Chapter 5: 夏・小樽編
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私は遠い所から二つの影を見ている。海辺の岩場で、あの子は言った。
『
まるで顔に水でも掛けられたかの様に、私の思考は覚醒した。あんなに重かった瞼がこんなにもすんなり開く。目を開けて最初に視界に入ったのは、驚いた表情で私を覗き込む月島さんだった。唾を飲み込んだのか、喉仏が動いたのが見えた。
「今、何て言った」
「…私、何か言いました?」
長い夢を見ていた気がするのに何も思い出せない。月島さんは疲れたように両手で顔を覆って大きな溜息を吐いた後、聞き間違いだ、と小さく呟いた。
私は自室に寝かされている様だった。障子の外は真っ暗で、鏡台の側のランプだけが薄暗く室内を照らしている。今、何時なんだろう。あれから舞踏会の件は無事収束したのだろうか。
「気分はどうですか」
「…あれ?こんな会話、さっきしませんでしたっけ」
ハイになるのは人生で初めての経験だったが、意外と記憶はちゃんと残るものらしい。あの部屋で月島さんに揺さぶり起こされた時、気分は悪くないか、と聞かれた事をはっきりと覚えている。そしてその後に私が何をしたかも、ちょうど今順番に蘇って来ている途中なので、ちょっとそっとしておいて欲しい。
「あの、あなたは丸一日ずっと眠っていたんですよ」
全く"さっき"なんかではなかったみたいだ。確かに、よく見ると月島さんはあの時のスーツ姿ではなく、深緑の和服の上に軍服のジャケットを羽織っていた。僅かに開いた胸元から小さな古い傷跡が見える。起き抜けには眩しすぎる。
「やっぱり、阿片のせいですかねぇ」
私はそう言いながら両手の指を組み、その手の平を天井に向けた状態で両腕を垂直に伸ばし、肩周りをストレッチさせる。確かに眠り続けていたのは阿片の影響だろうが、もう完全に抜け切っているようで体調には何の問題も無さそうだ。上体を起こそうとして布団に手を突くと、軽々と体が持ち上がり、長時間睡眠の効果を実感した。アメリカでは医療用大麻が不眠症患者に処方されているらしいが、成程、種類は違えど効果はあるのかもしれない。首を前後左右に倒して凝り固まった首周りをストレッチしていると、あぐらをかいていた月島さんが急に正座に座り直し、私に頭を下げた。
「…あの、月島さん?」
「申し訳ありませんでした」
謝罪されるような事をされた覚えは一切無かった。―まさか、あのキスに応えた事を後悔しているんだろうか。だったとしたら、とても複雑である。あの時ようやく月島さんは私を見てくれた気がしたのだ。何のレンズも通さずに、私という像を、私のまま。
「…どうして、謝るんですか」
ぽつりと呟かれた私の問いに、月島さんは頭を下げたまま答える。
「私のため、と言ったでしょう」
月島さんが和服の木綿生地を膝の上で掴んだ。その深緑の織柄が、くしゃり、と歪んだ。私はあの旅館の一室で、月島さんを言い包めるためになんとなしに言った自分の一言を思い出す。
『だから、今日は月島さんのために行くんです』
「私のせいで、あなたを危険な目に合わせた」
その声色には確かな後悔の色が滲んでいた。違う、私はこんな事を言わせるために月島さんの力になりたかった訳じゃない。掛け布団の端を握り締め、胸の底から湧き出てくる強い感情の正体を特定しようと頭を巡らせる。そうだ、これは、怒りだ。
「その謝罪、残念ですがお受けできませんね」
毅然と言い切った私を、月島さんは頭を上げて困惑の表情で見つめた。
「そもそも、私を今回の件に関わらせると決めたのはおじさまです。月島さんには何の落ち度もありません。謝って貰うとしたら、むしろおじさまですよ。あんな過激な衣装着せて…あんなの触ってくれって言ってる様なもんじゃないですか!ああもう腹立ってきたっ」
そこまで言い切った所で、ヒートアップし始めた私を諌める様に月島さんが咳払いをした。月島さんの目の前で鶴見中尉を責めるのはさすがにまずかっただろうか。
「…とにかく、謝るのはやめて下さい」
まだ納得のいかない顔をしている月島さんの膝に手を伸ばす。その上に堅く握られた拳を手に取り、指を一本一本解すように緩めていく。
「今後もうちょっと気を付けますから」
「…かなり、気を付けて下さい」
「でも、危なくなったら、また月島さんが助けに来て下さいね」
最後に親指を解し終えると、その手が私の手首を優しく掴んで引き寄せた。正座して座る月島さんの首筋に顔を寄せる様にしてもたれ掛かった私は、こっそりとその匂いを吸い込む。緊張しているのにどこか心は穏やかだった。月島さんは、私の手首を握っていた手を背中に移動させ、さらに体を引き寄せる。
