Chapter 6: 網走編
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鯉登少尉が席に着いてから最初に名前のグラスに酌をした時、既にある種の予感がその胸を過ぎっていた―その時点でワインの残量がボトルの半分を切っていたからだ。お手洗いから戻ってきた鯉登少尉は、テーブルに肘を突いて眠りの世界に旅立とうとしている名前を見下ろして溜息を吐いた。
「名前さん、ここで寝るなよ」
「……寝てませんよぉ」
言葉に続けて大あくびの漏れる口を手の平で抑えた名前の片腕には既にハンドバッグが引っ掛かっており、席を立つ準備をして鯉登少尉が戻って来るのを待っていたようだった。
「先に言っておくが、今日は二軒目は無いからな」
「…今日はいいです、別に」
あくびが収まると同時にそう告げた彼女は、気だるい動作で椅子から立ち上がると一人でに出入り口の方へと歩き出した。どこかに連れて行けとまた騒ぎ出すとばかり思っていた鯉登少尉はその背中を拍子抜けしたように数秒見つめていたが、ドアに取り付けられたベルの音が鳴ると共に我に返り、早足で勘定台の側に立つ女給の元へと近付いた。
「勘定を」
「あら、お連れ様がもうお支払いになりましたよ」
にこやかに告げられた事実にその力強い眉が思いっきり顰められた。立て続けに起こったイレギュラーに鯉登少尉は居心地の悪さを感じ、不貞腐れたようにも見える表情のまま足早に店を出ると、軒先で待っていた名前が曖昧な笑みを浮かべて彼の方に振り返った。
「今日は私の奢りです」
あれだけ楽しげにはしゃぎ回っていた旭川の夜に比べて今夜の名前は妙に大人しく静かだった。想像を裏切り続けるその落差が、妙に鯉登少尉の癪に障ったようだった。人通りの減り始めた夜十時前の通りを港方面に向かってゆっくりと歩き出した二人は、テンプレート通りの押し問答を始める。
「いくらだった」
「だから奢りですってば」
「いいから、いくらだった」
中々引こうとしない鯉登少尉をいかにも、面倒くさい、というような表情で見上げた名前だったが、不意に思いついたように再度口を開いた。
「五十円」
税込みでうまい棒四本分の値段―舞踏会の日に鯉登少尉が名前を助けるために払った金額だ。金額の出処とその意図に気付いた鯉登少尉が、決まりの悪そうな表情で名前を見下ろした。
「その節はお世話になりました」
「…金は返ってきたから別にいい」
鯉登少尉が胸ポケットから折り畳まれた薄い紙幣の束を取り出し、一枚抜いて名前に差し出した。
「ねぇ、ほんとにいいですってば」
「女に奢られるのは格好が付かん、受け取ってくれ」
手の平に押し付けるように一円札を握らされた名前は、それをしぶしぶ受け取ってハンドバッグの隙間に差し込んだ。未だ納得がいかない、といった表情のまま宙を見上げ、疲れた声でポツリと呟く。
「…なんで男の人って、格好が付くとか付かないとか、すぐ気にするんですかねぇ」
「そういうものだろ」
「そういうものですかねぇ」
名前がオウム返しにそう答えた後、再びその口から大きなあくびが漏れた。頼りない足取りがフラフラと横にずれそうになり、鯉登少尉が腕を伸ばして名前の肩を掴んだ。自分に向けられた神妙な視線に気付いた名前は、言い訳をするように言葉を漏らす。
「…ワインはだめですね、後になって"くる"から」
「
「…ううん、大丈夫です」
「何でこんな時だけ遠慮するんだ。いいから乗れ」
鯉登少尉が地面にしゃがみ込み、躊躇う名前を肩越しに言い包めた後、その首に彼女の腕がしぶしぶ回された。膝の裏をしっかり腕を通して軽々と立ち上がった鯉登少尉は、正面を向いて歩き出すと同時に背中の名前に話しかける。
「眠いなら寝とけ」
「……寝ません」
「前回は遠慮なく寝てたじゃないか」
帰り道の馬車で無遠慮に眠りこけ、朦朧とした状態で部屋まで運び込まれた旭川での記憶が名前の脳裏に呼び起こされる。頬に触れそうなくらいに近い位置にある鯉登少尉の首筋から顔を背け、名前は人知れず口を尖らせた。
「………だからですよ」
「何だって?聞こえんぞ」
「なんでもないです」
二人の会話が止んでから数分が経った頃、鯉登少尉は背中に乗せた名前の体から徐々に力が抜けてきている事に気が付いた。下がってきた重心を正すため一度軽く跳ぶようにして背負い直すと、その衝撃に驚いて目を開けた名前が反射的に鯉登少尉の首元へしがみついたが、落ちるかもしれないという危惧が勘違いだったという事に気付き、すぐに腕の力を緩めて顔を遠ざけた。お互いの表情はもちろん見えていないが、奇遇にも二人は同じタイミングで目を泳がせるのだった。
「…私が寝ないように、何か話し掛けて下さい」
