Chapter 5: 夏・小樽編
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月島さんは赤ん坊を収めた籠をそっとアイヌの民家の前に置き、懐から何枚かの紙幣を抜き取ると、布地と籠の隙間に差し込んだ。馬上からその後ろ姿を無言で見下ろす私は、どこか夢うつつのまま掛ける言葉を探していた。
無言のまま鐙に足を掛け、再び私の背後に腰を下ろした月島さんの体温を背中で感じる。日はすでに登り始め、もう十五分もすれば集落の人々は活動を始めるだろう。月島さんが足で馬の横腹を蹴り、足音が響かないぎりぎりの速度で集落を後にした。
木々が生い茂る道には、鳥と虫の鳴き声、そして土を蹴る馬の足音だけが響いている。本州とは違う涼しく短い夏は、最盛期の終わりに差し掛かっていた。
トンネルのように両側面を覆っていた木々が突然途切れ、開けた小高い丘の頂上に出てた。眼下に広がる町並みと、さらに奥で朝もやに煙る小樽港に目を奪われる。
「…月島さん、止まって!」
背後から伸びるジャケットの袖を何度か引っ張りながら告げると、その腕が手綱を引き、馬に停止を合図する。馬は速度を落としながら数歩進んで完全停止し、機嫌を損ねたように大きく鼻息を吐いてから顔を左右に振った。
「どうしたんですか、急に」
「ちょっとだけ、下りたいんです」
怪訝な声色で問いかけた背後の月島さんに肩越しで振り返り、少し急かすように答えた。月島さんは特に何も言わないまま先にするりと下馬し、後ろ向きに下りる私の腰をいつもの様に支えてくれた。
広がるパノラマにもう一度目を向ける。両手の親指と人差し指で四角いフレームを作り、夏の初めに思い浮かべた国内旅行雑誌に見開きで写るあの夜景と、今枠内にクロップされた美しい眺望を比べる。
「…ここだ!」
あの写真は間違いなくこの場所から撮影されたものだ。突然の旭川出張から始まり、人生で起こる前途多難を凝縮したような今年・明治四十年の夏。八月下旬を目前にして、ようやく"この夏やりたいことリスト"の堂々たる一行目にチェックをつけることができた。隣に立つ月島さんに向き直り、口を開く。
「ここに来たかったんです。月島さんと、一緒に」
月島さんは港の方角を望んだまま何も答えない。数日前から続く奇妙な胸騒ぎを抑え込む様に、私はそのまま話し続ける。
「ここから撮られた夜景の写真を見たことがあるんです。すっごくきれいなんですよ、港の海岸線沿いに電灯の明かりがきらきら光ってて…あ、でも今はまだ無いですから、明るい時間に来れて良かったかも」
私がこうやって話し続けていれば、そのままずっと隣に居てくれるだろうか。確かに近付いた筈の距離が離れていくように感じるのを止められず、意味の無い言葉を紡ぎ続けて時間を稼ごうと躍起になっていた。
「…どうして、何も言ってくれないんですか?」
相変わらず私を見ようとしない月島さんが視線を遠方に向けたまま小さく口を開こうとするが、一瞬ためらって、そのまま言葉を飲み込んだ。私はその眉間に深く刻まれた皺に指先を伸ばし、解す様にぐりぐりと皮膚を撫でる。
「また私の知らないところで、何かあったんですか」
軍帽のつばが目元に影を落としている。その影の中で月島さんは視線を足元に落とし、溜息を吐いた。月島さんの両手が私の腰に伸びたかと思うと、ゆっくりとした動きで体を引き寄せられる。蝉の音が響く中、首元の"27"を間近に見つめる。
「あなたが幸せになるには、こうするしかないんです」
月島さんは私の髪に鼻をうずめながら、諦めの色が滲むくぐもった声で小さく呟いた。
「月島さん、何言ってるんですか」
「家庭を持って、子を産んで、静かに暮せばいい」
「そんなの、私、」
「眼の前で不幸になるあなたを見るくらいなら」
「月島さん、聞いて」
「俺の知らない所で幸せになってくれ」
公転する銀河系と傾いた地球の自転軸が引き起こす四季の巡り。そのループから抜け出せない私は、背中に感じる太陽の熱よりもっと熱い涙が頬にこぼれ落ちるのを感じた。すがるように両腕を月島さんの首の裏に回し、その熱が冷めない様に体をくっつける。
「どこにも行かないで、月島さん」
「"行く"のはあなたの方だ」
私はどこにも行きたくない。ここにいたい。あなたと共に生きていたい。首に絡む私の腕を取った月島さんは、もう片方の手で胸ポケットからあのブレスレットを摘み出した。
「…それ、月島さんが持ってたんですね」
「あなたが寝ている間に勝手に取った」
元結の紐は取り去られ、隙間が空いていた筈の留め具近くのリングが、少しいびつな形で閉じられていた。月島さんは私の左手首にブレスレットを巻きつけ、短く切りそろえられた親指の爪で留め具を開いて鎖に噛ませた。
