Chapter 6: 網走編
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「だ・れ・かー!」
声でリズムを取りながら、木製の風呂桶が壊れない程度の力で鉄の戸に叩きつける。自分でも驚くくらいの重低音が鳴り響き、ちらりと月島さんの方へ振り返るが、一切の光が消え失せた室内ではもう何も見通せなかった。
「あ・け・てー!」
再度戸に向かって振りかぶるが、三度の轟音の後にまた静寂が訪れた。風呂桶から伝わる衝撃で肘から先がビリビリと痺れている。このまま続けていても果たして意味があるのだろうか―そう弱音を吐きたかったが、口から零れそうになる溜息をぐっと飲み込み、この策謀の先導者である憎き男の名を怒りに乗せて叫びながら、再び風呂桶を振りかざした。
「う・さ・みー!…この野郎っ」
「ここにいますけど」
「ヒッ」
ビリビリと鳴る共鳴音の向こう側で宇佐美上等兵が急に返事をしたので、喉の奥から変な息が漏れると共に風呂桶を握りしめた。
「い、いつからそこに!?」
「今ですよ今。宿の人が夕食の準備で出払ってたんで、遅くなりました」
「いいから早く開けて下さい!急病人が居ます!」
厚い戸の向こうで何か話し声が聞こえ、ガタガタと鉄が揺れる音が鳴り始めた。二歩後ずさって正面の暗闇を見つめていると、視界の端に一本の明るい黄色の縦線が現れ、引き摺るような低い音と共にその線幅が増していく。暗闇に慣れ過ぎた私の目にはそれが眩しすぎて目を瞑ると、引き戸をゆっくりスライドさせる音に混じって聞き慣れない老人の声が聞こえ始めた。
「…本当に申し訳ございません、元々立て付けが悪かったんですが」
「いえいえ、大丈夫ですよぉ」
妙に癇に障る宇佐美上等兵の軽い口調は置いておいたとして、恐らく宿の人間であろうこの声の主が言うように、引き戸が開かなくなったのは立て付けのせいなのだろうか。だとすれば、あの閂を掛けるような音は一体なんだったんだ。
ようやくその低い音が止み、私は恐る恐る薄目を開ける。半分程開かれた戸口の隙間から宇佐美上等兵と、ランプを下げた背の低い老人の姿が目に入った。
「お客様、ご無事ですかな」
「すみませんがこれに水をっ、あと鉄瓶にお湯も!二階の角部屋まで持って来て下さい!」
心配そうに私を眺めるご老人の手からランプを引ったくり、代わりに風呂桶を押し付けた。急いで蔵の奥へと踵を返す。先程までは見えなかった蔵の内部が今ははっきりと照らし出されており、月島さんが横になっている床の方へと一直線に走った。
床に土足のまま床に上がり、月島さんの側で膝を折ってランプを床に置いた。照らされた月島さんの顔には目元を隠すように腕が置かれており、その額には薄く汗が滲んでいるようだ。
「月島さん、戸が開きましたよ」
「…そうですか、よかった」
「早く部屋に戻りましょう。起きれますか?」
起き上がるのを手伝おうと手を伸ばすが、意外にも月島さんは自分の力だけで素早く、むくり、と起き上がった。膝の上に落ちたジャケットを肩に引っ掛けると、立ち上がって戸口の方へと一人で歩いて行ってしまった。意外と元気なのか、はたまた人が来たせいで無理をしているのだろうか。私はランプを持ち上げ、その揺れる軍服の背中を小走りで追い掛ける。
「急病人って、月島軍曹殿の事ですか?」
宇佐美上等兵が戸口の側から室内に向かって声を掛けた。その隣に先程のご老人の姿は無く、私のお願いを聞き入れて早速母屋に戻ってくれたようだ。黙ったまま戸口の方へと歩き続けている月島さんの代わりに、私が少し大きい声で返事をする。
「そうです、その人高熱があるんです!早く部屋に、」
その瞬間、戸口へと辿り着いた月島さんが宇佐美上等兵の胸ぐらを掴んで引き寄せた。激しく腕を動かしたせいで肩に掛かっていたジャケットがバサリと地面に落ちる。
「ッ、ちょっと!何やってるんですか!?」
