Chapter 6: 網走編
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「シヅは寂しゅうございます。ようやく旭川から帰ってきたと思ったら、またどこかに行かれるなんて」
もうしばらく使うことはないだろうと高を括って押入れ奥深くにしまっていたスーツケースを再び引っ張り出し、白衣と医学書、そして少しの身だしなみ用品を詰め込んでいく。冬用の長着を桐箪笥から丁寧に取り出すシヅさんは、少し拗ねたような表情でそう言った。
「今回はおじさまも一緒ですから。シヅさん、しばらくゆっくり休んで下さいね」
「ありがとうございます。でもお世話をする方がいないと、どうしても毎日張り合いが無くて…」
シヅさんから手渡された長着をスーツケースの一番上に乗せ、膝立ちになって蓋を下ろす。留め金を下ろそうと指を掛けたが、よく見ると蓋が完全に閉まりきっておらず、ベースと蓋の間には微妙に隙間が空いている。どうやら詰め込みすぎたようだ。
「シヅさん、やっぱり和服はいいです」
「そんな!女たるもの、旅の際でも綺麗な服は必要ですよ」
「…もう、いいんです」
蓋を開け、きれいに畳まれた長着を崩さないように取り出す。私の正面で腰を折ったシヅさんがそれを受け取りながら、私の表情を見て悲しそうな顔をした。
「…名前さん、また瞼が腫れてますね」
私は無言のままスーツケースの蓋をもう一度閉じ、パチリと二つの留め金を下ろした。荷物置き場として広げられた風呂敷の上に長着を置いたシヅさんは、私の隣に移動してゆっくりと畳に膝を突いた。
「諦めたくないのなら、諦めなくてもよいのです」
優しい手が背中を撫でた。まるで事情を知っているかの様な口ぶりに驚いてシヅさんを見ると、伏せた目を何度か瞬かせながら口を開いた。
「今朝鶴見様が、婚約の儀で名前さんがお召しになる打ち掛けを、留守の間に仕立てておいて欲しいとお頼みになったんです」
膝の上で紺色のスカートの生地を握り締める。
「お相手がどなたなのかは尋ねませんでしたが…そのご様子を見るに、月島様ではないのでしょう?」
背中を撫でる手がピタリと止まったかと思うと、その手は私の膝に向かって伸び、そこで握りしめられた私の拳の上に重ねられた。
「厳しい事を言いますが、"家の格"というものはやはりありますから」
シヅさんの言う事はもっともだった。私の本来の素性はどうであれ、今は戸籍上鶴見家の人間―鶴見中尉の養女である身。一兵卒から叩き上げで這い上がる下士官といわばエリートコースである将校、その間には埋められない溝があった。
「でもね、名前さんは美しくて、賢い、新しい時代の女性です」
シヅさんは重ねた手を、優しいながらも力強く握った。
「家に入って、子供を育てて、それだけで本当に幸せになれますか」
誰もが幼い頃に聞かされた、いつか王子様が迎えに来るというシンデレラ・ストーリーのその後の展開を知る者はいない。"女の幸せ"が完全なる夢物語だとは言わないが、それは本当にハッピーエンドだろうか。
「その制服で立派にお勤めして、自分の力で自分の幸せを掴み取りなさい」
シヅさんはそう言って私の肩を引き寄せ、その温かい胸に私の頭を導いた。めくるめく変化の時代の舞台裏で静かに
シヅさんの背中に腕を伸ばし、すがるように抱きしめた。自分自身が戦わずして欲しいものが得られる訳なんかないのだ。与えられる事に慣れてしまっていた私も、この濃紺の制服にかけて今は成すべきこと成さねば。
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夕暮れの小樽港に浮かぶ一隻の船を背景にして二つの影が見える。逆光に照らされたその影の内、背の高い方がこちらに振り向く。小走りで向かって来るその人物が数メートルの距離まで近付いた頃、ようやくその影の持ち主の顔を認識することができた。
「鯉登少尉殿」
「…名前さん、本当に来たのか」
私が無言でスーツケースのハンドルを握る手を前に出すと、鯉登少尉はむっとした表情でスーツケースを奪い取って小言を続ける。
「鶴見中尉殿も今回ばかりは強制しないと言っていただろう。どうして家で大人しく待っていられない?」
「私は看護婦ですから」
「…月島のため、なのか」
「私自身のため、です」
もう一つの影がゆっくりとこちらに近付いてくる。深く被られた見慣れないデザインの白い軍帽の下から力強い瞳が私を捉えた。鯉登閣下、と声を掛けてから一礼すると、貯えられた白い髭の下に隠れた口が動いた。
「オイはあん時、女子を船ん乗せったぁ反対じゃち言いもしたが」
正面に立っていた鯉登少尉が私の隣に移動し、お父様である鯉登閣下が目の前に立った。あの日は話すどころかほとんど目を合わせることすらなかったが、今の私は真っ直ぐその目を見つめることができるくらいには落ち着いていた。
