Chapter 5: 夏・小樽編
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「汚さんように気をつけろ」
月島軍曹が男の首に銃剣を突き立てた直後、鶴見中尉がそう警告した。慌てて月島軍曹は男が着けている白いマスクを掴み、首からの出血が付着しない様上にずらしてから取り去る。手に持ったマスクの角度を変えて汚れていないかを確認した後、男の首から銃剣を引き抜き、目を見開いたまま絶命したその死体を茂みの中に落とした。
鶴見中尉は月島軍曹の手からマスクを取り上げ、代わりに手ぬぐいを持たせる。その手ぬぐいで銃剣に付着した血をさっと拭い取った月島軍曹は、マスクの匂いを嗅いでいる鶴見中尉を一瞥し、銃剣の先で建物二階を指し示した。
「あそこを登れば二階から侵入できるかと」
一階の窓からは建物内を行き来する人々の影がよく見えるが、二階に限っては、明かりが点いているにも関わらず人の通りが全く無い様だった。
「まずは主催者に挨拶だな」
鶴見中尉は月島軍曹の頭から、ひょい、と中折れ帽を摘み上げ、マスクを手渡した。
「…私が着けるんですか」
「こういうのは雰囲気だぞ、月島軍曹」
溜息を吐きながら銃剣をホルスターにしまい、月島軍曹は受け取ったマスクを顔に当て、両端についた麻ひもを後頭部で軽く結ぶ。中折れ帽が頭に乗せられる。多少ぐらぐらするマスクを固定するように、月島軍曹は帽子を深めに被り直した。
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私と鯉登少尉は壁に寄り掛かりながら無言でワイングラスを煽った。久々にありつけた赤ワインなのに、味が全然分からない。すべての原因はこの乱痴気騒ぎにあった。鯉登少尉がグラスから口を離し、宙を見上げながらうわ言の様に呟く。
「…なんだったんだあれは」
「もうやめましょう、その話」
華やかな仮面舞踏会の皮を被った阿片即売会である筈のこの会合は、蓋を開けてみれば過激な
「鯉登少尉殿、とりあえず"現場"を探しましょう」
「あ、ああ、そうだな…」
状況が一転二転しようとも、私達に与えられた任務を達成しない訳にはいかない。さっさとこの熱気の籠もった部屋を出て捜索を始めるべきである。空になったワイングラスをバーカウンターのに置き、私達は部屋の出口に向かう。
開けっ放しになっているドアの前まで来た時、一組の男女が丁度廊下から部屋の中に入ってきたので、一歩横にずれて道を譲った。女性はこちらに会釈をしたが、連れの中年男性は礼を言うどころか私の胸元を不躾な目で追い、すれ違いざまに私のお尻をするりと撫でて立ち去ったのだった。
慌てて振り返るが、男はこちらに振り返る事も無く、連れの女性と談笑しながらバーカウンターへ向かって歩いて行った。鯉登少尉が急かすように、組んだ腕を引っ張る。
「行くぞ」
「…あの男…今、私のお尻触ったんですけど」
「勘違いじゃないのか?連れがいるのにそんな事せんだろう」
この時はまだ、まあ確かに鯉登少尉が言う事にも一理あるな、なんて能天気に思っていた。
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「こっちだ」
小声で囁かれたかと思えば、鯉登少尉に腕を引かれ、ドアの隙間に引っ張り込まれる。薄く開けたままの隙間から廊下を覗くと、マスクを着けた中年の男がうろうろと何かを探し回っているようだった。
「…あの男、さっき私のお尻触った人じゃないですか」
「尾けられていたか」
バーがあった部屋から出た後、私達は一階の捜索を開始した。すれ違う他の招待客に怪しまれない様にカップルっぽい芝居を打ちながら、片っ端からドアを開けて中を確認していったが、今の所収穫はゼロだ。むしろゼロどころか、私の精神力は極限まで削られていた―男達からの視線とお触りによって。セクハラの瞬間を何度も目撃するにつれて、さすがに勘違いだと言い切れなくなってきた鯉登少尉は、誰かとすれ違う度に私を壁側に隠したり、今の様に部屋に引っ張り込んだりと守ってくれるようになったが、どうやら騒ぎを起こさないようにと鶴見中尉から命令を受けているらしく、阿片売買が行われている部屋を見つけない限り、私を解放してくれることはなさそうだ。
