Chapter 6: 網走編
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きっと天候が悪い訳ではないのだろうが、船独特の地に足が着いていない感覚に目眩を覚え、ブーツを履いた両足は床に下ろしたまま上体をベッドの上に横たわらせた。遠くで低い駆動音が響いている。この環境に慣れるにはしばらく時間がかかりそうだ。
ぐらぐらとゆっくり揺れる感覚に体を任せていると、どんどん瞼が重くなってくる。一度瞼を強く瞑り、限界まで見開く。眠ってはいけない。今すぐにでもデッキに飛び出して鶴見中尉を探しに行きたい気分だったが、生憎それは許されない。彼の意図を問い詰めるにはここで大人しく待つしかなかった。天井からぶら下がる電灯が一定のリズムで左右に揺れている。きっと艦内は火気厳禁なんだろう、電気が通っているなんてめずらしい。電灯が揺れる。電灯が――、
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足に触れられる感覚に驚き、目をこじ開けて上体を起こした。私の足元で片膝を突いた鶴見中尉が、ちょうど私の右足からブーツを抜き去ったところだった。
「お、おじさま、いつの間に」
「靴ぐらいちゃんと脱いでから寝なさい」
鶴見中尉は手に持ったブーツを床に置き、今度は左足の編み上げ紐を解き始める。努力も虚しく私は眠ってしまっていたようだ。しゅるしゅる、と心地良い摩擦音を立てながら紐が緩められ、足に開放感が広がった。再び襲い来る眠気と戦いながら、あれ、どうして眠ってはいけなかったんだっけ、とぼんやり考える。
すべて、思い出した。
「…全部仕組んでいたんですね」
「何のことだ」
鋭い視線を向ける私には目もくれず、鶴見中尉は左足から抜き去ったブーツをもう片方と揃えて床に下ろした。その顔には笑みさえ浮かんでおり、私の話を真剣に聞いていないことは一目瞭然だった。
「鯉登少尉の弱みに付け込んで、私との婚約を強要したことです」
鶴見中尉は、床に下ろされていた私の両足を掴んでベッドの上まで持ち上げた後、その空いたスペースに浅く腰掛けて私の方へ振り返る。
「弱み?強要?身に覚えが無いな」
「でももう鯉登少尉には話しましたから。そもそも取る責任なんて存在しないと」
あくまでしらを切ろうとする鶴見中尉本人の口から意図を聞き出すのは不可能に近い。なんせ相手は情報将校、頭脳と話術で勝てる筈がない。あえて質問はせず、言いたい事を言って相手の反応を見るしか術は無さそうだ。
「これで縁談の話は無くなったも同然です」
斜に構えて私の話を聞いていた鶴見中尉が気だるそうに溜息を吐いた。その冷たい瞳で私を真っ直ぐ見つめながら、こちらに顔を近付けてくる。
「鯉登少尉が、その程度の事で縁談を無下にすると本当に思っているのか」
そう言葉が発された瞬間、私は肩を押されてベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。抵抗しようと上げた両手は鶴見中尉の右手だけで頭の上に縫い付けられ、腹の上に乗りかかられる。完全にマウントを取られ、ベッドが甲高い音を立てて軋んだ。
「…離してっ、下さい」
「好意を向けられている事に気付いてないとは言わせんぞ」
縫い止める鶴見中尉の手を引き剥がそうと抵抗を続けていた両腕から力が抜けた。図星、だった。一体どこまでこの男は知っているのか。
「その事を知りながら何故明確に拒絶しない?月島に振られたからか?」
早くなる鼓動に胸が痛みだした。違う、そんなずるい事がしたい訳ではない。真っ直ぐに私を見下ろす鶴見中尉を睨みつける目が次第に熱くなり、視界がどんどん滲んでいく。まるで度数の合っていない眼鏡越しに見る視界の中で、鶴見中尉の顔が私の耳元に近付いてくる。
「弱みに付け込んでいるのはどっちだ」
辛辣な囁きに思わず目を瞑った。瞼の中に辛うじて留まっていた涙がこめかみの方へこぼれ落ち、紛うこと無き事実に鼻の奥がツンと痛んだ。あの夜、茫然自失の私が縁談の対話の席に着く決心をしたのは、もうどうにでもなれとすべてを諦めてしまったからだけではない。ずぶ濡れの私の肩に掛けられたジャケットの温度と重みに救いを求めてしまったのだ。
悲しみに暮れ、自分の運命を呪うだけでは何も始まらない。繰り返し頭の中で唱えるその言葉とは裏腹に、私の口から漏れるのは嗚咽と恨み節だった。
「…月島さんを遠ざけたのは、あなたのくせに…!」
