Chapter 5: 夏・小樽編
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急に部屋を出て行った名前を追って扉を開けた鯉登少尉は、廊下でたばこを吸う先程の中年男性と目が合い、お互い仮面越しに一瞬睨み合ったが、すぐに視線を外し名前の姿を探す。名前は廊下の奥に向かって早足で歩いて行き、突き当りの扉の中―化粧室に消えた。名前から目を離してはいけない、という命令を忠実に守っている鯉登少尉だったが、流石に化粧室の中にまでついて行くのは憚れるので、化粧室から名前が出て来ればすぐに分かる様、廊下で待つ事にした。
たばこを吸い終わった例の中年の男が吸い殻を床に落として靴で踏み付けた後、そのまま化粧室のある方向へ立ち去っていく。鯉登少尉は汚物を見る様にその背中を目で追うが、化粧室の扉を素通りして突き当りの角の向こうに消えていった事を確認すると、軽く息を吐いて燕尾服の内ポケットからたばこを取り出し、マッチで火を点けた。
西洋文化に造詣の深い海軍将校を父に持つ鯉登少尉にとって、舞踏会や西洋風の会合に参加することは初めてではない。家族単位で招待される事もあったため、少年期にはマナー教師の指導を受けさせられたこともあったぐらいだ。そんな鯉登少尉は、既にこの仮面舞踏会が持つ妙な"アンバランスさ"に気付いていた。
招待客の男達―痴れた行動を取る者ばかりではあるが、みな質の良い燕尾服を着用し、恰幅が良い者も多い。問題はその
『六月の舞踏会以降、函館周辺で十数名の遊女と若い一般人女性が不可解な失踪を遂げている』
やはり偶然という訳ではない様だった。たばこの先端に長く溜まった灰が床に落ちる。途端、化粧室の扉が開く音が聞こえ、考え込んでいる内に扉から目を離してしまっていた鯉登少尉が驚いて顔を上げる。扉から出てきたのは見知らぬ二人の女で、こちらではなく突き当りの角の奥へと去っていった。
指の間に挟まるすっかり短くなったたばこが、名前が化粧室に入ってからしばらく時間が経った事を告げていた。腹でも下したか、とデリカシーの無い事を考えながら、鯉登少尉は化粧室の扉に向かって歩き始める。あまり褒められた事ではないが、いざとなれば中に入って確認する必要があるかもしれない。扉の前で立ち止まってノックを打つ手を用意した瞬間、斜め後ろから聞き慣れぬ声が掛かった。
「旦那、どなたかお探しかい」
鯉登少尉は声の方向に振り返る。廊下からは死角になっている曲がり角の裏側に、ソファーとテーブルが置かれた小さなスペースがあり、七人程の男達が集まっていた。テーブルの上には灰皿、ウィスキーとワインのグラス、鉛筆、そして結構な量の紙幣が乱雑に重ねて置いてあり、ここで博打をしている様に見えなくもなかった。
「女が一人出て来なかったか」
鯉登少尉は、先程声を掛けてきたであろう、紙幣を数える男に向かって尋ねた。男はピタリと手を止め、仮面の奥でにやりと目を細める。
「ああ、さっきのかわいいおっぱいの子だね。もう売れちゃったよ」
「―は?」
「ここにいる旦那達全員あの子に入札しに来たんだけどさ、今しがたフラッと来た旦那に最高額付けられちゃって、みんな傷心だよ」
ソファーに腰掛けた男が、三十円は厳しいよなァ、と言い、周りの男達もそれに同調するように無言で頷きながらグラスを傾けた。たばこを吹かしていた一人の男が、そのたばこを持つ手を鯉登少尉に向けながら話し始める。
「あんた、あの子の連れだろ。廊下で見たぜ」
鯉登少尉はその男の仮面をじっと見つめる。会場に入って間もなく、名前が廊下で立ち止まって見ていた男の仮面だった。
「だめだろ、そんな大事な子をこんな所に連れて来るなよ」
「何が言いたい?」
中々全貌が明らかにならない会話に痺れを切らした鯉登少尉は、つかつかと男達の方へ歩み寄り、尋問する様な口調で尋ねた。男は話が噛み合わない事に気付いたのか、首を振りながら諌める様に口を開く。
