Chapter 1: 導入編
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無事浅草通りに到着し、最初のうちは気を遣って商店を外から眺めては立ち去る、を何軒か繰り返したものの、この時代の最先端のスキンケアグッズを集めた素敵なお店を発見してしまい、私は吸い込まれるように中に入っていった。月島軍曹は文句も言わず、ここで待ちます、と軒先に繋がれた忠犬のように待ってくれていた。
あらお姉さん、お肌がすっごくキレイね、と女店主がいつの時代も変わらぬセールストークを始め、私もいい気になって話し出すと止まらなくなってしまった。軍曹が戸口の外から数分おきに店の中の様子を覗っているのが見えた。
「あの兵隊さん、お姉さんのイイ人?」
女店主がこそこそと耳打ちする。そんなんじゃないですよ、と笑って濁すものの、女店主は、みなまで言うな、分かってるわ、という表情でしきりに頷いている。
「女はね、恋してきれいになるの。あの人のおかげで、お姉さんの肌はそんなにきれいなのね」
購入した物を風呂敷に包みながらしみじみ言った。そして思いついたようにカウンター下に手を伸ばし、小さな陶器のケースを取り出すと釣り銭と一緒に私の手のひらに乗せた。
「お姉さん、いっぱい買ってくれたからおまけ。先週入荷したばかりの口紅、顔色がぱっと明るくなるから今付けておゆきよ」
カウンター横にある鏡を手繰り寄せ私に手渡す。包み紙を開けると、その小さな陶器はミニチュアのお茶碗みたいになっていて、中には赤と朱色の中間のような色の紅が入っていた。
「筆持ってくるからちょっと待ってね」
「あ、大丈夫です、指で付けますから」
薬指の先端に少しだけ取って、左手に鏡を持ちポンポンと色を移すように唇を叩く。アイメイクに時間をかけたくない私は現代でも赤リップが大好きだった。内側から滲ませるように薄くグラデーションを作る。現代のものよりパサつきを感じるが、今丁度購入したリップ用の保湿軟膏を重ねれば全然使えそうだ。
「お姉さん、その紅の塗り方素敵ね!私も真似しちゃおう」
ふと視線を感じて戸口の方に目をやると、こちらを肩越しに見る月島軍曹とばっちり目があった。いつも無表情の軍曹にしては分かりやすく、しまった、と言うような顔ですぐに目を反らす。女子のみなさんならきっと同意してくれると思うが、リップやマスカラ塗ってるところを、できれば男性には見られたくないのが乙女心だと思う。察して欲しかった。でも、そういうことが分からない硬派なところがそもそも好きなのだ。恋とはまさに矛盾のかたまりである。
「じゃあお姉さん、兵隊さんによろしくね」
「だから違いますって…!」
女店主に茶化されながらお店の外に出る。月島軍曹は分かりやすく私と目を合わそうとせず、咳払いをしてから私が左腕に抱える風呂敷に手を伸ばした。
「あの、大丈夫です、自分で持てますから」
「手がふさがっていると買い物ができないでしょう」
「まだ付き合ってくれるんですか?」
「問題ありません」
ありがとうございます、と伝えると、ちらりと私の顔を見てすぐに目を反らし、うつむき加減で、いえ、と小さく返して、そのままくるりと私に背を向けて一人で歩き出した。人の顔をちらちら見ておいて、別に、みたいな態度はなんだ。落胆が怒りに変わり、そんなに変なら変ってはっきり言わせてやる!と、私は少しムキになって月島軍曹の後を小走りで追いかけた。再び言うが、恋とは矛盾のかたまりなのだ。
「そんなに変ですか」
私の駆け足の足音に気付いたのか、軍曹は少し歩調を緩めるが、振り返ることもなくそのまま歩みを進める。
「何がですか」
「紅です。私この時代のお化粧分からないから、変なら変って言って下さい…」
私は自分でこのセリフを言いながら、きっとこの人は変だと思っていたとしても絶対にそれを口に出すような人じゃないのに、困らせるような事を言っているな、という事に気付きだして、しかし後悔した時にはすべてを言い終える頃で、切ろうとした啖呵は尻すぼみに終わった。もしかしたら、変とか変じゃないとか以前に、好き・嫌いに関わらず軍曹の個人的な意見の対象になれるほど、私は彼の視界にすら入れていないのかもしれない。ここは素直に、困らせてごめんなさい、と謝るほうが傷口は浅くて済むかもしれないな、なんて考えていると、私に背を向けたままいつもより小さな声で月島軍曹が先に口を開いた。
「…どのように褒めたらいいか分からんのです」
「…変じゃない、ってことですか?」
軍曹は風呂敷を右手に持ち替え、左手で所在無さそうに首の裏を掻く。
「…おきれいだと思いますが」
自分の体が一瞬でどろどろした液体状になり、ビシャリと音を立てて足元に散らばって、踏み固められた雪を溶かしたその後にタンポポが芽を出す幻覚を見た。ひとりでに上がる口角を抑えきれず、心の中だけで軍曹のその逞しい背中にタックルを食らわせるのであった。
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その後、婦人洋服店で着物でも履ける黒い革のブーツと、この時代の日本にはまだあまり浸透していないという、お世辞にも履き心地が良いとは言えなさそうな輸入品のショーツを数枚購入した。白い綿の色気もへったくれもないショーツだが、洗い替えがどうしても必要なので仕方がない。
