Chapter 6: 網走編
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「だーれもいない海」
欄干に背中を凭れ掛けて首を思いっきり反らせると、視界に雲混じりの空と穏やかな海面が逆さまに広がった。ぴっちりと纏めた筈の髪がぱらぱらと潮風に煽られ、初々しい恋の歌を口ずさむ私の頬をくすぐる。
「二人の愛を確かめたくってー」
昼間でも気温が二十度を下回り始めるこの季節、サンマ漁の最盛期を迎える根室の港は多くの漁船で賑わっていた。私は目を閉じ、既に何度も思い返し尽くしたあの夜の夢を、あの人が私の頬を撫でる映像と感覚を、飽きずにまた繰り返していた。
「…あーなたの腕を、すーり抜けてみ、ッ、!?」
不意に腕が掴まれ、かなりの力で引っ張られた。反動でむち打ちになりそうな勢いで頭が前方に動き、目の前の白い軍服に顔から突っ込みそうになって思わずその胸の辺りに手を突いた。生地の触り心地だけでそのジャケットの持ち主が誰なのかは分かっていたが、ちらりと顔を見上げてみると、鯉登少尉にしては珍しく軍帽を被っていたのは予想外だった。その軍帽のせいか、妙に厳しく見える表情で私を見下ろしながら口を開いた。
「何をやっている」
私の腕を掴む手に力が入る。今明らかに私は叱咤されているようだが、その理由に何の心当たりも無かった。艦を降りてから、言いつけ通り桟橋で大人しく迎えを待っていただけだ。確かに妙な体勢で身を乗り出してはいたが―そこまで考えたところで、ようやく鯉登少尉がどんな予想していたのか見当が付いた。
「…あの、身投げなんてしませんよ?」
私の肩を掴む手が離れ、鯉登少尉は目を閉じて安堵と呆れの深い溜息を吐いた。彼は本当に私が世を儚んでいるとでも思っていたらしく、キッ、とその目を鋭く見開き、まるで八つ当たりのように声を荒げる。
「紛らわしい事をするなッ!」
「海を眺めてただけじゃないですか!」
一言怒鳴って気が済んだのか、鯉登少尉はさっさとこちらに背を向けて陸の方へと歩き出した。恐らく彼が私の待っていた迎えの人なんだろう。ここで置いて行かれては今日の宿の場所すら分からない。
「鯉登少尉殿、待って下さい!」
そう声を掛けると、この男は律儀にもちゃんと立ち止まって待ってくれるのだ。速歩きでその背中に追い付き、未だに不機嫌そうな表情で肩越しに私を見下ろす鯉登少尉に向かってはっきりと宣言する。
「私、逃げるために死んだりしませんから」
この人にここまで心配させる程、私は縁談の日に取り乱していたのかもしれない。私が一人で居なくなれば探しに来てくれるし、海に身を乗り出していれば止めてくれるくらいだから、それなりには気にかけてくれているのだろう―"良い友人"として。非公式ながらも婚約者として本来ならば許されないような事を、たぶん同情で自由にさせて貰っているのだ。不必要な迷惑も心配も掛けたくはない。
「…お酒には逃げますけど」
私の余計な一言に小さく、ふっ、と笑い声を漏らした鯉登少尉は視線を正面に戻し、歩みを進め出した。私もその斜め後ろで釣られて歩き出す。
「その酒癖どうにかした方がいいんじゃないのか」
「…おっしゃるとおりです…」
茶化すようなセリフが地味に胸に突き刺さった。それは自分が一番よく分かっているのだ。事あるごとにアルコールに慰めを求めた結果失態を晒す私の尻拭いをするのは鯉登少尉だ。
「こないだも、ご迷惑おかけしたんですよね、私」
「あれだけ抵抗した割にさっさと寝おってからに」
「…何のことですか?」