「まだ奴はそこに居るのか」
「はい、すぐそこでたばこ吸ってます」
「…はぁ、少しここで休憩するか」
鯉登少尉は溜息を吐いて部屋の奥に歩いていった。ギシリ、と何かが軋む音がしたので思わず振り返ると、鯉登少尉が部屋の中央に置かれたキングサイズのベッドに腰掛けていた。いや、待って、なんでベッドがあるんだ。しかもなんで、ベッドサイドに置いてあるランプのおかげで、いい感じに薄暗いんだ。
「…な、なんなんですかこの部屋」
「ただの客室じゃないのか?」
鯉登少尉はけろっとした態度でそう言ったが、私はもう我慢の限界だった。セクシーな展開を避けようと必死で逃げる私をあざ笑うかの様に、ラブコメだか何かの神様が次々とギミックを仕掛けているに違いない。だめだだめだ、ここで"休憩"なんか、絶対だめだ。もうほっといてくれ。
「…あの、私ちょっとトイレに行ってきますね」
「トイレ?化粧室か?」
「そうです、では、ごゆっくり」
「おいッ、一人で行くな!」
隙間からするりと抜け出し、後ろ手にドアを閉めた。たばこを吸うあの中年の男がこちらを見たのが分かったが、無視して早足で歩みを進める。女性用のトイレはすぐそこの角にあるはずだ。先程何人かの女性が入って行ったのをこの目で見ている。
丁度トイレのドアに辿り着いた時、曲がり角のその奥にソファーとローテーブルが置かれた小さな談話スペースがあるのに気付いた。そこに腰掛けた六・七人の男性がたばこを吸いながら手に持った紙を眺めていたが、私に気付くなり男達全員が、じろり、とこちら見た。女性用トイレの近くにこんなスペースを作るなんてデリカシーのかけらも無い。ぎろり、と睨んでおいたが、マスクを着けているので、どうせ些細な表情の変化など分からないだろう。気にせずトイレのドアを少し開け、体を滑り込ませた。
何ら特筆すべき事も無い、普通のお手洗いだ。入って右側の壁沿いに大きな鏡があり、女性が二人おしゃべりしながら化粧直しをしている。彼女達の後ろを通り過ぎ、左手に二つ並んだ個室の手前の方に入って扉を閉めた。
ドレスの裾をたくし上げ、久しぶりの洋式便器に腰を下ろす。用を足しながら、はあ、と無意識に溜息を吐いた。ずっと気を張り続けている体も精神も、もう限界が近い。
「―でも、あのお客さんがお気に入りのお絹じゃなくて、まさか私をこんな所に連れて来るなんて」
「こんな綺麗なべべまで着せてくれたんだから、今度指名貰えるかもしれないじゃない」
個室の外から聞こえてくる女達の会話を、ぼーっ、と聞いていたが、ふと妙な違和感を感じ、その内容を頭の中で反芻する。"お客さん"、"お気に入り"、"指名"―彼女達は遊女の様だ。どうやら招待客に同行者として連れて来られたらしい。
「でもねえ、あんたも気付いるでしょ?ここの女達、みーんな遊女ばっかりだって」
「もちろん。あたしお客さんに聞いたんだけど、"お遊びの相手しか連れてきちゃいけない規則なんだ"ってはっきり言われたわよ」
「えっ、なにそれ?だからあの人もお絹じゃなくて私を連れて来たってこと?最低。」
この破廉恥なパーティーに、招待客は最初から正式な
「ま、でも、美味しい思いはできるだけしとかないと損よね」
「そーよ。さ、戻って甘い葡萄酒でも飲みましょ」
女達の足音が遠ざかり、ドアが閉まる音がした。早く戻って、今耳にした事を鯉登少尉に報告しなければいけない。状況は更にきな臭く、そしていかがわしくなってきた。身の危険すら感じる。
便器から立ち上がってドレスの裾を下ろし、個室の扉を開けて一歩踏み出したその瞬間、私はラブコメの神様を心の底から呪った。足元の床に、ぱっくりと四角く、落とし穴が開いているのだ。視覚で認識していても動き出した足を止めるにはもう遅すぎる。旭川で二度も味わったあの重力変化を、私は再び感じていた。
