Chapter 6: 網走編
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一度だけ、誰かをこの手で幸せにしたいと、そして自分にはそれができると勘違いしたことがあった。生まれも心も貧しい自分が人に何かを与えることができる筈もないのだが、その時はまだ可能性が残されていると、自分にもやっとその特別な機会が与えられたのだと本気で思っていた。
特別とは一体何だ。特別とは、あの子の事だ。あの狭く腐った島の中であの子だけが特別だった。特別とは彼の事だ。底知れない深さを持つ彼が目指す終着地点こそ、今の自分の世界そのものだ。特別とは、何だ。
「…き…さん、月島さん!」
力の入っていない腕を後ろに向かって引かれ、思わず後ろにたたらを踏んだ。特別とは、何だ。
「ちょっと、ふらふらじゃないですか!」
特別とはあなたの事だ。何もかもが重苦しく湿り気を持つ自分の世界に唯一羽根のような軽さを保ち続ける異質の存在。いつかあの占い師が言った、自分に幸運をもたらすという眉唾物の女。
「私の部屋に行きましょう、そっちの左の角部屋です」
幸運とは何だ。幸運とは、あなたがこの腕に触れる事だ。開いた扉の隙間に自分を引きずり込み、柔らかい寝台へ導くあなたの手そのものが幸運だ。甲斐甲斐しく足元で長靴の脱がせるのも、上体を横たえる時に背中を支えるのも、首元まで布団を掛けるのも、自分の世界の中であなたの手だけがもたらすことのできる完璧な幸福だ。
一度諦めたはずの自分の手があなたに触れた時、欠陥だらけの己が心とその不完全さに辟易する。眠った体を抱き上げた時、頬に指をなぞらせた時、花の香りのする湿った髪を摘んだ時、冷たい手の甲を温めた時、腕飾りの消えた手首を握った時、自分自身が作り上げたこの世界の中でさえ自分は特別たり得ない存在である事をひしひしと自覚させられる。
「月島さん、口開けて下さいね」
舌の下に細い棒が差し込まれる。滑らかなガラスの感触が体温計だという事に気付いた時、額の上に冷たい布が当てられ、汗を拭うように左右に動かされた。卑しくも自分の手が額へ伸びようとしているのを感じ、布団の中で拳を握った。自分は一体何をやっているんだろうか。あなたが何者であろうと、あなたが何を望もうとも、あなたが考える幸福がどんな形であろうとも、その特別な機会が自分に与えられる事は決して無いというのに。
「念の為、おじさまに報告してきますから。すぐ戻ります」
逆光であなたの顔を見る事は叶わない。生まれも心も豊かな誰かがその羽根を持ち去っていく時、泥に塗れて地面を這いつくばる自分はきっと黙ったままその様子を見上げているのだろう。反吐が出る程特別なあなたが背中を向けて扉から出て行く。それでいい、もう戻らないでくれ。
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ドアを三度ノックしてから名前を告げると、部屋の中で、入れ、と鶴見中尉の声が響いた。開いたドアの隙間から見えたのは、こちらに顔を向けて椅子に腰掛ける鶴見中尉の姿と、その隣で立ったまま横目で私を見つめる特徴的な瞳と頬の棒人間だった。ドアノブを掴んだまま立ちすくむ私に、鶴見中尉は呆れたように緩く首を振りながら口を開く。
「名前、入るならちゃんと入りなさい」
宇佐美上等兵の口角が、ぐい、と上がるのを恨めしい目付きで見つめながら後ろ手でドアを閉めた。二人が陣取る部屋の中央部からかなりの距離を取ったまま立ち尽くす私に、二人の射抜くような視線が突き刺さる。
「…あの、月島さんの件ですが」
「ああ、宇佐美上等兵から聞いたぞ」
私は宇佐美上等兵に素早く視線を送った。この男、どこまで喋ったんだろうか。当の宇佐美上等兵は変わらず笑みを浮かべ、私に向き直るわけでも視線を逸らすわけでもなく、横目で私を見つめたまま沈黙を貫いている。
「高熱があるらしいな」
鶴見中尉があっけらかんと言い放った。私は少しだけ胸を撫で下ろすと共に、それ以上の情報が与えられていない事を切に願った。
「はい。
「良い判断だ。月島軍曹の同室は…鯉登少尉だったな」
忘れかけていた胸元の"傷口"がずきりと痛んだ。夕食の時間はとうに過ぎているにも関わらず部屋に戻らない月島さんを不審に思っていることだろう。そして、もしかしたら私の姿が見当たらないことにも気付いているかもしれない。
鶴見中尉は少し考えるような仕草を見せた後、宙を見つめたまま宇佐美上等兵の名を呼んだ。私へと向けられていた宇佐美上等兵の探るような視線が、くるりと鶴見中尉へ移動した。
「宇佐美上等兵、医者の手配を頼む」
「はい、喜んで」
嬉々とした声音で返事をした宇佐美上等兵がドアの側に立つ私の方へと歩いて来る。先程向けられていた痛烈な視線とは打って変わり、不気味なくらいに私を一切見ることなく部屋の外へと一直線に消えていった。
「名前」
鶴見中尉は続いて私の名を呼んだ。