「お前に幸せになって欲しいだけだよ、名前」
鶴見中尉はこぼれ落ちる涙が作った筋の上に優しく口付けた。囁かれた救いの言葉は、今の私には消化不良を起こしそうな程に甘すぎた。その胸焼けを鎮めようと嗚咽混じりに息を吐きながら、ほとんど思いつきで頭に浮かんだ言葉を口に出す。
「…鯉登少尉に、私の正体を、明かします」
鶴見中尉が私の耳元から顔を上げ、その黒い瞳で私を真っ直ぐ見下ろした。
「それで、どうする?」
「私が鶴見の人間でないと、分かれば…きっと向こうから離れて、行きます」
私の両腕を縫い付ける手とは逆の手が、私の首を真上から押さえる様に添えられた。そこまで強く握られている訳ではないのに上手く息が吸えず、喉の奥で引き攣るような音が鳴った。鶴見中尉は無表情のまま一度瞬きをし、口を開いた。
「それはいかんなァ」
どれくらいの間そうされていたかは分からないが、必死に視線だけで迎え撃っていた私の目が翳り始める頃、首に当てられた手がするりと下に向かって撫でるように移動し左胸の上で止まった。酸素を求めて必死に上下する胸板と、狂ったように全身に血を循環させている心臓の動きを確認している様だった。しばらくその感触を楽しんだ後、鶴見中尉の手は更に横―左脇辺りへと移動する。肋骨の上部をくすぐるように撫でられ、思わず体を捩った。
「…やめ、て、くすぐったい、です」
私がそう訴えると、鶴見中尉は無表情から一転、人の悪い笑みを浮かべたのだった。爪を立てた状態の指が素早くばらばらに動く様な、先程よりも明確にくすぐる手付きに変わり、私は一瞬で理性を失い本能のまま声を荒げた。
「ちょっ、待っ…や―――――――ッ!!」
その責め苦に十秒程耐えた私の髪は枕の上で乱れ、顔は涙と涎で濡れていた。鶴見中尉は私の両手を押さえつけたまま愉快そうに肩を揺らして笑った。一刻も早くこの手を振りほどき、その白い額当てに一発食らわせなければ気が済まない。絶対にやってやる。
抵抗を再開しようと腕に力を入れた瞬間、ゴンゴン、と低いノックの音が部屋に響いた。二人共ピタリと静止し、同じタイミングでドアに視線を遣った。
「鶴見中尉殿、先程の声は一体…?」
まずい、月島さんの声だ。私の叫び声を聞いてわざわざ確認しに来てくれたのだろうが、今の状態を見られては非常にまずい。髪はぐちゃぐちゃな上に顔はべとべと、腹の上に乗った鶴見中尉が邪魔してよく見えないが、先程暴れたせいで恐らくスカートも盛大に捲れている。
視線をドアから鶴見中尉に戻し、必死に無言で首を左右に振った。だめだだめだ、お願いだから月島さんを入れないで。鶴見中尉は無言で何度か頷き、私の目を見ながら声を張り上げた。
「入れ!」
無情にもゆっくりと開かれたドアから月島さんが姿を現した。ベッドの上で揉みくちゃにされた私とその上でマウントを取る鶴見中尉を視界に収めた月島さんは、目を見開いてこちらに駆け寄ろうとしたが、数歩進んだ所で何かに引き止められたかの様に立ち止まった。
「うるさくして悪かったな、月島」
「…あの、一体何を」
「名前がわがままを言って聞かんのだ」
ぞっとするような笑みを浮かべた鶴見中尉が再び私を見下ろした。整いつつあった息が無意識に荒くなり、必死で掴まれた両手を解こうと腕を揺するが、悲しきかな鶴見中尉の手は再び私の左脇腹へと沿えられた。
「―ッ、やだっ、やだやだやだやめっ、ふふっ、ひゃははははは!!」
がっしりと固定された上半身に動かせる部分は一切無い。その強烈なくすぐったさから逃れるために、大声を上げる事と、足元に畳まれた掛け布団を乱暴に蹴るくらいしかできる事は無かった。
一頻り私をいじめ倒して満足したであろう鶴見中尉は、私の両手を開放してベッドから立ち上がった。私はうつ伏せに体勢を変えてうずくまり、枕で乱暴に顔を拭ってから月島さんをひっそりと見上げた。眉間を指で押さえたまま立ち尽くしているその人を近くで見つめるのは、あの日以来だった。
「あと三十分程で函館に到着します」
「分かった。甲板に戻るぞ、月島」
「はい」
事務的なやり取りをする二人の会話をぼんやり聞きながら月島さんの顔を目で追う。こうも分かりやすく私を見ないのは、やはり避けているからに違いなかった。鶴見中尉がジャケットの裾を正しながらこちらに振り返る。
「後で鯉登少尉に迎えに来させる。準備しておけ」
鶴見中尉からの視線に瞬きだけで返事をし、こちらに背を向けてしまった恋しい背中に向けて念を送る。そういうのは、今までずっとあなたの役割の筈だったでしょう、月島さん。