「もう直してあげれませんからね」
「…いやです、また壊すから、また直してください」
「困らせないで下さい」
月島さんが眉を下げ、困ったように小さく微笑んだ。ブレスレットから手が離れ、その冷たい手の平で熱を帯びた私の頬を包み込んだ。硬い親指の先が私の濡れた下瞼を拭う。移り変わる季節を止める術を持たない私は、この去りゆく夏を諦めきれずにいた。
月島さんの顔が近付き、私は目を閉じながら唇をほんの少しだけ開いた。熱い下唇を挟み込む様に受け入れて、少し伸びた顎ひげを指先で弄びながら、困らせているのはあなたの方です、と心の中で呟いた。去るつもりなら、ブレスレットをわざわざ直してまで返さなくてもいいし、こんな優しいキスなんか最後にしなければいいのに。
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雨脚は強くなる一方だったが、開け放たれた縁側から動く気は起きなかった。水分を含んだ襦袢が投げ出した足にまとわりつき、徐々に体温を奪っていく。ムッとするような雨と草の匂いが、とうに日の暮れた庭に充満していた。
背後の居間の障子が開く音がしたが、振り向いて確認することすら今はわずらわしい。どうせこの時間に家に帰ってくるのは鶴見中尉しかいない。このみすぼらしく濡れた襦袢姿を見られようが、彼であれば別に気にする必要は無い筈だった。しかし、予想していなかった人物の声が背後から投げ掛けられ、思考の底を泳いでいた私の意識は、一瞬にして水面に連れ戻された。
「…そんな所で何をしている?」
気だるげに首だけで振り返ると、こちらへ近付いてくる鯉登少尉の姿が自分の肩越しに見えた。こんな時間にめずらしい。
「こんばんは、鯉登少尉殿」
「おい、ずぶ濡れじゃないか!どうしたんだ」
フイ、と鯉登少尉から視線を外し、床の木目を見つめる。鯉登少尉は白い軍服のジャケットを素早く脱ぐと、背後にしゃがみこんで私の肩にそれを羽織らせた。
「風邪を引いても知らんぞ」
「…ほっといて下さい」
「おい、いい加減にしろ」
後ろから腕を掴まれ、無理やり鯉登少尉の方を向かされた。顰められた目が私の濡れた頬を認識するや否や、大きく見開かれた。
「…名前さん、泣いてるのか?」
「…雨ですよ」
腫れた瞼をシャツの袖でごしごしと拭われ、思わず私は目を閉じて顔を逸らした。そのシャツも肩に掛かったジャケットも、あの人とは違う匂いだった。
「とりあえず中に入って、早く着替えた方がいい」
「…着替えたら、お酒飲みに連れてってくれます?」
「冗談もほどほどにしろ」
立ち上がった鯉登少尉に腕を引っ張り上げられ、私は片手と膝を床に突きながら、まるで酔っ払った飲んだくれの様に立ち上がった。当たり前だが、縁側の床はびしょ濡れだ。鯉登少尉は片足を上げて濡れた靴下の裏を確認し、不愉快そうな表情を浮かべた後、私に視線を戻してはきはきと告げる。
「鶴見中尉殿が部屋でお待ちだ」
「…そうですか。着替えてここを片付けてから行くと伝えて下さい」
「おい、私の父上も来ているんだぞ」
鯉登少尉の、お父様?なぜうちに呼んだかは私がとやかく言う問題ではないが、なぜ私が同席するのだろうか。話が噛み合わないまま無言で鯉登少尉と見つめ合う。
「…まさか、鶴見中尉殿から何も聞いていないのか?」
鶴見中尉の名前が出た瞬間、あの胸騒ぎが再び心臓の真横で首をもたげた。まるで鉛筆ででたらめな線を書き殴る様に思考が端から黒く塗りつぶされていく感覚を覚え、息が乱れ始めた。二・三度しゃくり上げる頃には、理性という堤防を失った感情が、目から涙として、口からは言葉として流れ出始める。
「…どうして、みんな、何も教えてくれないんですか」
「名前さん、落ち着け、」
「月島さんも、おじさまもっ!私が…どんな思いで…ッ」
「名前さん!」
鯉登少尉が私の両肩を強く掴んだ。その僅かな痛みが、暴走する私の感情の手綱を引き締めた。口から漏れる荒い息を整えながら、左手を胸の前で握りしめ、その手首に巻かれたブレスレットを無意識に右手で触った。
「…おじさまは、なんて言ったんですか」
「…私の口から、伝えてもいい事なのか分からん」
「鯉登少尉殿、言って下さい」
曖昧に逸らされた鯉登少尉の目を見据え、はっきりと告げた。長いまつげに縁取られた瞳が私に向けられ、一度長い瞬きをした後、再度私を捉えた。
「私と父上は、あなたとの縁談について話すために来た」
『お前の幸せを心から願っているよ』
『俺の知らない所で幸せになってくれ』
あなた達は嘘つきだ。私が、月島さんなしで幸せになれる筈なんかないって、知っているくせに。