「お前は鯉登少尉に月島の事を伝えたら、別の部屋に移りなさい」
医者を手配すると聞いた時から、月島さんの看護から外される事はなんとなく予想はしていた。しかし、私は"すぐ戻ります"と伝えたのだ。あそこまで症状がひどくなったのは私が上着を奪ってしまったせいでもある。絶対に戻らないといけない。
「いえ、月島さんの看病に戻らせて下さい」
「私情を挟むのは関心せんぞ」
鶴見中尉の言葉尻はそこまで尖ったものではなかったが、思いの外私の胸深くに突き刺さった。図星だったからだ。私情で命令系統を崩してはいけない―医療現場に於いても、もちろん軍に於いても遵守すべき基本中の基本であり、そこに抗う余地は無い。
「…分かりました。でも、体温計だけ確認させて下さい」
「いいだろう」
体温の確認は私情とは別物であり、医者が到着するまでに把握しておけばそれだけ早く診察を開始できる。鶴見中尉もそれを理解したのだろう、一度月島さんの元へ戻る事を許してくれたようだ。
「名前」
鶴見中尉がドアノブに手を掛けた私の名を再度呼んだ。なぜか振り返る気にならず、鶴見中尉に背を向けたままドアの前で立ち止まり、言葉の続きを待った。
「うつされないよう気を付けなさい」
「…はい」
ドアノブを回して扉を引き、足早にその隙間へと体を滑り込ませた後、音が鳴らないようにゆっくりと扉を閉めた。無意識に左手の指先が下唇へと伸びる。お風呂上がりに塗った軟膏はほとんど剥げてしまっていて、私はぼんやりと、きっともううつってしまっているのだろうな、と心の中で呟いた。
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「…月島さん、起きてますか?」
テーブルの上に置かれたランプにはもう灯油があまり入っておらず、豆電球ほどの弱々しい光が部屋の中を照らしていた。ベッドの上で膨らんだ布団の形と枕に埋もれる月島さんの後頭部がうっすらと浮かび上がる。壁に向かっているその顔はこちらからは確認できないが、くぐもった小さな返事だけはきちんと聞こえた。
「……はい」
「体温計を確認しに来ました」
そう告げてベッドサイドに近寄ると、頑なにこちらに振り向かない月島さんの手が無言でその側頭部の上に置かれた。よく見ると、その手には体温計が握られている。表面のガラスがすっかり熱を帯びた体温計を受け取り、ランプがあるテーブルの方まで移動して目盛りを確認すると、その銀色の線は三九度四分を示していた。想像していたよりもずっと高い。
「九度四分です。もうすぐお医者様が来ますから、そう伝えて下さい」
「…そうですか」
いつものようにそっけない返事を投げて寄越した月島さんを残して、私はこの部屋を立ち去らないといけない。何か言いたい事があるわけでもないのに後ろ髪が引かれる思いがして、最後にもう一度ベッドサイドへと近付いた。
「…あの、月島さん」
返事は無い。布団から出ている汗ばんだ首筋にゆっくりと手を伸ばす。あと数センチでその皮膚に指先が届きそうになった時、掠れてはいるものの本来のシャープさを伴った声が私の耳に届いた。
「ご自身の立場をお忘れなく」
ピタリと手を止め、発された言葉を胸の中で反芻する。月島さんと私の立ち位置の間を横切る明確な線を浮かび上がらせるその警告は、まさしく拒否そのものだった。薄暗闇にぼんやりと見える後頭部は微動だにせず、私はその首筋に向かって伸ばした手をゆっくりと引っ込め、ブラウスの胸元を握った。
「深い意味は無いと言った筈ですが」
矢継ぎ早に放たれた次の言葉、"深い意味はありませんので"―蔵の中で月島さんが告げたそのセリフを、私はあの時言い訳だと都合よく解釈した。
「勘違いさせたなら、謝ります」
そうです、私は勘違いしました。寝ぼけた私を布団に下ろしたのは、頬に指をなぞらせたのは、乾ききっていない髪を摘んだのは、冷たい手の甲を温めたのは、不安そうに手首を握ったのは、まだそこに希望は残っているからだと、てっきりそう思っていたんです。
「…もう私を巻き込まないでいただきたい」
月島さんは一呼吸置いた後にそう言うと壁に向かって小さく溜息を吐いた。それと同時に、最後の灯油一滴まで燃やし尽くしたランプが、部屋の四方に暗幕を落とすようにしてすべての明るさを奪った。
胸元でブラウス越しに触れる硬い感触をなぞるように指先で確かめる。小ぶりの石と細い鎖が交互に続いて直径十センチ程の環を描いた後、また最初の石に戻って来た。ブレスレットを胸元に隠しているのは、看護婦としていつでも仕事ができるようにという覚悟の意味であると同時に、月島さんを求め続ける事への罪悪感の表れでもあった。
私が誰であろうと、私が何を望もうとも、私が考える幸福がどんな形であろうとも、あなたと私を取り巻くその環が千切れてしまえば、私はそれを一人で直す事はできないでしょう。こちらに背を向けたあなたの顔を見る事は叶わないけれど、それでいいんです。お大事に、月島さん。