Chapter 6: 網走編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
触られた形跡の無いベッドの側に置かれた兵士用の背嚢、壁に立てかけられた小銃。名前はそれらが視界に入らないよう体の向きを変えて椅子の上に座り直すが、テーブル越しの正面に腰掛ける鯉登少尉と向かい合う形になり、居心地悪そうに俯いてハンカチで鼻をかんだ。鼻水と涙で濡れに濡れたそれをじとりと見る視線を感じたのか、重く腫れた瞼を押し上げてその視線の主である鯉登少尉を見遣った。
「新しいの買って返しますから」
「いや、別にそこまでしろとは…」
鯉登少尉は顔を名前に向けたまま視線だけを逸らし、気まずそうに小声で言った。短い沈黙の後、名前がハンカチを膝に下ろして長く息を吐いき、その視線を床の木目が描く模様へと移した。
「…落ち着いたか?」
名前の息を吐く音に反応した鯉登少尉は心配気な声音で尋ねるが、そのいたわりが名前をさらに追い詰めている事に気付いてはいなかった。湿ったハンカチを膝の上で握りしめながら木目を視線でなぞり続けていては何の解決にもなりやしないと、彼女は知っていた。
「…縁談の話、やっぱり無かった事にできませんか」
そう言い切った名前の言葉尻は震えていた。潰えた希望に覚悟が砕けかけた瞬間を、目を逸らし続けてきた自身の甘さと卑怯さを目の当たりにした直後である今、戒めを与えるためにできるのは退路を断つ事だけだった。
テーブル越しに座る男の顔を見る勇気も無く、重い沈黙だけが部屋の中を支配する。
「月島が、応えたのか」
まっすぐに通る鯉登少尉の声が淀んだ空気を震わせ、名前の耳にまで届いた。その男の名前を持ち出した事については彼女は微塵も驚かなかったが、その楽観的な予想には多少困惑していた。ここまであからさまに取り乱す姿を見ていながら何故そう思ったのだろう、と名前は苦笑する。
「…あはは、だったらこんなひどい顔してると思います?」
名前はあえて実際何が起こったのか説明はしなかったが、その逆説的な皮肉は十分にその背景を物語っていた。ただ鯉登少尉が理解できなかったのは、そこではなかった。
「じゃあ何故だ」
本質を問う直球の質問が名前の頬を掠める。今は自身のみぞ知るその甘さと卑怯さを暴かれてしまうという恐怖心が、罪悪感から逃れるため自ら崖の淵に歩み寄ろうとする彼女の足を竦ませた。
鯉登少尉はその横顔をまっすぐ見つめながら質問の答えを待っていた。固く閉ざした筈の蓋を押し上げようとする涙を目の奥で感じつつ、名前が震える唇を少しだけ開く。
「月島さんとだめだったから、じゃああなたと、なんてできるわけないでしょう…!」
その甘さと卑怯さを吐き出してしまえば少しは胸が軽くなるかと投げやりに考えていた名前だったが、吐き出してみた後にそうではない事をはっきりと思い知った。この重さをどうにかして欲しい、口汚くなじってくれたら少しはマシになるだろうか、そう思い付いた彼女は顔を上げ、虚ろな眼を鯉登少尉へと向けた。自分では飛び込めずに最後の一押しを相手に求めるなんてやはりただの甘ったれだと、彼女は自覚していた。
力強い瞳と虚ろな瞳が交じる。
「それの何がいかんのだ」
鯉登少尉の口からまっすぐ名前の耳に届いた言葉は、その甘さと卑怯さを糾弾するどころか、その存在を当たり前のものとして肯定する響きを持っていた。
「言っただろう、惚れた腫れたの話ではないと。罪悪感を持つ必要がどこにある?」
突拍子も無い理論だ、と名前は思った。それと同時に、この男は敢えて自分に逃げ道を与えようとしている事、そして未だに"良い友人"を演じようとしている事を理解した。
「…あなたが、そんな優しい事言うからじゃないですか」
