Chapter 5: 夏・小樽編
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部屋の中央にポツリと置かれた一脚の椅子に鯉登少尉が腰掛けている。その表情は正に蒼白、冷や汗が滝のように流れ、膝の上で作った拳にぽたりと落ちた。
鶴見中尉は腰で手を組み、うつむく鯉登少尉の周囲をゆっくり歩いて回る。時折鯉登少尉を見下ろすその冷たい視線は、完全に悪役の目だ。
そしてこの奇妙な光景を壁際から傍観する人物―月島軍曹は、かれこれ二分は続けられているよく分からない我慢比べに何故自分が呼ばれたのかをひたすら考え続けていた。
音を上げたのは勿論、鯉登少尉だ。
「…ほっ、ほんのこてすんもはんじゃした!」
「分からん。分からんぞォ、鯉登少尉」
鶴見中尉は歩みを止めず、静かながらも責めるような口調で鯉登少尉に告げた。
「貴様が名前から目を離さなければ、ああはならんかった筈だ」
汗で前髪が張り付く額を袖口で拭った鯉登少尉は、緊張からかついには肩で息をし始めた。繰り広げられる寸劇を他人事の様にただ鑑賞していた月島軍曹も、さすがにそんな姿に同情したのか、おずおずと助け舟を出す。
「鶴見中尉殿、名前さんは廊下を経由せず化粧室内から直接地下に誘拐されたようですが」
「お前には聞いとらんぞ、月島」
「…失礼しました」
月島軍曹は、この茶番が一体どこまで本気なのか計りかねていた。鶴見中尉は鯉登少尉の正面で遂に立ち止まり、腰を折って鯉登少尉の顔を至近距離で覗き込んだ。
「どう責任を取るつもりだ」
鯉登少尉が目を見開き、ゴクリ、とゆっくり唾を飲み込んだ後、一度深呼吸をし、弱々しい声で月島軍曹の名を呼ぶ。
「…月島ぁ」
「はい、なんですか」
「私の軍刀…あと、最期に紙とペンをくれッ…」
どうやらこの男、腹でも切るつもりらしい。まさか本当にそんな責任の取らせ方をさせるつもりなのか、と鶴見中尉を見遣った月島軍曹は、射抜く様に自分を見る表情の無い視線に寒気を感じた。鶴見中尉はすぐに表情を作り直し、あの英雄の様な笑みを浮かべて鯉登少尉に視線を移す。
「男の責任の取り方があるだろう?鯉登少尉」
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「あの、名前ですけど!両手が塞がってるので、どなたか開けて下さいませんか?」
鉄瓶と湯呑が乗った重い盆を両手で持っているためノックができず、代わりにドアの前で室内に声を掛けた。こちらに近付いてくる足音が聞こえ、ドアが内側に開かれる。
「あ、月島さん」
ドアを開けてくれたのは月島さんで、私は無意識に笑みを浮かべながら彼の名前を呼んだ。ここはもうあの時の兵舎ではないが、私がこの時代に降り立ったあの日の光景が脳裏に蘇る。あの日もこうやって、月島さんがドアを開けたんだっけ。そして私はその姿をひと目見て、恋に落ちたのだった。
「…あの、月島さん?」
そう声を掛けるも、月島さんは私を無表情で見つめたまま動かない。様子がおかしい。私がまた何か言おうとして口を開く直前、月島さんは私の肩を軽く押し、何も言わずに横をすり抜けて部屋から出て行ってしまった。本当に、どうしたんだろう。廊下の奥へと遠ざかっていく背中を見つめていた目を室内に向ける。そこには、こちらに背を向けて部屋の中央に置かれた椅子に座る鯉登少尉の背中と、窓際で外を眺める鶴見中尉の姿があった。
「…あの、お茶をお持ちしたんですが」
「おお、すまんな名前。そこに置いておいてくれ」
鶴見中尉は顎で壁際の机を示した。机に近付いて盆を乗せ、湯呑を三つと鉄瓶を机の上に下ろした。月島さんも飲むかと思って三つ持ってきたのだが―まあ、またすぐ戻ってくるかもしれないので、そのまま置いておこう。
くるりと振り返り、先程から一言も発さず椅子の上でうつむく鯉登少尉に近付いた。この人もどうやら様子がおかしい。というか、椅子の配置もおかしい。これでは映画の尋問のワンシーンの様だ。
「…あの、鯉登少尉殿?どうしました?」
私がそう声を掛けると、鯉登少尉は弾かれたように顔を上げ、苦悶の表情を浮かべながら私の両肩をいきなり掴んだかと思えば、大声を出した。
「名前さんッ…私が!私が責任を持って、」
「鯉登少尉!その話はまた今度だ」
そうやって続きを遮った鶴見中尉は、私に歩み寄って肩に手を置いた。
「今日はそろそろ帰るといい。今晩も遅くなるから、戸締まりをして先に休むといい」
「…分かりました」
僅かに微笑む鶴見中尉と、未だにやつれた表情で私を見る鯉登少尉とを見比べて、頷きながらお盆を胸に抱いた。鶴見中尉は私の肩に手を乗せ、数日前と同じ様に頬に口付けた。妙な胸騒ぎがした。
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誰かに呼び戻される様に、眠りの底から意識がゆっくりと浮上する。声が聞こえる。聞き慣れないのに、本能に訴えかけるような、この声は―、赤ん坊?
