Chapter 1: 導入編
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「それで、お船が沈んでしまったんですって?お嬢様がご無事でなによりですけども、あちらから持っていらした荷物もすべて海の底なんて、おかわいそうに」
昨晩からお世話になっているこの鶴見邸に出入りしているお手伝いの女性、シヅさんは急須にお湯を注ぎ入れながら眉を下げて言った。梅干しの塩っぱさに顔をしかめて耐えていた私は、一呼吸おいてようやく私のことを話していることに気がつき、何と答えればいいかわからず曖昧に微笑む。ちらちらと上座で味噌汁を啜る鶴見中尉に視線を送ると、お椀の縁から黒い目玉がぎょろりとこっちを見た。
「君の父親から小遣いを預かっているから、必要なものは今日買い出しに行くといい。若い女性は何かと物入りだろうからね」
鶴見中尉の真意は掴めないが、なんだかちょっと楽しそうな響きである。あそこまで脅されて、これ以上しおらしく遠慮する必要もなさそうなので、お言葉に甘えて鶴見マネーで爆買いも悪くない。
「月島軍曹を迎えに来させよう。洒落たことはからっきしな男だが、まあ荷物持ちにはなるだろう」
お箸の間から掴み損ねたたくあんがお茶碗の中に落ちた。この男、私が遠慮なく爆買いするつもりでいたことも、そして月島軍曹の前でそんなことできないことも予想していたな。
「私、ひとりで大丈夫ですけど」
「遠慮するな名前。従叔父(おじ)さんが一緒に行ってあげられればよかったんだがなァ」
お箸を持ったままの手で私の肩をすりすりと撫でた。
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「ごめんください」
鶴見中尉が家を出てから程なくして、玄関の引き戸が開く音がした。私が立ち上がるより先に、台所にいたシヅさんが、はいただいま、と手ぬぐいで濡れた手を拭きながら小走りで玄関へ向かった。私はどうしたらいいのかわからず、正座のまま畳の上に両腕を突っ張って、立ち上がる直前の体勢のままシヅさんが戻って来るのを待った。
「月島様には玄関でお待ちいただいてますよ」
「あの、シヅさん、私何をしたらいいのか…」
「うふふ、お嬢様はそのままでじゅうぶんおきれいですよ」
着物と一緒に購入していてくれたらしいコートを携えて、シヅさんが戻ってきた。微妙な体勢のままの私をからかうように笑いながらも、手を出して立ち上がるのを手伝ってくれた。シヅさんは私の襟元と帯をすこし整えると、いたずらっぽい感じで続けた。
「お嬢様は向こうでずーっと洋服でお過ごしになってたんでしょう?所作でわかりますよ。殿方の前では、お気をつけになったほうがよろしいかと」
コートを背中から掛けられ着物の袖をうまく内側に収める。ふくらはぎまで長さのあるコートは、しっかりとした重さがあり、きれいな織の入った薄紫の素材でできていた。この時代の女性は、毎日こんな花嫁衣装みたいな服を着て暮らしていたのだろうか。
シヅさんに連れられて玄関に向かった。玄関の一段上がった所に腰掛けている月島軍曹の後ろ姿が見える。今日はフードのついたベージュのコートを着ている。私が近付くとこちらにふりかえり、立ち上がってこちらに軽く一礼をしてから軍帽を被った。
「おはようございます鶴見さん、お迎えにあがりました」
「お、おはようございます」
月島軍曹が座っていた場所に今度は私が腰掛け草履を履く。今、私のことを鶴見さんと呼んだ。しかも昨日よりなんだかかしこまっている。
「参りましょう」
「お二人共、お気をつけていってらっしゃいませ」
「はい、行ってきます、シヅさん」
立ち上がってシヅさんに挨拶をし終わると、月島軍曹が戸を開けて私を先に通そうとする。お先にどうぞ、と促すも、いえ、鶴見さんが先に、と取り合ってくれない。頭を軽く下げながらいそいそと戸をくぐる。すごく気まずい。
「あら、雪がさらに積もってますね」
昨晩から積もってはいたが、足を取られる程分厚く積もってはいなかった。深夜にかなり降ったのだろう。
「馬橇を待たせてあります」
なるほど、雪が深く積もると車輪が埋もれて馬車は使えないようだ。この馬橇は、人が乗る部分には折りたたみ式の幌がついており、まさにレトロな馬車の車輪を取り外して橇に乗っけた、というような風貌だ。
玄関の周辺は軽く雪かきがしてあるが、馬橇が停められている場所の周囲は、一人分の足跡以外(軍曹が降りてきた時のものだろう)十五センチ程しっかりと積もっていた。その雪の深い所に一歩踏み出したはいいが、タイトな着物の裾のせいもあってか足がうまく抜けない。バランスを崩してふらふらしていると、月島軍曹が無言で私の二の腕を、むんず、と掴んだ。軍曹、そこは女子的にちょっとセンシティブなパーツだから、もうちょっとロマンティックに肩とか手首にしてくれたらよかったのに。無事馬橇まで辿り着き、今度は月島軍曹が先に乗ると、私に向かって手を差し伸べ、引っ張り上げてくれた。
「あの、今日はどこにお買い物に行くんでしょうか」
「日用品や婦人服は浅草通りの方でしょうかね」
「浅草ですか…あの、遠いので今日は大丈夫なんですけど、銀座ってここからどれくらいかかるかわかります?」
「銀座?」
今朝起きて気付いたのだ。化粧品も、化粧水もなにもかもない。着るものはこうやって鶴見中尉が一着でも用意してくれたので良いとして、問題は冬の乾燥だ。私の記憶が正しければ、明治あたりにはすでに銀座に資生堂があるはずである。浅草でもとりあえずの品は見つけられるだろうが、この時代に来ても肌には妥協したくない。今度時間のある時に一人でゆっくりザギンで爆買いするのだ…鶴見マネーで。
ところで、月島軍曹が無言のまま私の顔を凝視している。布団の中でちょっぴり泣いたし、リップもとうの昔に剥げてしまったこの顔を見つめられるのは居心地が悪い。どうしたものかと考えあぐねていると、軍曹は眉をひそめたまま私の耳元に近付き、心拍数の上がる私の動揺に一ミリも気付くことなく、手を衝立にして小声で言った。
「…あの、ここは北海道ですよ」
月島軍曹の口から、驚きの事実が漏らされる。私は時を越えたばかりか、千キロもの距離まで越えて来たらしい。でもまあ、通りでこの雪だ。馬を操作する人にこのちんぷんかんぷんな発言が聞かれていなくて本当に助かった。
「そ、そうなんですね…私東京にいたから、てっきり…」
「まあびっくりされるのも致し方ないでしょう。ちなみにここは小樽です」
小樽、と小さく呟き、両脇を過ぎていく町の景色に目をやった。月島軍曹と雪の積もる小樽で馬橇に乗って初デートか…悪くない。