「何で、あの時、やめちゃったんですか」
耳にわざと息を吹き掛けるように囁くと、月島さんの肩がピクリと揺れた。耳の付け根から顎のラインに沿って人差し指をなぞり下ろしていき、顎先の髭のじょりじょりした感覚を楽しむ。こうやって髭に触れるのを、私はずっと心待ちにしていたのだ。月島さんは、私の背中に回した方とは反対の手で、髭を弄る私の手を掴み、言う。
「正気じゃない人は、抱けませんから」
月島さんが私の方へ顔を近付ける。それに応えるように、私もその首筋から頭を離した。額同士がゆっくりぶつかる。
「名前、呼んでくれますか?」
「…鶴見さん」
「…からかってるんですか」
「名前さん」
「ん、あと一息」
「名前」
いつも"あなた"だとか"鶴見さん"としか呼んでくれないこの人は、非常時以外は、こうやって何度も強請らないと私の名前を呼んでくれないのだろうか。私はいつだってあなたの名前を―あれ、月島さんの名前って?その疑問が頭に浮かんだ瞬間に唇に熱い物が触れ、私は考えるのを止めた。
四肢の末端まで、じわじわする様な、チリチリする様な幸せな刺激が巡り渡る。舌先で、唇で、手の平で、胸で、背中で、腰で、全身で月島さんの体温を感じている。そんな純粋な幸福感の次に腹の底から湧き出てくるのは、言い知れない欲と期待だった。
一度唇を離し、視線は合わせないままお互い息を吐く。背中に回された手が首の後ろに移動し、力強い手付きで私の顔を引き寄せた。
引き寄せた瞬間、気持ちいいくらいに、スパーン、と音を立てて、障子が開かれた。私は脚力を全出力して後ろに跳び、敷布団の上で三角座りをして着地した。けたたましい音を立てる心臓を左手で押さえながら、部屋の入り口に立つ鶴見中尉を、ぎっ、と睨んだ。
「お、お、おじさま…声くらい掛けて下さいよ…」
「邪魔したようだな、すまんすまん」
悪びれもなく部屋へ入ってくる鶴見中尉だったが、障子が開かれるまで足音や気配はまったく感じなかった。私だけならまだしも、あの月島さんもだ。恐らく鶴見中尉は"分かって"忍び足で来たに違いない―ティーンエイジャーの親でもあるまいに。
「声が聞こえたものでな―名前、体調は平気か」
「あ、はい。たくさん寝たので元気です」
「だ、そうだ、月島。お前もそろそろ休んだ方がいい」
「…はい、お
月島さんは立ち上がって鶴見中尉に一礼した後、私の方に振り向いた。
「鶴見さんも、おやすみなさい」
「…おやすみなさい、月島さん」
三歩進んで二歩下がるとは、つまりこういう事だ。部屋から出て行く背中を見送りながら、眉を寄せて布団の上でもじもじしている私を鶴見中尉が見下ろす。
「今夜から月島には別の任務にあたらせている。その後に、わざわざお前の様子を見に寄ったんだぞ」
「…そう、だったんですか」
鶴見中尉が布団の横に腰を下ろした。照れ隠しで前後に体を揺らす私を見つめ、私の頬に向かってその手が伸ばされた。
「怖い目に合わせて、すまなかったな」
「…聞いてたんですか?」
「何のことだ?」
こう優しい笑顔を向けられては、これ以上突っ込んで尋ねる気にはなれなかった。鶴見中尉は腰を浮かせて私に更に近付いて座り直した後、頬を撫でる手で私の頭を引き寄せ、耳元で小さく告げる。
「医者にも診させたが、お前の体は "無事"だ」
何の事だ、と数秒考えを巡らせ結果、荒い息を吐く仮面の男の姿が頭の中に薄ぼんやりと浮かんだ。今なら分かるが、あれは私のお尻を触って廊下まで追いかけて来たあの中年の男だった。
鶴見中尉は私の頬から手を外し、何やら愉快そうな表情を浮かべながら腕を組んだ。
「鯉登少尉が三十円で売られたお前を、五十円出して買い戻したそうだ」
五十円。現代では税込みでうまい棒四本しか買えないが、この時代の金銭感覚ではかなりの大金である。例えば、看護婦見習いとしてフルタイムで働く私の月給は、うまい棒以下の七円。お分かり頂けただろうか。私は冷や汗が止まらない。
「よ、よくそんな大金持ってましたね…」
「その十倍の投資額が集まる予定だ。お前にはまた、会計の手伝いに戻って貰うぞ」
どうやら私は病院勤めの任を解かれ、兵舎通いに戻るらしい。旭川に行く前に挨拶してからそれっきりの先輩ナース達の顔が頭に思い浮かぶ。色々あったけれど、有意義で楽しい職場だった。再度きちんと挨拶に行かなければいけない。
「よくやった、名前」
鶴見中尉は上体を傾けて私の頬に軽く口付けた。目を白黒させている私の頭を上機嫌な表情で撫でる目の前の男は、恐らく臨時収入でテンションが上がっているだけだとは思うが、妙に優しかった。
「鯉登少尉にも礼を言っておくように」
話の流れから言えば何ら不思議のないその言葉に、私は心がざわつく思いがした。きっとこの男、また何か考えているに違いない。