「…別に寝ていればよかろう」
「いいから、お願いします」
頑なに眠気と戦おうとする名前に根負けし、上方に目を泳がせながら適当な話題を探し始める。その間にも眠気によって名前の頭は船を漕ぐように何度かカクリと垂れ、こめかみから垂れた後れ毛が鯉登少尉の耳をくすぐった。
「あー…そうだ、"からう"がよく分かったな」
「…それくらい、わかりますよ…だって…」
名前は瞳を閉じ、記憶と眠りの世界の狭間で自分の父親の背中を見つめていた。自分が生まれる何年も前から東京に出て来ていた筈なのに、家族の前だけで時たま漏らす熊本弁で"かろうてやろうか"と、その大きな背中をこちらに向けて言うのだった。
「………おとう、さん…が…」
消え入るような声でそう呟いた後、鯉登少尉の側頭部にゆっくりと名前は頭が凭れ掛かけた。すれ違った若い男二人組が、若い陸軍将校が意識の無い若い女を背負って歩いて行く様子を興味深そうにちらりと見遣った。鯉登少尉はその視線を一瞥し、背中の名前に声を掛ける。
「…なあ、名前さん」
耳元で小さく聞こえ始めた寝息が、この奇妙な違和感の正体について追及する機会を失ってしまった事を告げていた。
鶴見中尉の従兄弟にあたる父親を持ち、東京に生まれ、英国での生活を経験し、看護の道を志す才色兼備。なんとも耳触りの良い言葉たち、それが名前の背負う肩書きだった。鯉登少尉の背で眠りこける生身の彼女は、短気で、歯に衣着せぬ物言いをし、口を開けて笑い、よく飲み、よく酔い、飾らず、無防備な寝顔を晒し、頬を染めて他の男の名を呼ぶ。
「あなたは誰なんだ」
返答の無い問い掛けが冷たい海風に紛れて消えて行き、鯉登少尉は目を伏せた。分家とは言え、新潟・鶴見家の人間である名前の父親が、何故九州の方言を理解するにあたって関係があるというのか。言動の端々に散りばめられた違和感の一粒一粒を、旭川のあの夜からずっと拾い集めてきた。今彼女を揺さぶり起こして問い詰めれば、その答えが聞けるのだろうか。あの夜も、その閉じられた瞼を興味本位で覗き込もうとしなければ、寝言に紛れた男の名を無視してその口を塞いでいれば、無駄な憐れみを持たず、"良い友人"などと仮初の救いを与えずに済んだのだろうか。尽きぬ問いを頭の中で繰り返す鯉登少尉は、自分がその答えを本当に知りたいのかすら分からなかった。
食事処と酒場が立ち並ぶ通りの端に差し掛かり、潮の香りが一段と濃くなった。宿がある通りへと曲がった瞬間、すぐ側の建物の軒先に姿勢良く立つ見覚えのある男の姿が視界に入り、鯉登少尉は思わずその足を止めた。
「鯉登少尉殿」
こんな夜更けにも関わらず律儀に軍帽を被り、茶褐色の軍服を首元まで閉じきって敬礼をする男―月島軍曹が鯉登少尉の名前を呼んだ。
「…月島か。どうした」
「帰りが遅いので、様子を見に来ました」
誰の、とは言及しない代わりに、月島軍曹の視線が鯉登少尉の肩に乗っかった動かない頭へと向けられた。
「…あの、大丈夫なんですか」
「酔っ払って寝てるだけだ」
身じろぎ一つせずに背中で寝息を立てる名前の頭を無表情で見つめ続ける月島軍曹の口から、感情の無い声が発される。
「ここは冷えます。早く宿にお連れになっては」
東の方角の低い位置に頼りなさげに浮かぶ半月とは対照的に、立ち並ぶ宿の窓々から煌々と漏れる黄色い灯りが通りを薄明るく照らしていた。どこからともなく、べべん、と三味線の音が響き、続いて男の野太い笑い声が上がった。
くだらない。気に食わない、何もかも。
「月島ァ、名前さんを部屋まで連れて行け」
鯉登少尉はつかつかと月島軍曹の目の前まで歩み寄ると、そう言ってくるりと背中を向けた。白いブラウスを纏った名前の幅の狭い背中のラインが薄明かりに照らされ、月島軍曹は無意識にそこから目を逸らした。
「…私には、できかねます」
「上官命令だ。さっさと受け取れ、重い」
鯉登少尉が軽く前のめりに倒していた上体を直立に戻すと、背負われた名前の体がずり落ちるように後方へ倒れ込む。それを片腕と胸を使って抱き止めるように支えた月島軍曹は、腰を落としもう片方の腕で名前の脚を持ち上げて横抱きにした。
肩越しにその様子を見届けた鯉登少尉は、視線を正面に戻して自分が来た道を引き返すように歩き始める。腕の中の名前を起こさないように体勢を整え終えた月島軍曹が困惑の視線をその背中に向けた。
「ちょっと、どこへ行かれるんですか」
「…たばこを切らした」
背中が曲がり角の向こうに消え、通りにもう一度三味線の音色が響く。月島軍曹の手の平に触れる名前の背中は熱を帯びており、長い間夜風に晒されて冷え切ったその手を指先からじんわりと解していくように熱が移り始めた。