Chapter 6: 網走編
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天井近くの小窓から淡く差し込む光の筋の中で、細かい埃が舞う様子を見つめるのにも飽きてきた。濡れた髪が当たるブラウスの肩はすっかり湿っており、体の芯から熱を奪うような土蔵独特の冷気も相まって、私は小さく肩を震わせた。
「…宇佐美は、本当に誰かを呼びに行ったんですか」
「…その筈なんですけど」
戸口の側の壁に体を凭れ掛けて腕を組む月島さんが沈黙を破った。その鉄引き戸が閉じられてから少なく見積もっても十分は経過しており、どこからともなくカラスの鳴き声が聞こえてくる時刻に差し掛かっていた。
あの時戸口から離れた場所にいた月島さんには、宇佐美上等兵が閂を閉めた音は聞こえていなかったのだろう。本当に引き戸の立て付けのせいで閉じ込められたと思っているようだった。―もし私が月島さんにバラしたら、どうなるだろうか。そう考えた瞬間、あの狂気を孕んだ二つの瞳が私を射抜く幻覚が見えると同時に異常な寒気が私の背筋を駆け上がった。あわてて二の腕を手の平で擦る。寒い、寒すぎる。
「冷えますか」
月島さんはそう言うと、まずその指先で軍服の襟元を緩め、上から順番に一つずつボタンを外していく。ちょっと月島さん、そんな仕草一体どこで覚えてきたんですか。私はいつの間にか口の中に溜まっていた唾を一気に飲み込んだ。
ボタンをすべて外し終えた月島さんがジャケットを脱ぎながら、私が腰掛ける土間から一段上がった床の方へと歩いて来る。そのまま私の正面で立ち止まると、脱いだばかりのジャケットを私の肩に掛けてくれた。まだ体温の残る生地から月島さんの匂いが、ふわり、と香った。
「…ありがとう、ございます」
「風邪は引かないようにして下さい」
月島さんは事務的な口調でそう告げると、踵を返して元立っていた位置へと戻っていった。その背中は決してこちらに振り返ることは無い。ジャケットの襟元を手繰り寄せ、その残り香の中に顔を埋めた私は宇佐美上等兵を心の底から呪った。こんなの、あんまりだ。
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ある程度の暗闇に視覚は順応できると言えども、僅かな光源が消えてしまえばそれはただの真っ暗闇―人間の目ではもう何も見えなくなってしまう。小窓から覗く空が遂に紺色がかり始め、蔵の内部を照らす唯一の明かりが消えようとしていた。近頃の日没は午後六時頃―閉じ込められてから約一時間と少しが経とうとしていた。
「…日が、暮れますね」
未だ戸口の側に立っているであろう月島さんが数分ぶりに口を開いた。どちらからともなく時折思い出したように短い会話を始めては黙る、という生存確認のようなルーティンを繰り返していた私達だったが、暗闇に呑まれつつある蔵の中では最早お互いの姿すらおぼろげにしか認識できなくなっていた。
日が落ちると共に蔵内部の温度もどんどん下がってきている。ついに耐えきれなくなった私は、肩に掛けるだけだった月島さんのジャケットに腕を通し、膝を抱え込んで静かにうずくまった。
「…そう、ですね」
膝小僧に顔を押し当てたまま呟いた返事はみっともない程にくぐもっていた。こんな事になるなら、ちょっとそこまでだからと横着せず、ちゃんと上着を着てくるんだった。冷たく硬い床板に当たるお尻からぞくぞくと寒気が上ってくる。
「大丈夫ですか」
えらく口数の減った私を心配してくれたのか、月島さんが再びこちらに近付いてくるのが足音で分かった。先程と同じように私の正面で立ち止まり、土間に片膝を突いて私の顔を下から見上げる。
「体調が悪いんですか」
「…これ借りてるのに…すみません、やっぱり寒くて」
月島さんだってジャケットを脱いだ下にはシャツ一枚のみ、いくら鍛えているからと言ってもきっと寒い筈だ。これ以上着る物は無いのに弱音を吐くのは心苦しかった。
