Chapter 6: 網走編
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与えられた宿の部屋で小銃の手入れをしている月島軍曹は、油を差し終えた槓桿を遊底に戻し何度か抜き差しして滑りを確かめた。小気味良い金属音が何度か部屋に響く。
「月島軍曹殿!いらっしゃいますか!」
襖の外から兵士の呼び掛ける声が発され、月島軍曹は部屋の奥で手元の写真を眺める鯉登少尉に視線を遣った。鯉登少尉はその写真から目を離さずに、構わん、と短く告げた。
「入れ」
月島軍曹が返事をすると直ぐに襖が開き、廊下で直立した兵士が敬礼をする。一歩室内に立ち入った所で、更なる上官が在室していることに気付いた兵士は慌てた様子で鯉登少尉に向き直り敬礼の体勢を取ったが、当の鯉登少尉の視線は未だ写真に向け続けられている。
「どうした」
そう声を掛けた月島軍曹の正面に正座をした兵士は、言い辛そうに口を開く。
「それが…名前さんが先程宿から一人で出て行かれまして…」
月島軍曹が部屋の奥に振り返ると、写真からようやく顔を上げた鯉登少尉と目が合った。どうにも歯切れの悪い物言いをする兵士に、鯉登少尉が声を荒げる。
「おい、何故止めなかった」
「申し訳ありませんッ!その…"乙女の都合"とやら、だそうで…あまり深く質問できず」
室内が、しん、と静まり返る。各々"乙女の都合"とやらが何のことなのか考えを巡らせているようだが、男共には何のアイディアも浮かばないようだった。
「月島、"乙女の都合"とは…何だ」
「全く分かりません。風呂じゃないですか」
「いや、それがよそ行きの格好をされていた気がするんですが…」
「鶴見中尉殿と父上の食事に合流しに行った、か?」
「だったら"乙女の都合"なんて言わないでしょう」
再び室内に静寂が訪れる。眉を寄せて考え込む月島軍曹を上目遣いで見つめる兵士は冷や汗をかいているようだ。その時、鯉登少尉が何かを思いついたように座卓を右手で叩いた。
「…あの
「鯉登少尉殿、何か心当たりが?」
「何が"乙女の都合"だ!」
座卓の下に投げてあった軍服のジャケットを慌てて着込んだ鯉登少尉は立ち上がり、月島軍曹に向かってそう言い放った。
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店の窓に貼られたアルファベットの広告に目を奪われた私は、吸い込まれるようにその洋食屋に入った。女の一人客がめずらしいのだろうか、初老の女給は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔で窓際のテーブルへと案内してくれた。席に着き、受け取ったメニューのドリンク欄をすかさず指でなぞりながらチェックする。
「すみません、窓の広告のワインってあります?」
「それなら一応ここに書いてあるんだけど…」
女給さんがメニューの一番下を指し示した。欄外に後から付け足されたように書かれた"赤玉ポートワイン - 60銭"の文字列を見つけ、私は歓喜すると共に落胆した。現代の感覚で言えばレストランで一万超えのボトルワインを頼むようなものである。庶民の味方である筈の元祖スイートワインがこんなにも高級品だったとは考えもしなかった。
「六十銭…あの、グラスでは売ってないんですか?」
「仕入れ始めたばっかりでまだ人気が無くて。瓶でしか売ってないの、ごめんなさいねェ」
必死で自分の懐事情に考えを巡らせ、やはりビールで我慢しておこうかと決断しかけたその時、女給さんが、ちょっと待っててね、と言い残して厨房ののれんの奥に消えていった。数秒後、女給さんが白い調理服を着た男性と共にのれんから顔を出し、私の方をちらちらと見ながら一言二言掛け合った後、笑顔を浮かべながら小走りでこちらに戻って来た。
「主人に確認したら、仕入れ値の四十銭でお売りしてもいいですって」
「そんな、悪いですよ」
「お姉さんが窓際で飲んでくれたらいい広告になるわァ」
「…じゃあ、お言葉に甘えて」
これだけ不運続きの私にもようやく少しのラッキーが訪れたようだ。ビーフシチューも一緒に注文し、親切な女給さんにメニューを手渡した後、窓に映る日没後にも関わらず賑やかな通りに視線を向けた。
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部屋から飛び出して行った鯉登少尉の背中を見送った月島軍曹は、手入れを終えた小銃の壁に立て掛け、畳の上に広げた整備用具や油缶を片付け始めた。その様子を困惑したような曖昧な表情で眺め続ける兵士の視線に気付き、片眉を上げて兵士に問い掛ける。
「なんだ?まだ何かあるのか」
「い、いえっ!月島軍曹殿がお迎えに行かれると思ったのですがっ」
月島軍曹の指に力が入り、掴まれた油缶がベコリと凹んだ。その瞬間を目撃した兵士は弾かれたように背筋を正し、己の発言がどういう訳か月島軍曹の怒りを買ってしまった事に気が付いたようだった。
「…余計な詮索をしろと誰が言った?」
「し、しっ、失礼いたしました!」
転がるように部屋から出ていった兵士が残した微妙な襖の隙間を見遣った月島軍曹は、深い溜息を吐きながら後頭部を乱暴に掻いた。
