Chapter 6: 網走編
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立ち止まって一度深呼吸をする。肺の中に溜まった重苦しい何かを吐き出すイメージを体に覚え込ませ、続けて二度まばたきをする。問題無く上下する瞼は普段通りそのもので、思考にも表情にも何らおかしいところはないようだ。正面のドアを三回ノックする。硬い表面に打ち付けた中指の関節に痛みは無いものの、じんわりとした痺れが残った。
「名前です」
ごくごく普通の音量で自分の名前を告げてから数歩退りすると、背中がドアに面した廊下の壁にくっ付いた。室内からこちらに近付いて来る足音が聞こえた後、内側に開かれたドアから姿を現した鯉登少尉の白い軍服に視線を固定し、等間隔で並ぶボタンに焦点を合わせた。
「…なんでそんなに遠いんだ?」
鯉登少尉が私に怪訝な視線を送っている事は顔を見ずとも分かっている。そもそもなぜ彼からこんなにも距離を取っているかと言うと、私はやばい風邪を貰ってしまった可能性が非常に高いから、ただそれだけだ。わざわざ患者を個室に移したのも感染予防のためであるというのに、今ここで鯉登少尉と接近してしまえば何の意味も無くなってしまう。手短に要件だけ伝えて早くこの場を去らないといけない。
「月島軍曹殿は熱がありますので、今日は別室で休んで貰います」
鶴見中尉の言い付け通り、私情を挟まずに命じられた事のみを告げた。私の報告に対して何か言葉が返ってくるかと思いボタンを見つめ続けていたが、数秒経過した今でもなぜか鯉登少尉は黙り続けている。言わなければいけない事は言ったのだ、これ以上待つ必要は無いだろうと判断し、頭を軽く下げて立ち去ろうとした。
「…では、失礼しま―」
「何かあったのか?」
鯉登少尉が私の言葉を遮り、探るような声音でそう告げた。こちらに向かって踏み出されたブーツの先に視線を落とすと、私の心臓が拍動のスピードを上げた。
「近付かないで下さい」
さらに踏み込んだ対のブーツに向かって制止のセリフを投げた。近付かせてはいけない、これは私情とは全く無関係な
私情を挟んではいけない。手っ取り早くすべての感情を詰め込んで縫い合わせた胸元の"傷口"がずきずきと疼き出した今、これ以上長く取り繕い続ける事はできないだろう。早く立ち去らないといけない。正面の近い位置に迫る軍服から逃れようと、壁に張り付いたまま横に足を踏み出そうとした私だったが、私の顔の両脇で壁に手を突いた鯉登少尉によって八方塞がりへと陥ってしまった。
「…どうしたんだ、その顔」
ぽつりと呟かれた言葉も、視界の両端に映り込む白い袖も無視して、床の上で向かい合う私と鯉登少尉のブーツの先端を見つめ続ける。激しく打つ心臓がきつく縫い合わされた筈の"傷口"を緩ませ、隙間から罪悪感が染み出してくるのを感じる。私情を挟んではいけない。そう心の中で繰り返した瞬間、顎先を軽く掴まれ、持ち上げられた私の視界のちょうど中央に鯉登少尉の顔が映った。
「触らないで下さい」
「おい、動くな」
どこまでもまっすぐな視線が私の瞳を射抜く。そんな目で見ないで欲しかった。もし私が抱えるすべての秘密を今この場で打ち明けてしまったら、このまっすぐな瞳はどんな風に陰るんだろうか。今日の口付けも、そして突き放された事も、私の正体も、すべて知られてしまったら、性根の腐った卑怯な女だとなじって張り倒して、私から去って行くだろうか。"傷口"に滲む罪悪感の正体とは何なのか。それは逃げ道として利用したくないという思いとは相反した、見捨てられる事への恐怖心だ。