不意に、膝を抱きしめたまま黙っている私の耳の下辺りに温かい手が触れ、ぎこちなく首筋に沿わされたその固い指先が襟足の生え際まで届いた。久しぶりの、本物の月島さんの体温があまりにも心地良くて、ついその手の平に顔を凭せ掛ける。月島さんはその手の平は首筋に当てたまま、未だに湿ったままの首元の髪を指先で挟み込むように弄った。
「…髪が、濡れてませんか」
「ええ、お風呂に入ったので…」
「なんでもっと早く言わないんですか」
月島さんは呆れたようにそう言うと、私の首から手を離して立ち上がった。高い位置にあるその顔を見上げるが、表情が確認できる程室内に明るさは残っていなかった。また戸口の方へ戻って行ってしまうのだろうか、と落胆して目を伏せるが、私の視界にぼんやりと映るその両足はその場で立ち尽くしたままだ。
「…あの、月島さん?」
意外にも月島さんは私のすぐ隣に腰を下ろし軽く溜息を吐いた後、意を決したような、言い訳のような、よく分からないセリフを放った。
「これは…その、ただの応急処置ですので」
「…え?」
「深い意味はありませんから」
真隣でごそごそと動く気配が私の背後に移動したと思ったら、肩からお尻にかけて体の背面全体に、温かい体温と共に少しの体重が掛けられた。更に両サイドから伸びて来た月島さんの手が膝を抱える私の手の上に被さった。つまるところ、私は今、月島さんの脚の間に座った状態で後ろから抱きすくめられている。
ピタリとくっついた体から体温が移り、冬眠状態のように活動を弱めていた心臓が再び素早く打ち始めるのを感じる。私の左肩に乗せられた月島さんの顎が少し動き、何か言おうとしているのが分かった。
「…どうですか」
「…えっ、はい、あの…温かい、です…」
「なら良かった」
再び訪れた静寂に、視覚以外の感覚が否が応でも研ぎ澄まされる。左肩で小さく聞こえる呼吸の音、それに合わせて動く月島さんの胸が私の背中に当たっている感触、私の手の甲を温める月島さんの手の平の温度、そして何より鼻腔いっぱいに満たされた大好きな匂い。
天井近くの小窓を見上げる。先程よりも更に濃くなった紺色が夜の訪れを告げていた。このまま誰も助けに来ず、ずっと二人で閉じ込められたままでいれたらいいのに。
「…ねえ、月島さん」
「…なんですか」
「お酒で記憶、飛んだ事あります?」
月島さんは素っ頓狂な質問の答えを考え込んでいるようで、私の肩に乗せる頭の角度を少しだけ変えると、一緒に動いた軍帽が私の耳の端を掠めた。
「…いえ、ありませんが」
「私はよくあるんです、葡萄酒飲むと」
「そうですか」
素っ気無い口調で返された返事も、耳元で聞こえればこんなにも穏やかだ。ずっと折り畳んだままの両足が痺れてきた気がする。背中に新たな熱源を得た今ならば、もう足を抱えておく必要もなさそうだ。両足を土間に滑り落とすと、それを抱えていた私の手、そしてその手に添えられていた月島さんの手がパタリと音を立てて私の太ももの上に着地した。私はそれを都合よく解釈し、そのまま自分の話を続けることにした。
「函館でも、やらかしました」
「…そうですか」
私が自虐的に小さく笑いながらそう言うと、月島さんは先程と全く同じ言葉で相槌を打ったが、その声色はどことなく感情を隠しているように聞こえた。
「でも、そういう時に限って夢を見たりするんですよね」
月島さんの手が、ぴくり、と動いた気がした。私はその手の下から自分の手を引っこ抜き、今度は自分の手の平を月島さんの手の甲に重ねて体温を確かめる。熱い手、夢の中で私の頬に触れた指先がここにある。
「…どんな、夢ですか」
月島さんが掠れた声で呟いた。ぞくぞくするような、切ないような、そんな甘い響きが耳元から体中にじんわりと広がり、全身の神経が乗っ取られるような感覚に襲われた。まるで操られるように、上から重ねているだけだった月島さんの手を掴んでゆっくりと私の頬へと導く。