私は慌ててランプを地面に置いて戸口まで残り数メートルの距離を大股で駆け抜ける。間に割って入ろうとすると、ものすごい形相で至近距離にある宇佐美上等兵を睨み付ける月島さんの口が小さく動いているのが見えたが、何を言ったのかまでは分からなかった。宇佐美上等兵はいつもの飄々とした表情のまま黙っている。
「やめなさい!」
私がそう言って、宇佐美上等兵の襟元を引っ張る月島さんの手を鷲掴みにすると、その指の力が緩んだようで、宇佐美上等兵は前のめりになっていた上体を元の位置に戻した。
「月島さん!だめですよ、大人しくして下さい!」
自分がすっかり仕事モードになっているのを自覚した。でなければ月島さんに向かってこんな風には怒鳴れる訳がない。引っ掴んだ手に力を込めて下げさせると、大人しく腕を下ろした月島さんはそのまま一人で蔵の外へと出て行ってしまった。
「あ!ちょっと、待って下さい!」
地面に落ちたままのジャケットを慌てて拾い上げようと手を伸ばした時、宇佐美上等兵が私の手首を強く掴んだ。今はこの男に構っている場合じゃないのに。
「なんですか、離して下さい」
「
宇佐美上等兵が自分の被っている軍帽を人差し指で示しながら、私にいじわるな笑みを向けた。何の事か分からず眉を顰めたが、自分が月島さんの軍帽を奪ってから頭に乗せたままだった事をすぐに思い出し、首筋から頬にかけて一気に熱を持つのが分かった。そんな微妙な表情の変化を宇佐美上等兵が見逃すわけもなく、口角と共にその妙な両頬の棒人間が、ぐい、と持ち上げられた。
「中で何してたんですか?」
「…何も、してません!いいから離して、」
「でも、鯉登少尉殿が知ったらどう思いますかねぇ」
鋭利なナイフで胸を突かれたような感覚がした。乱暴に引き抜かれた後の傷口から、どろりとした液体が流れ出すイメージが頭の中に浮かび上がった。なんだろう、これは、罪悪感だ。掴まれた手首を力いっぱい振り払い、そのままブラウスの胸元を握りしめた。まるで本当に刺し傷があるかのようにひどく胸が痛い。
「なんで、こんなことするんですか」
私がこの男に何をしたって言うんだ。こんな一計を仕組まれる程の恨みを買った覚えなんてない。その寒気がする程はっきりとした輪郭を持つ瞳が私を射抜く。
「だって彼、"近すぎる"んですよ」
まばたき一つしないその瞳が見開かれ、そこに映り込んだ私の顔はただの無機物であるかのように見えた。久しぶりに感じる純粋な恐怖が、私の視線をその瞳の中の自分の像へと釘付けにさせた。
「旭川でヘマやらかして逃げ出してきたくせに鶴見中尉殿のまわりを飢えた犬みたいにうろつき始めたと思ったらあなたという
シェイクスピアは悲劇『オセロー』の中で、嫉妬の感情を"緑色の眼をした怪物"と表現した。軍人オセローを妬んだ旗手イアーゴーは、オセローの妻デズデモーナの裏切りを演出し、嫉妬に駆られたオセローは自らの手で妻を殺害した後、自らの命を絶つ。
この人の目は何色だろうか。あの人が私をレンズ越しに見つめる時、その冷たいガラスに反射する私の目は何色だろうか。その後一人思いに耽る私の背中を見つめるその人の目は何色だろうか。怪物は人の心をもてあそび、食い尽くす。
「そう思いませんか、名前さん」
今にもその鋭利な牙に噛みつかれようとしている事を悟った心臓が拳の下で痛みに暴れている。迫る疼痛を少しでも抑えようと、拳を解いて手の平を胸元の"患部"に押し当てたその時、私がブラウスの下の胸元に隠し持つ"とある物"の感触が手の平を刺激した。小さく凹凸のあるその感触を撫でるように確かめると、幻痛と恐怖に支配されていた体がゆっくりと緩んでいくのを感じる。食われてたまるか、逃げてたまるか、と心の中で唱えた。
「
ジャケットを素早く拾い上げて戸口の外の暗闇に目を凝らしてみるが、月島さんの姿はもう見えなかった。見えないなら、追いかけて探すだけだ。
「私は看護婦です」
不機嫌そうに目を顰める宇佐美上等兵をまっすぐ見据えてそう宣言した後、戸口から飛び出して母屋へと続く道を走った。