「名前さん。今日は良か面構えをしちょる」
髭に覆われた口元の表情は分からないが、目は穏やかに細められ目尻に皺が寄った。
「西南戦争ん時、
鯉登閣下はそう言い終えるとこちらに背を向けて海の方へ視線を遣った。数羽のかもめが頭上を通過し、南の方へ飛び去って行く。私をそれを目で追いながら、これから待ち受ける長い船旅の後に自分が"着陸"する場所について考えた。
「音之進には、そげん強か
「鯉登閣下、どうか今はただの
鯉登少尉との縁談はまだ身内だけの非公式扱いになっている。今回の網走遠征に滞りなく決着が着いた後、年始辺りに正式な婚約の席を設ける予定らしい。それまでに私は自分自身の力でなんとか状況を変えてみせる。小樽で悲しみに暮れ、運命を呪っているだけでは何も始まらない。
「音之進、名前さんば中い案内しっあぐやんせ」
「…はい」
未だに納得のいかない表情を浮かべている鯉登少尉は短く返事をすると、私をちらりと見下ろした後、停泊する船に向かって歩き出した。
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「駆逐艦に女を乗せるなんぞ特例中の特例だからな」
「もう分かりましたってば!部屋で大人しくしてればいいんでしょ」
「寄港時以外出れると思うなよ」
「…えっ」
重ね重ね繰り返される鯉登少尉の小言を聞きながら、居住区内の暗く狭い廊下を奥に進んでいく。昔ながらの迷信については知っていたが、どうやら本当に私は軟禁状態となるらしい。ビタミンD欠乏症になったらどうしようか。
「この部屋だ」
鯉登少尉が白い鉄製のドアの前で立ち止まってノックをするとゴンゴン、と重い音が響いた。ドアフレームの上に掲げられた表札には"第一士官寝室"と書かれている。中から何の返答も無い事を確認すると、鯉登少尉がドアハンドルを引いた。
部屋の中にはテーブルと二脚の椅子、奥には木製の二段ベッドが壁に作り付けられている。広くはない空間だが、きっと他の兵士達は船員と同じ大部屋に詰め込まれているのだろう。テーブルと椅子が用意されているだけありがたい。
鯉登少尉が部屋の隅にあるクローゼットを開き、下の方に私のスーツケースを収めた。そのクローゼットの中に、黒い軍服のジャケットと見慣れない旅行かばんが入っているのがちらりと見えた。
「…ちょっと待って、私、誰と同室なんですか?」
「鶴見中尉殿だ。親族だから別に問題ないだろう」
あの日以来まともに顔も合わせていないその渦中の人物の名前に、私の肩がぴくりと反応した。正直に言うと、多少私から避けている部分もある。いざ話すとなった時に自分が冷静でいられるか分からないからだ。無表情で押し黙る私の顔を見て、鯉登少尉が溜息を吐いた。
「…あれから、何も話していないのか」
「……だって、全部勝手に決めたんですよ、あの人」
私はそう言い、二段ベッドの下の段に乱暴に腰を下ろした。スプリングの無いマットレスに打ち付けたお尻が痛む。クローゼットの扉を閉めて閂を差した鯉登少尉が私の正面まで移動し、腕を組んでこちらを見下ろした。
「何だその言い草は。鶴見中尉殿はあなたの為を思って、」
「鯉登少尉殿と結婚させる事がどう私の為になるって言うんですか!」
鯉登少尉に向かって声を荒げても何の解決にならない事くらい、私にも分かっている。下手すればこの人だって被害者だ。あそこまで敬愛する上官から縁談の話を持ち掛けられれば、断れる筈がない。
やはり怒鳴ってしまった事くらいは謝罪しておくべきだろう。なぜだかいつも私は、彼に甘えてしまう節があった。先程から無言で眉間に皺を寄せ、目を瞑っている鯉登少尉はやはり怒っているのだろうか。この時代だ、ビンタくらいされても文句は言えないかもしれない。
「…鯉登少尉殿、その、」
「私がッ!悪いの、だ…」
私の言葉を遮るように発された大声に驚き、思わず目を見開いたが、そのまま鯉登少尉は尻すぼみに声を弱めていった。
「私が舞踏会で、名前さんを見失わなければ…ッ」
「それとこれと何の関係が…?」
「
キズ、モノ?私が目覚めた直後、鶴見中尉は間違いなく私は"無事"だったと言った。何らかの意図で嘘を吐かれた可能性も無くは無いが、私自身体に何の変調も感じなかったし、生理だってきちんと来た。そもそも、下世話だが…処女でもない。
「鯉登少尉殿、私、犯されてませんよ」
「……はぁ?」
「疵物ってどういう事ですか」
「…その、鶴見中尉殿が…責任を取れ、と」
背筋を知らない感覚が駆け上る。マットレスに突いた手が震え、手の平に汗が滲むのが分かった。私も鯉登少尉も、見事に鶴見中尉の手の上で踊らされていたようだ。
「…あのデコ助野郎…!」
今回はあの形の良い後頭部を狙うだけでは気が済まない。あの白い被り物を正面から引っ叩いてやる、絶対に。