「この指が、頬っぺたを触って」
少しささくれ立った固い指先の感触が現実のものとなる。まさか、今この瞬間も夢だったりして。
「そしたら月島さんが帽子を取って」
もう片方の手を肩の後ろに伸ばし、手探りで月島さんの頭から軍帽を奪うと、バレないように軽く内側の匂いを嗅いでから自分の頭に乗せた。ジャケットから香る匂いよりももっと濃い汗の―男の人の匂い。こんなのにドキドキするなんて、私はちょっと変わってるのかもしれない。
「そのまま、私に」
座ったまま上体を捩って後ろへ振り向く。もうすぐそこに月島さんの顔があることは気配で、空気越しに伝わる吐息の温度で分かっているのだ。私がその息がする方へさらに顔を近付けると、うわ言のように不安定で不確実な拒否の言葉が発される。
「いけません」
私は気付き始めていた。いつも距離を取って無視したり冷たくしたりするくせに、いざという時に私を振り払う事ができないことを。そしてあの日、夢の中のあなたは本当に私の部屋に居て、本当に私の頬に触れたんじゃないかという事を。私はそれを証明したい。次の行動が分かっているから、そうやって口先だけの言葉で私を止めたいんじゃないんですか、月島さん。
「…次に何するか、知ってるんですか?」
そう言って月島さんの手を離すと、力が入っていないその手は重力に従い、重い音を立てて床の上に落ちた。そして無抵抗のその体を後ろに向かって押せば、いとも簡単に倒れ込んでしまうのだ。どこまでも甘い、優しい人。
「ねえ、知ってるんですか」
この人は今どんな顔をしているんだろう。黙ったまま仰向けに寝転ぶ月島さんの上に膝立ちで跨り、その顔の横に両手を突いた。暗闇にぼんやりと顔の輪郭やパーツが浮かび上がるが、その表情までは分からなかった。もっと近くで見たくなって、伸ばしていた肘を折り顔を近付ける。
「こうでしたよね、月島さん」
唇が触れる直前にそう告げると、月島さんが目を閉じたのがうっすらと見えた。私はまたそれを都合よく解釈し、そのカサついた下唇を舌先で軽く舐めてから、そこに吸い付いた。
口内に差し込んだ舌が熱い。この人はいつもこんなに体温が高いのだろうか。もっと知りたい、もっと奥まで味わいたい。さらに深く口付けるために角度を変えようと、床に突いていた左手を月島さんの熱い頬に添えた。
…熱い、いくらなんでも、熱すぎないか?急いで顔を離し、目を瞑ったままぐったりしている月島さんの顔に目を凝らす。
「…月島さん?」
「…はい」
「あの、熱あるんじゃないですか?」
「…そんなはずは…」
苦しそうに息を吐いた月島さんの額に手の平を当てると、発熱していることが瞬時に感じて取れるくらいに熱かった。少なくとも三十八度くらいはありそうだ。
「やっぱり、熱ありますよ」
「…大したこと、ありません」
「あります!」
急いでジャケットを脱ぎ、荒い呼吸に合わせて上下する胸元に被せる。一晩中ここで閉じ込められたら、なんて言っている場合じゃない。一刻も早くここから脱出しなければ。手探りで周辺の床に手を這わすと、その指先が風呂桶に当たった。これで鉄引き戸を叩いて大騒ぎしてやるしかない。
「月島さん、ちょっとうるさくしますけど我慢して下さいね」
「…どこ行くんですか」
月島さんの手が私の左手首を探し当て、そのまま軽く掴んだ。私の胸に罪悪感、ときめき、母性愛、その他色々な種類の感情が怒涛のように渦巻いた。右手でそっとその熱い手を手首から外し、月島さんの上体に掛かったジャケットの上に戻す。
「救難信号を送って来ます」
「…そう、か」
「月島さん…本当に、ごめんなさい」
きっと閉じ込められた当初から体調は悪かっただろうに。そんな病人からジャケットを奪ったり、抗わない理由を都合よく解釈したり、挙句の果てには押し倒して襲ってしまうなんて、本当に自分本位な事をしてしまった。
風呂桶の縁を引っ掴み、私は覚悟を決めて両足を土間に下ろした。この恨み、晴らさでおくべきか。待ってろ宇佐美上等兵。