虚ろな目から溢れた水滴がなだらかな頬を滑り落ち、キュッと締まった口角の窪みに入り込む様子を見つめる鯉登少尉は、女ん涙はどしてん好かん、と心の中で呟いた。彼女がこの縁談に乗り気で無い事はそもそも本人の口から既に告げられていた上、未だにその目が月島軍曹の背を追い続けている事にも気付いていた。それでもなお縁談を無下にするつもりがないのは、鯉登少尉本人が婚姻によって得るであろう恩恵を天秤に掛けた結果だった。その結果だけの筈だと、自分自身に言い聞かせていた。
結局流れ出てしまった涙をどうにかしようと名前は湿ったハンカチを顔に当てようとするが、先程鼻をかんだばかりという事を思い出し、代わりにブラウスの袖口で乱暴に頬を拭った。その瞬間、鯉登少尉がテーブルの上に素早く突っ伏したかと思うと、聞き覚えのある奇声と共に両手で頭をがしがしと掻き始めた。
頬を擦る手をピタリと止めた名前はまるで珍獣を見るような目でその様子を窺っていたが、烏の濡れ羽のように紺色掛かった髪を乱す手の速度が次第に遅くなり、数秒後には発作が治まったかのように静かになった。鯉登少尉は額と鼻の頭をテーブルの表面に押し付けたまま、ほとんど唇を動かさずに呟く。
「…罪悪感持っちょるんは自分だけち思うな…」
もし名前が本当に月島軍曹しか目に入っていなかったのであれば、鯉登少尉に対して罪悪感を抱く事は無かったかもしれない。それと同様に、もし鯉登少尉が天秤に掛けたその結果のみを求めていたとしたら、彼女に罪悪感を抱く事も無かったのだろう。
「…今なんて言いました?」
「何も言っとらん」
漏れた本音が届かなかった事を確認し、鯉登少尉は荒れた頭髪を手櫛で撫で付けた後、上体はテーブルの上に倒したまま首だけを持ち上げて名前を恨めしい目付きで見上げた。
「…そんなに私と婚約するのが嫌か」
「もっといい人が居ますよ、まだお若いんですし」
「…中尉に昇進するまで結婚自体はせんのだぞ」
「好都合じゃないですか、探す時間がたっぷりあって」
まるで子供を諭すかのような名前の口調が癪に障ったのか、鯉登少尉は椅子の上に浅く腰掛け直して背凭れに体を預けると、不遜な動作で足を組んだ。
「分かった。考えてやってもいい」
それは名前が待ち望んでいた答えの筈だった。思わずごくりと飲み込んだ唾は無味無臭で、胸の途中でつかえたように数秒留まってから胃の奥へと落ちて行った。表情を変えずに黙っている彼女を見つめたまま、鯉登少尉はさらに言葉を続ける。
「だが、鶴見中尉殿と父上をどうやって納得させるんだ?」
「…それは…」
「正当な理由が無いとどうにもできんぞ」
縁談の決定権は当事者二人の手元にある訳ではない。いくら二人の間でこのような会話がなされようとも、名前が抱える罪悪感は事の本質を左右しうる正当な理由としては認められない。
「早い内に考えておく事だな」
言い淀んだまま俯く名前を見つめながら、鯉登少尉は自身の心の内に抱える罪悪感が膨らむのを感じていた。
その罪悪感がもたらすのは、絶えず仮初の救い与えようとするいびつな憐れみの心だった。函館の夜に名前を月島軍曹に任せたのも、たった今縁談を破棄する意思があると告げたのも、すべて
「そんな
「…ずんだれてませんけど」
不機嫌そうに言い返した名前がハンカチで鼻を拭う。その様子をまっすぐ見据えていた鯉登少尉の目が細められ、無意識の内に開いた口が彼女の名を呼んだ。
「…名前さん」
重く腫れた瞼が押し上がり、潤んだ瞳が鯉登少尉に向けられる。
「何ですか?」
「…いや、やっぱりいい」
鯉登少尉は声として発される事のなかったその問いを頭の中で繰り返す。自分がその答えを本当に知りたいのか、未だに分からなかった。