私は逃げないで立ち向かうと心に決めた筈だった。でも、今更何と立ち向かうつもりなのだろう。目の前から消えてしまった背中をどう追いかければいいのだろう。どれだけ取り繕ったところで、肺の中の重苦しい何かを吐き出す事なんて到底できないし、瞼は上手く動かない。息を止めたまま、すべて忘れればいいのに。落ちてくる瞼が閉じきる直前、私の口元に何かが近付いてくるがうっすらと見えた。
鼻の下にハンカチが当てられ、ごしごしと左右に動かされた。
「…え?」
「鼻水垂れてるぞ」
鯉登少尉の言葉が信じれずに鼻をすすってみると、確かに水っぽいくぐもった音が鳴った。まさか先程堪えた涙が鼻から出て来たのだろうか。最悪だ。
「まったく…風邪でも引いたか?」
鼻下を擦られるがまま大人しくしていた私だったが、その言葉で一気に正気へ返った。この鼻水自体は風邪によるものではないが、危ない風邪を持っている可能性が高い私の鼻水に触れるのはご法度である。このハンカチはすぐに回収しなければ、と考えた時、不意に鼻の奥の粘膜にふわふわと擽るような刺激を覚えた。まずい、先程鼻をすすった時にハンカチの繊維を吸ってしまったようだ。お馴染みのむずむずとした感覚が顔の中央部に集まってくる。
「あ、らめ、離れて下たい、」
鼻に当てられたハンカチで口を押さえようと慌てて手を伸ばすが、"離れて下さい"の意味を勘違いした鯉登少尉はそこに立ったまま、あろうことか私の顔からハンカチを取り去ってしまった。
「ちがッ、…は、」
「…は?」
鯉登少尉の顔の横で揺れるハンカチに手を伸ばすが、三叉神経の伝達は言うまでもなくそれより早かった。
「―――ッくしゅ!」
やってしまった。くしゃみの瞬間、反射的に固く閉ざしてしまった目をゆっくり開くと、口元を袖で拭いながら凄みのある目付きで私を睨む鯉登少尉と目が合った。非常にまずい、絶対にうつした。
「貴様…謝らんか!」
あまりの剣幕に慌てて謝罪の言葉を口にしようとした瞬間、ぷつり、と胸元の"傷口"の縫合が外れる音が聞こえた気がした。自分でも何がきっかけだったのか、なぜ今なのか、まったく検討がつかなかった。怒涛のように流れ出した感情が頭の中に降り注ぎ、ぼたぼたと音を立てて溜まっていく。頭のキャパシティを超えた水量を、まるでダムを放流するかのように自分の両目から排出させ始めた私を、鯉登少尉は幽霊でも見るかのような目で見ていた。
「…おい、待て、」
「…あ…ごめんな、さい…」
ごめんなさい。自分の口から発されたその言葉こそが疑問の答えだった。謝れと言われて、私は謝りたかっただけだった。早々に謝って耐えきれない程の重圧から逃れてしまいたかっただけなのだ。故意ではないと言え身勝手な理由で女の武器を使い、この人をあたふたさせている私は本当に救いようがない性根の腐った卑怯な女だ。
「泣く程責めておらんだろう!」
「…そうじゃ、ないんです、けど…」
焦った表情の鯉登少尉が、再び私の鼻の下をハンカチで押さえ付けた。目からこんなに涙が流れているのに鼻の下という事は、どうせまた鼻水が垂れているんだろう。確かこの人は旭川でも鼻血を垂らす私を目撃しているはずだが、本当にそんな女と結婚させられてもいいのだろうか。
鯉登少尉は左右の廊下をちらりと確認し、ハンカチを押さえる手とは逆の手で私の腕を掴んだ。
「とりあえず部屋に入れ、廊下で泣かれては噂になりかねん」
「…嫌です…」
「いいから入れッ」
開けっ放しになっているドアの方へと掴まれた腕を引っ張られ、最早私情以外の何物でもない道草を食う事となった。