鯉登少尉がぎょっとした顔で私を見た。何を隠そう、鯉登少尉がお手洗いに行っている間にお会計を済ませたところまでは覚えているが、それ以降の記憶がまったく無い。気付いた時には早朝で、あまりの喉の乾きと胃もたれに外へ軽く吐きに行ったくらいには酩酊していたようだった。
「その、途中から記憶が…曖昧でして…えへ」
「…」
「え、何?ちょっと、黙るのやめて下さいよ」
なんだかすごく迷惑そうな表情をしている鯉登少尉を横目に、私はその夜に見た夢をさらにもう一度頭の中で再生した。私の頬に触れるあの皮の厚い指先の感覚が今にも鮮明に湧き上がるくらいに、リアルな夢の中の一瞬。自分の指先で頬を撫でながら、ふと一つの仮説が頭を過ぎり、隣を歩く鯉登少尉を見上げた。
「…鯉登少尉殿が、部屋まで運んでくれたんですよね?」
目を少しだけ見開いてこちらを見つめるその表情が一体どんな感情を元に作られているのか、私には判断できなかった。たっぷり二秒程溜めてから目を逸らした鯉登少尉が小さく口を開く。
「……そうだが」
「…なんか、触ったりしました?」
「なッ…誰が触るか!」
そこに未遂の前科があった事を私が知っているという事を彼は知らない。何はともあれ、やはりあれは夢でしかなかったようだ。鶴見中尉がこの縁談を推し進める限り、そもそも月島さんから私に近付く事はもう無いのかもしれない。頬から手を離し、その手首をちらりと見遣る。あのブレスレットも、もうそこには無い。
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「あ、名前さーん」
風呂桶を持つ手に力が入ったのが分かった。どこかで聞いたことがある声だが、どうにも嫌な予感しかしないので歩みを止めるのをためらった。聞こえなかったふりをしてそのまま部屋に帰ってしまえないだろうか。
「おーい、名前さんってば」
ダメ押しにもう一度声が掛かり、しぶしぶ歩みを止めて後ろを振り返った。
「…宇佐美上等兵殿」
「やだなあ、"宇佐美さん"って呼んで下さいよぉ」
花が綻ぶような笑顔の宇佐美上等兵に対して私は努めてニュートラルな表情を保とうとするが、どうしても視線がその珍妙な両頬の落書きに釘付けになり、あまりの不可解さに思わず眉を寄せてしまった。
「なんですか?変だとでも言いたいんですか?」
明るい調子を保っているにも関わらずどこか刺々しい声音で問い正され、私の背筋に緊張が走った。"上等兵"とやりあってはいけない。急いで笑顔を取り繕い、軽く咳払いをして適切な声のトーンを確かめる。
「ん"ッ…えっと、すごくかわいいと思います、よ?」
「えーやっぱりそう思います?さすが名前さんだなぁ」
はは、と再び明るい口調で笑う宇佐美上等兵は私の隣に歩み寄り、左腕をがしりと掴む。風呂上でしっかり温まったはずの背中に寒気を感じた。
「…あの、なにか?」
「蔵に野良の子犬が迷い込んでるみたいなんですよ。一緒に見に行きませんか?」
宇佐美上等兵が敷地の奥にそびえ立つ二階建ての古い蔵を指差した。はっきり言おう、冗談じゃない。
「いえ、私は部屋に戻らないと…」
「まあまあ、ちょっと見てから戻ればいいじゃないですか。かわいいですよー」
反論するタイミングすら与えられず、掴まれた腕をぐいぐいと引っ張られて半ば引き摺られるように蔵の方向へと歩き始めた。早く乾かすために下ろしたままの髪が肩の辺りにぱらりと散り、不意に宇佐美上等兵がこちらを振り返った。
「なんかいい香りがしますね」
「ああ、これ…外国の石鹸なんです」
縁談の席で、鯉登少尉のお父様が"若か女性がどげんもんが好っかわかりもはんが"のセリフと共に取り出した手土産は、この時代ではなんとも貴重なフランス製の石鹸と香水だった。寄港時以外はお風呂に入れないので、バラの香りが長続きするその石鹸をありがたく使わせて貰っている。