「他の男に買わせるために連れて来る女なんだ、もう少し選んだほうがいいぜって言ってんだよ」
鯉登少尉は自分の推論が正しかった事を確信した。招待客同士で自分の同行者を提供し合っているようだ。首の裏の血管が、みしり、と音を立てたのを聞いた。無意識に胸元に隠した拳銃へと手が伸びるが、騒ぎを起こす事を禁じられている上に名前の居場所すら分からない今、ここで事を起こすのは失策以外の何物でも無い。自身を落ち着かせるために長く息を吐いた鯉登少尉は、頭に浮かんだ疑問を口にする。
「…何故、ここで女を買う?」
そもそも女を買うだけならば、わざわざこんな馬鹿みたいな仮装をして山中まで来ずともできるではないか。阿片購入を目的に足を運んでいるとしても、三十円を叩いてここで女を買う理由にはならない。すべての紙幣を数え終えた男がテーブルの上で端を揃え、鯉登少尉に向き直る。
「旦那、もしかして舞踏会は初めてかい?」
「ああ、だったら何だ」
「ここで買う女は最高に"良い"んだよ―阿片を吸わせるからね」
遂にすべての糸が繋がったという知的快感と、名前から一瞬でも目を離した罪悪感が同時に鯉登少尉を襲った。
「旦那も吸いたきゃ吸ってもいいけど、勃たなくなっても知らないよ?」
悪趣味なジョークに男達は下衆た笑い声を上げた。鯉登少尉は微かに震える手を燕尾服の内ポケットに伸ばす。数え終えた紙幣を折りたたみ、麻袋にしまった男の側に歩み寄り、怒りに陰った目で男を見下ろしながら内ポケットから手を引き抜いた。
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瞼が重い。
体がだるい。
どことなく息苦しい。
嗅いだことのない、変な匂い。
「さあ、ここに口を付けて」
知らない声がする。
薄っすら瞼を開ける。
ろうそくの火が見えた。
唇に固い何かが当たる。
「そのままゆっくり吸ってごらん」
鼻で息を吐く。
口から、ゆっくり吸う。
煙たい。
せきが出る。
体が、しずみ込む。
「もう一回だ、楽になるよ」
また、口にあたる。
いきを、すう。
あたまが、 。
なに。
いき、はく
「いい子だ」
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鯉登少尉が内ポケットから引き抜いた札束が、ぴしゃり、とテーブルの上に
「…旦那、これ…?」
「五十ある。その女、俺に買わせろ」
男は札束を手に取り、その札束と鯉登少尉に視線を交互に遣りながら、困惑した表情で口を開く。
「い、いや、さっきもう売れたって!」
「まだ間に合うだろう。いいから早く女の所に案内しろ」
「鯉登少尉殿」
月島軍曹の良く通る声が廊下に響き渡った。鯉登少尉は肩を揺らし、弾かれた様に振り返った。
「おいッ…ここで名前をでかでかと呼ぶ奴があるか!」
「失礼しました、それより"彼女"は―」
月島軍曹の声を遮る様にして、札束を握りしめる男が割って入った。
「旦那、軍人さんなのかい」
「そんなことはどうでもいい、早く連れて行け」
「…あー、そっちの仮面着けていない旦那も一緒かい?」
男が月島軍曹を指差す。指を差された本人は眉を顰め、状況が良く分からないのか、鯉登少尉をちらり見上げた。上手く話が進まない事に痺れを切らした鯉登少尉は、半ば自暴自棄に陥って声を張り上げる。
「…そうだ!二対一ではいかんかッ!」
「わっ、分かった!案内するよ!」
男は飛び上がる様に椅子から立ち上がり、小走りで廊下の奥へ移動を始めた。大股で男の後を追う鯉登少尉と月島軍曹は、小声で簡単な状況報告を行う。
「名前が化粧室で拉致された。細かい事は後で説明するが、危険な状態かもしれん」
「!…私達は今そこに向かっている、という事ですか」
「そうだ。…鶴見中尉殿は?」