今回も月島軍曹は外で待っていてくれていたので、化粧品店の時と同じ押し問答を軒先で繰り返し、この色気のないショーツがこっそり入った風呂敷も軍曹の腕の中だ。
とりあえず早急に必要な物はすべて買い揃えることができたと軍曹に伝えると、軍曹はジャケットの内ポケットから何かを取り出して、それを乗せた手の平をこちらに差し出した。
「あ、これ、私のブレスレット」
「ブレスレット?やはり舶来の物でしたか」
「腕飾りです。祖母の形見…のような物なんですが、ここの留め具が壊れちゃってて」
ネックレスにも使われているよくあるタイプのツメのついた留め具だが、私が、ここ、と軍曹の手の平の上で留め具を指さすも、軍曹の顔には大きく"?"が浮かんでいた。
「ちょうど隣が貴金属店なので、直せるか聞いてみましょう」
店先で待っている時に気付いて思い出してくれたのだろう。そのまま隣の店に入り、光り輝くディスプレイには目もくれず、店主の立つカウンターへ向かった。店主はレトロなモノグラスでブレスレットを念入りに観察し、ため息をつきながら顔を上げた。
「めずらしい品だね。二十年やってるけど、この留め具は今まで見たこともないよ。壊れてる部分を完全に取っちゃって、在庫がある部品に付け替えることならできるけど、どうだい?」
店主は月島軍曹に向かってそう話し、聞き終わった軍曹が、どうする、といった表情で私の顔を見た。部品を取り替えてしまって直るのならそれでいいはずだ。もし昨日何事もなく仕事を終えて、駅ナカのジュエリーショップに持って行っていたとしても、きっと同じような提案をされていたに違いない。なのに、なぜか心の中で、今直すべきではない、と何かが私に訴えかけていた。
「あの、やっぱり今回は大丈夫です。見ていただいてありがとうございました」
「そうかい。もし札幌に行くことがあったら、あそこには最近輸入品専門の大きな店ができたから、寄ってみるといい」
店主は持っていたブレスレットを月島軍曹に返し、新しいの買ってあげなよ、と言ってカウンターの下からブレスレットがいくつか並べられた箱を取り出して、軍曹に見せる。軍曹は短く、いや結構、とさっくり断って戸口の方に歩き出した。別に新しいのがあっても全然邪魔になんかならないんですよ、ねえ軍曹、とこっそり心の中で文句を言った。
外開きのドアだったので、軍曹が先に外に出てドアを押さえ、私を通してくれる。最後までノブに手を添えて丁寧にドアを閉めると、私に向き直って、残念でしたね、とブレスレットを手渡した。手の平の上に乗せたブレスレットをじっと見つめる。先程の妙な感覚が蘇り、ほぼ無意識にもう片方の手でつまみ上げると、月島軍曹に突き返した。
「ご迷惑じゃなければ、月島軍曹殿が持っていて下さいませんか」
「はあ、でも大切な物では?」
「私は遠出することができないので、もしお仕事で札幌に行くことがあれば、店主が仰ってたお店に持って行って欲しいんです」
「構いませんが、失くしても知りませんよ」
月島軍曹は怪訝そうにブレスレットを受け取った。妙な感覚だった。理由もないのに、どうしてもあのブレスレットを受け取ってはいけない気がした。もちろん失くしてもらっても困るのだが。
「失くしちゃだめです」
「…妙に困らせますね」
「約束ですよ」
左手の小指を立てて、月島軍曹の顔の前に差し出した。軍曹は困惑と苦笑いが混じったような表情で、しぶしぶと私の小指に彼の小指を絡めた。
「"名字名前さん"」
絡められた小指を見て微笑みを抑えられない私に、月島軍曹は突然"鶴見さん"ではなく、私の名を呼んだ。驚いて小指から彼の方に目線を上げると、いつもの無表情か、もしくはそれより少し暗い表情で軍曹は再度口を開いた。
「あなたは…私に会ったことがありますか」
デジャヴ、というのはその神秘的なイメージに反して意外と日常的に起こるものらしい。ただの脳の錯覚だとか、夢で見たことを思い出しているだけだとか、実際のメカニズムはまだ解明されていないみたいだが。確かに、今思い出せる直近のデジャヴは、洗い物をしながらテレビを見ていて、なんかこの感覚とか風景、前にもあったようなーという、しょうもないものであるし。今月島軍曹を見つめながら感じている妙な懐かしさみたいなものも、どうせ後で思い返してみれば、恋心が生み出したただの思い込み、と結論付けられるのだろう。
と、ここまで考えを巡らせたところで、ようやく月島軍曹が言い放ったこのセリフの意図について深く考え始める。新手のナンパか何かか?どうしちゃったの軍曹、と目の前の男の真意を計ろうとするが、表情からはまったく何も読み取れなかった。
「どうでしょう、ね。"月島さん"は私に会ったことがありますか?」
なーんちゃって、と続けれる程軽い雰囲気ではなかった。しばらく見つめ合った後、私が先に耐えきれなくなって、目線と小指を同時に離した。心臓の音が頭の中で聞こえる。
「いえ、私はこれが初めてです」
まるで私に聞こえて欲しくない、と言っているような低い声で、小さく月島軍曹が呟いたので、私はあえて返事しなかった。結局真意は掴めなかったが、今日はなかなか美味しい思いをした気がする。お天道様はもうすぐ真上を向く頃だ。重苦しい雰囲気を変えるように、そろそろお腹がすく頃ですね、と軽い感じで話しかけてみた。
「鶴見中尉殿から、買い物が終わり次第兵舎までお連れするように、と言付かっております」
ランチデートはお預けのようだ。