宇佐美上等兵が私の髪に顔を近づけ、クンクン、と匂いを嗅いだ。思わず頭を引っ込めた私を見るその大きな目が薄く細められる。
「…鯉登少尉殿からの贈り物でしょう?」
きっと宇佐美上等兵は、私の肩がぴくりと動いたのを見逃してはいない筈だ。正しくは鯉登少尉のお父様からの贈り物だが、その理由を説明する訳にもいかず、私は黙ったまま視線を交互に動くブーツの先へと移した。
「へぇ、あの噂は本当なんだ…ふーん」
「…なんの噂ですか?」
「さ、あそこですよ」
明らかにはぐらかされたが、正面に鎮座する仰々しい鉄製の引き戸が視界に入り、私は口を噤むしかなかった。既に半分程開かれた戸の隙間から遠目に中を覗うが、外とは明度が違いすぎる室内はまるで真っ暗闇のようで、何も見えなかった。
「お先にどうぞ」
宇佐美上等兵に後ろから肩を押され、一段上がった蔵の入り口に立たされる。戸の隙間から室内に差し込む光が一本の太い筋のように蔵内部の地面に映り込んでいたが、私自身の影がそれを黒く遮った。奥で小さく物音が聞こえる。恐る恐る室内へ一歩足を踏み入れると、ブーツの下で、ザリ、と砂を踏む音が鳴った。
「おい宇佐美、犬なんかどこにもいないぞ」
暗闇の奥から響いたその声の持ち主が月島さんだと認識したその瞬間、私の背後の引き戸が轟音と共に素早く閉じられた後、がたり、と閂が掛かる音がした。思わず振り返り、錆臭いその鉄の戸を叩いたりスライドさせようと試みるが、鈍い打撃音を立てただけでビクともしなかった。
「宇佐美上等兵殿!?何やってるんですかッ!」
「あっれぇ?おかしいな、なんか勝手に」
「いや、閉まりませんから!」
「開かなくなっちゃったんで、宿の人呼んできまーす」
「あ!ちょっと、こら待って!」
「ごゆっくりー」
無情にも軽い足取りで土を踏む軍靴の音が遠ざかっていく。しん、と静まり返った蔵の中で私の脳は混乱の極みにあったが、一つだけはっきり理解した事がある。
「鶴見さん、ですか」
再び月島さんの声が聞こえ、ごそごそと微かな物音に続いて足音がこちらに向かって近付いてくる。
「…月島さん、どうしてここに」
「犬が迷い込んだから探すのを手伝って欲しいと頼まれたんですが…」
「…まあ、嘘ですよね。普通に」
暗闇の中不意に両肩を軽く掴まれ、私の心拍数が急上昇し始める。しかし私の淡い期待の反して、どうやら月島さんは私に戸口の前から退いて欲しかっただけらしく、掴まれた肩は私の体ごとそのまま横にずらすように動かされただけだった。思わず目を瞑った私は馬鹿だろうか。
蔵の高い位置にはごくごく小さな換気用の窓が一つだけ付いており、そこから微弱に漏れる陽の光と、ようやく暗闇に慣れてきた目のおかげで、引き戸を両手で揺らす月島さんの姿がぼんやりと見え始めた。ガタガタと左右に揺らしてみたり、戸板自体を下から持ち上げてレールから外そうとしていたが、なんせ閂が掛かっていてはビクともしない。そして諦めたのか、扉から手を離して三歩程後退りし、私をちらりと横目で見遣った。
「ちょっと失礼しますよ」
月島さんはそう言ってから視線を正面に戻すと、素早く左足で大きく踏み込み、対照的に高く上げられた右足で戸のど真ん中を蹴った。鉄が揺れる重低音と、ブーツの底に打たれた鋲が表面で弾かれるような高音が同時に鳴り響く。蝶野ばりのケンカキックに十点満点のプラカードを掲げたいところだが、重厚な鉄のバリケードにはさすがに歯が立たなかったようだ。
「…だめですね」
掠れたような溜息と共に小さく呟いた月島さんは、蹴りの衝撃でずれた軍帽を被り直した。その仕草がどうにも、その、セクシーで、私は思わず顔を両手で覆ったのだった。