驚いて目を開けると、見慣れた自室の天井が映った。一日に数分間だけ訪れる、日が昇る直前のほの明るく、薄青い時間。そしてやはり、聞こえるこの声は赤ん坊の泣き声だ。
「…なにごと…?」
長襦袢の上に長着を羽織って廊下に出ると、その声は鶴見中尉の自室から聞こえてくる様だった。部屋の前で膝を突き、僅かに障子をスライドさせて中を覗き込む。月島さん、鯉登少尉、そして二階堂一等卒がこちらに背を向けて座っている。鶴見中尉は胸元に泣き声を上げる赤ん坊を抱え、あやすように優しく腕を上下させていた。障子の隙間から覗き見する私に気付いた鶴見中尉が、顔を上げて口を開く。
「すまんな名前、起こしたか」
「…赤ん坊の泣き声が聞こえたもので」
室内に足を踏み入れ、鶴見中尉の横に腰を下ろす。目尻にうっすら涙を滲ませた、まだ首が据わらない程低い月齢の乳児の顔をじっくり見つめる。
「…誰のお子さんですか?」
何の意図も無く投げかけた純粋な疑問に、誰も何も答えなかった。その握りしめられた小さな手に触れながら、私は軽々と質問した事を後悔した。きっとこの子は、一人ぼっちになってしまったのだろう。
「抱っこ、代わってもいいですか?」
そう言って私が両手を差し出すと、鶴見中尉は自分の二の腕で赤ん坊の首を支えたままこちらに差し出した。子供のいない男の人にしては、手慣れた子供の抱き方だな、と思った。左手を鶴見中尉の腕の下にまわし、赤ん坊の体を下から支える様にして受け取る。
ふにゃふにゃで温かい小さな生命体―赤ん坊というものは、本当に不思議だ。まあ来たるべき時が来たら、なんて普段は抽象的に考えているだけだが、こうやって実際にその存在を間近に感じてみると、やはり我が子を抱く喜びを感じてみたくなる。だって、他人の子供を抱っこするだけでこんなに幸せな気分になれるのだ。
赤ん坊を抱いたまま慎重に立ち上がり、体をほんの少し揺らしながら部屋の中をゆっくり歩き始める。泣き叫びすぎて声も枯れ枯れになっていた赤ん坊が、少しずつ静かになり始めた。男達全員の視線が私に集まっているのをひしひしと感じる。
「座って抱っこしてても泣き止まないんですよ」
ちょうど前回の年末年始に、兄と義姉が生後四ヶ月の姪っ子を連れて実家に帰省した際、少しだけお世話を手伝ったことがあった。慣れない場所に連れて来られたのを分かっていたのか、眠いと訴えて泣き続けるのに中々寝てくれない姪っ子を、兄・義姉・私の三人は交代交代で今やっているのと全く同じ様に夜通しあやし続けたのはいい思い出だ。翌日は腕が上がらなかった。
赤ん坊の背中を優しく定間隔で叩き始めると、相当体力を消耗していたのだろう、すぐに大人しく寝息を立て始めた。背中を打つ手を止めてしばらく様子を見たが、すっかり眠り込んだ様だ。
「君は素直にねんねして、いい子だね」
そのしっかりとした眉毛にキスを落とす。どうか、この子ができるだけ寂しい思いをせずにすみますように。
そろそろどこかに下ろしても大丈夫そうだ。どこか適当な場所を探していると、見計らった様に二階堂一等卒が布の入った籠をこちらに差し出してくれた。綺麗な柄のその布をおくるみの様に巻きつけ、赤ん坊をゆっくり籠の中に寝かせた。その様子を無言で見つめていた鶴見中尉が、静かに口を開く。
「名前、馬に乗れる服に今すぐ着替えてきなさい」
こんな早朝に、私はどこかに行かされるらしい。いつになく神妙な表情の鶴見中尉にこれ以上質問することは憚られたので、私は大人しく、はい、と短く返事をして立ち上がった。部屋の障子を閉めるために廊下で振り返った時、障子の隙間から見えた月島さんは、私を見ていた。
自室に戻り、桐箪笥からブラウスと乗馬服のスカートを取り出す。ジャケットを着ると"いかにも"な乗馬スタイルになるので、この上に軽くショールでも羽織ってしまえば問題ないだろう。
脱いだ長着を皺にならないよう着物掛けに掛けていると、自室の障子が独りでに開いた。声も掛けずに入って来たのは鶴見中尉で、後ろ手で障子を閉め、無言のまま私に近付いてきた。
「おじさま?どうしたんですか」
私を見ているようで見ていないその瞳には、見覚えがあった。鶴見中尉は、その右手で私の腰を正面から引き寄せ、左手で私の後頭部を包むように支えると、そのまま胸元へ抱き寄せた。微かに燻したような匂いがする。
「…あの、おじさま?」
鶴見中尉は何も喋らなかった。後頭部を離れた鶴見中尉の手が私の右手に移動し、軽く上に持ち上げられる。私の手の平を親指でさわさわと撫でた後、小指の付け根辺りを、ぐっ、と痛くない程度に強く挟んだ。
「
鶴見中尉が今どんな表情をしているのか、そして呟かれたその言葉の意味を知る時は来るのだろうか。私は、知りたいようで、知りたくなかった。
「おじさま、最近変ですよ」
この家で私と暮らすこの男とは、この時代の誰よりも多くの時間を共有してきた筈だった。なのに、私はこの男の事を何も知らない。
「お前の幸せを心から願っているよ」
鶴見中尉は、そう言って私の小指に口付けを落とした。私の命を脅かす者であると同時に、私を生かし続ける者。それが私の養父―おじさまだ。