた。軟膏を塗り付ける私の手が思わずぴたりと止まる。
「知りたいですか?」
宇佐美上等兵のセリフに合わせて頬の棒人間が揺れるように動いた。発言の意図が掴めず、ちらりとその瞳見上げると、まるで
「僕が月島軍曹に胸ぐら掴まれた時、何て言われたか」
宇佐美上等兵はそう言うと傾けていた顔をまっすぐに正し、私を正面から見据えた。あまりの威圧感に半歩後退りしようと右足が動くが、軟膏を塗るために上げていた手を鷲掴みにされ、私は蛇に睨まれた蛙のごとくその場に留まるしかなかった。
「ねぇ、知りたいですか?」
「…結構です」
「またまた、本当は知りたいくせに」
「本当に、知りたくありませんから」
あまりにも馬鹿らしい遣り取りにうんざりした私が顔を逸らして横を向いた途端、掴まれた手が急に引っ張られ、私の耳元に宇佐美上等兵の口元が近付いた。
「なんなら、また僕が取り持ってあげましょうか?」
まるで中学生が恋の内緒話をするかのように嬉々とした囁き声が私の耳に届いた。渾身の力で掴まれた手を振り解き、大きく後ろに下がる。私はてっきり、このたちの悪い男は気に入らない鯉登少尉を陥れるために私と誰かのゴシップをでっち上げようとしただけであって、そのゴシップの相手は都合が良ければ誰でも良かったのだと考えていた。しかし違う。宇佐美上等兵はあえて月島さんを選んだのだ。どこでかは分からないが、私の思いを知っていたに違いなかった。これ以上この男の身勝手な茶番に月島さんを巻き込んでたまるか。
「月島さんを巻き込まないで下さい」
私は心の中で毒を吐くし文句だって沢山言うが、正面向かって人に怒りをぶつける事はほとんど無い。そんな自分が今完全に怒りの感情を開放している事に気付いていたが、今回だけは譲れなかった。やはり"上等兵"とは相性が悪いらしい。
対して宇佐美上等兵は、怒りを露わにした私を妙にぎらぎらした目付きで見つめながら、まるでホラー映画の快楽殺人鬼のようにゆっくりと口角を上げる。
「"名前を巻き込むな"」
まるで私が今しがた切った啖呵へのオウム返しのようなセリフだった。
「月島軍曹もあの時、そう言ったんですよ?」
ああ愉快、その弧を描くように細められた目がはっきりと物語っていた。私には分からない。巻き込まないでくれと私を突き放したのは彼の方だったじゃないか。今更そんな事を知ったところで何ができると言うんだ。