「二階で主催者の男を確保し、待機しています」
「そうか…無事なんだな」
男が廊下の端に置かれた飾り棚の前で立ち止まり、その棚を横にスライドさせると、地下へと続く階段が姿を現した。二人は男の制止の言葉を無視し、階段を駆け下りていく。踊り場を二回経由して降り立った地下階は、まるで地下牢のように薄暗く、妙なもやに包まれていた。
「何だ、この匂い」
「阿片膏を燃やしてる様です、あまり吸わない方がいい」
誰も居ない短い廊下を奥に進んで行く。突き当りには赤いカーテンが掛かっており、中華風のタッセルが付いた赤い提灯が二個天井から吊り下がっている。月島軍曹の脳裏に、日清戦争時に駐屯した威海の市街地の記憶が呼び起こされる。
「…これは、
「悪趣味だな」
鯉登少尉は鬱蒼とした雰囲気を物ともせず、勢い良くカーテンの切れ目に腕を突っ込み、ばさりと横に広げる。阿片膏の匂いに混じる汗と僅かな花の様な匂いに、鯉登少尉は思わず袖で鼻を押さえた。透ける程薄いカーテンで区切られた簡易的な個室がかなり広い室内にコの字型に並んでおり、各個室から漏れるオレンジ色のランプの光が個室内で行われている行為の影を、まるで映画を上映するかのようにカーテンに映し出している。響く男達の荒い息に掻き消される女の小さな嬌声を聞いた時、鯉登少尉は自分の思考が停止するのをはっきりと感じた。右手に拳銃を握り締めて荒い一歩を踏み出した時、その腕を月島軍曹が掴んだ。
「鯉登少尉、制圧はまだです」
「―ッ!…クソっ」
「本当にここに鶴見さんが?」
「その筈だ…端から探すぞ、月島ァ」
二人は二手に別れ、両端の個室から順に中を確認する事となった。室内で待機していた白い仮面の男が、他所の客の個室を覗き込む二人に気付き、数秒二人を見比べた後、鯉登少尉の方へ駆け寄ってその腕を掴んだ。
「だ、旦那さん、どの子か言ってくれたら案内しますから」
「結構だ。自分で探す」
掴まれた腕を振って男の手を払い除けると、隣の個室のカーテンを無遠慮に捲った。寝台の上に男の尻、女の足、床に落ちる青い女の洋服―違う、名前の服ではない。鯉登少尉はカーテンをばさりと戻し、次の個室の前へと移動する。
次の個室のカーテンを捲る。寝台の上に男の尻、女の足、今回は服が落ちていない。首を伸ばし、男の体の向こうにある女の顔を確認する。違う、名前ではない。鯉登少尉の気配に気付いた寝台の上の男は、振っていた腰をピタリと止めてカーテンの方へ振り向く。
「何だお前!?」
「…」
無言でカーテンを戻した鯉登少尉は、指でこめかみを押さえた。名前に辿り着くまでに何度揺れる男の尻を見る羽目になるのかを考えると頭痛がした。
一方の月島軍曹も同じ頭痛を抱えていた。五つ目の個室―五つ目の尻を確認し終わり、何も着ていない状態の人間を特定する事がいかに難しいか、身を持って思い知らされていた。思った以上に人間は顔の造形だけでなく、髪型・服装・背丈や体型などの情報で複合的に人物を判断しているようだった。全裸で寝台の上に寝そべっている状態で、しかもその上にできれば視界に入れたくない物が乗っていては、正しい判断もつかない。加えて、室内に立ち込める阿片の匂いと、毎度カーテンを開ける度に襲う心臓を鷲掴みにされる様な緊張感が、月島軍曹の思考を確実に蝕んでいた。
次の個室のカーテンを破れそうなくらいに強く握り締め、意を決して横に引く。また男の尻だ。ただ、この尻は動いていない。うつ伏せに寝そべる女の体の上に、男も同じ様にうつ伏せで伸し掛かっているだけの様だ。男は女の耳の裏辺りに顔を埋め、熱心に舐めているか匂いを嗅いでいるらしい。
ふと、寝台の端から垂れる女の左手に目が行った。月島軍曹はその華奢な肩のラインから肘に向けて視線を下ろして行き、その手首に巻かれた腕飾りを"見慣れたもの"だと自身の脳が認識した瞬間、遠い昔に経験した"タガが外れる"感覚を再び味わうのだった。