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精巧なエンボス加工が施された小ぶりのワイングラスが空になり、手酌でボトルから継ぎ足した。その名前の通り、普通の赤ワインよりも朱色びた魅惑的な液体を口に含むと、とびきりの甘さとチープな葡萄の風味が広がった。ワインのうんちくを語る人達には理解されないであろうこの果実酒は、眠れない夜のお供として現代の私の家に常備されていた。
食べ終わったビーフシチューの皿を下げに来た女給さんが、一人寂しくグラスを傾ける私の横顔を眺めながら口を開く。
「ハイカラねェ、お姉さん」
「…ふふ、どうも」
この時代の最新の褒め言葉に笑顔で礼を言うと、ふいに女給さんの視線が窓の方にちらりと動き、驚いたように二・三度瞬きをした。外で何かあったのだろうか、と気になって私も窓へと振り向くと、窓を介して直ぐ側で見知った顔ーできれば今は見たくなかった顔が私を凝視していた。
「げ、鯉登少尉」
私は思わず目を顰めてしまった。呼応するように思いっきり眉を寄せた鯉登少尉が窓から消え、すぐに入り口のドアがベルの音と共に開かれる。私の席に向かってまっすぐ歩いて来た鯉登少尉は正面の椅子を引いて不機嫌そうに腰を下ろし、女給さんにグラスを持って来るよう頼んだ。まさか私のスイートワインを飲む気じゃないだろうな。
「…なんでここが分かったんですか?」
「葡萄酒の広告が目に付いた」
なかなか鋭い男だ。女給さんが持ってきたグラスがテーブルの上に置かれ、鯉登少尉がスイートワインのボトルに手を伸ばした。恐らく探しに来てくれたのだろうから、あまり邪険に扱うのも失礼にあたる。鯉登少尉の手を遮ってボトルを掴み、指で支えられた空のグラスを七分目まで満たした。
「最初から言っていれば連れてきてやったのに」
「…朝は船酔いでヒーヒー言ってたじゃないですか」
憎まれ口もそこそこに、こちらに差し出されたグラスに自分のグラスを軽く当てた。カチン、と上品で高い音が鳴る。スイートワインを口に含んだ鯉登少尉が眉を顰めた。
「なんだこれ、えらく甘いな」
「そういうものなんです」
文句を言う割には続けて何度もグラスを傾けている。なんだかんだで、渋い本物よりも甘い偽物の方が美味しく感じるように人間の体はできているのだ。
「…縁談の話、どうするつもりなんですか?」
テーブルに両肘を突いたまま片手でグラスを支え、窓の外を眺めたまま押し黙っている鯉登少尉に小さく尋ねた。
「私からどうこうするつもりはない」
視線を窓の外に向けたまま鯉登少尉が答えた。やはり鶴見中尉が言った通り、私の貞操問題だけでは縁談を退けるつもりはないようだ。私はグラスの中身を煽り、そっぽを向き続ける鯉登少尉に食い下がる。
「家格で言えばそちらが上でしょ。そっちから断って下さいよ」
「何を言っている、鶴見中尉殿は私の上官だぞ。断れる訳なかろう」
確かに、鯉登少尉が言う事には筋が通っている。見合いや縁談を断る際、なるべく角が立たないよう立場が上の家から断りを入れるのが通念だが、私達の場合ではどちらから断ろうとも角が立ってしまう。なるほど、曽根崎心中を始めとする悲恋話はこういう背景の元成り立っているようだ。私には駆け落ちも心中もする気は無いが、そもそもそうするにはお互いが強く思い合っていなければいけない。月島さんは、すでに匙を投げたのだ。
「…名前さん、諦めろ」
いつの間にか窓の外から私に視線を移していた鯉登少尉が、同情の色を滲ませた声で告げた。空になった私のグラスに再び真紅のスイートワインが注がれる。
「結婚は家同士の話だ。惚れた腫れたの話とは違う」
「じゃあ鯉登少尉殿は私の事をただの他人だと思ってるんですね」
憎まれ口しか叩けなくなってしまった私は、またこうやって鯉登少尉に甘える。それを問い正したところで何に成るというのか。鯉登少尉は小さく溜息を吐き、なんとも無難で陳腐な、しかし私が今一番必要としている答えを選んで口に出した。
「あなたの事は、良い友人だと思っている」
鯉登少尉はわざわざ私に免罪符をくれたも同然だった。近い内に訪れる期限の時まで、私はこれからも月島さんを想い続け、あの背中をなんとか振り向かせようと努力するのだろう。でもその後、もし醜い努力を続けた私が報われなかったとしたら、それでもこの人はこうやって"良い友人"を演じるつもりなのだろうか。
「…鯉登少尉殿に何か得があるんですか、それ」
「鶴見中尉殿の義理の息子になれるのだ、それ以上に喜ばしい事などあるか」
鯉登少尉は胸ポケットからたばこを取り出した。日に焼けた指が新品であろうその包装紙の上部を破き、一本を摘み出して口元に運んだ。私は窓に視線を向けて通りを眺めるふりをしながら、反射して窓に映るその動作を曇った瞳で見つめていた。マッチが煌めき、たばこの先端に火が灯る。
「だから、忘れればいい」
煙と共に吐き出された目的語の無いセリフが何を指しているのか、私にはよく分からなかった。グラスを持ち上げ、直前で止まったあの夜のキスの事も、その時私が呟いた人の名前も、一緒くたにしてスイートワインで喉の奥に流し込んだ。