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「失礼します」
白いマスクを着けたスーツの男が部屋の中に入ってくる。部屋の主であろう白髪交じりの髭を蓄えた初老の白人男性―この舞踏会の主催者は、部屋の中央に置かれた応接椅子に腰を下ろしたまま、顔を上げて扉の方を見遣った。
「どうしタ」
「お客様が見えております」
マスクの男の背後から姿を現した鶴見中尉がそのまま部屋に入ってくる。主催者の男が座る椅子の後ろに控えていた用心棒の若い白人男性は、鶴見中尉が部屋に侵入したのを見るや否や、胸元から拳銃を取り出して銃口を向けた。鶴見中尉はそれに何の関心も見せず、応接椅子の側まで歩みを進める。
「素敵なお屋敷ですなァ」
「…何の用ダ」
主催者の男が鶴見中尉を睨みつける。鶴見中尉はにこやかな表情で中折れ帽を脱ぎ、それを胸の前に当ててて一礼をした。
「ここで阿片を取り扱っているという噂を耳にしまして」
「…お前、やくざカ?」
「いいえ、第七師団です」
主催者の男は、右手を軽く上げて用心棒に拳銃を下げるよう合図した後、手にしていたウィスキーのグラスをテーブルに置いて鶴見中尉に向き直った。
「"アサヒカワ"には上客もイル」
「ほお、そうでしたか」
「身の程知らズは消されるゾ」
「それは困りましたねェ」
芝居めいた口調でそう言って首を振った鶴見中尉は、主催者の男の正面の椅子にゆっくりと腰掛ける。
「招待客の名簿と、阿片をあるだけ全部。私が欲しいのはそれだけです。あなたに危害を加えるつもりはない」
にんまり、と笑った鶴見中尉の目が弧を描く様に細められる。その様子を瞬きもせずにじっと見つめていた主催者の男は、小さく溜息を吐いてから言う。
「…ふざけてイルのカ」
「いいえ、ごく真面目です」
「アヘン、やる。それで手打ちダ、いいナ」
「仕方ありませんな」
主催者の男が右手を軽く上げ、後ろに控えた用心棒に合図する。
「Get this bloody dog some... then "dispose", just throw the fucking body away in the trees or somewhere.(この犬に少し分けてやれ。その後"始末"しろ。死体は森の中にでも放り投げておけばよい)」
「―Yes sir.(はい)」
「Don't let him get close to the bitches and piggies' chamber.(雌犬と豚共の部屋には近付けるなよ)」
用心棒の男が、着いて来い、と言う様に手招きをする。鶴見中尉は笑顔のまま椅子から立ち上がり、背を向けた用心棒の後について行くかの様に思われたが、素早く拳銃を取り出し、用心棒の後頭部を撃ち抜いた。
「What the―!?(何を―ッ!?)」
「勘違いしないで頂きたい」
火が点いたように主催者の男もジャケットの中に手を突っ込むが、鶴見中尉が持つ拳銃の銃口が自分の方に向けられている事に気が付くと、大人しく空の手を膝の上に置いた。
途端、銃声を聞きつけたであろう仲間の男一名が部屋に駆け込み、鶴見中尉に拳銃を向ける。しかし、死角に隠れていた白いマスクの男―鶴見中尉を部屋に引き入れた男の手によって拳銃は蹴り落とされ、その首には銃剣が突き立てられた。崩れ落ちる体からマスクの男は銃剣を抜き取り、軽く横に振って血を振り落としてから、反対の手で自分のマスクを取り外して床に落とした。
「鶴見中尉殿、発砲すると仲間が来ます」
「おお、悪いな月島」
マスクを取った男―月島軍曹は、後ろ手で部屋の扉を閉める。鶴見中尉は、椅子に座る主催者の足元にしゃがみ込むと、その顎下に銃口を直に突き付けた。
「You... fucking dog!!(この…糞犬め!)」
「Don't you dare underestimate what the dog can do.(その糞犬を見くびらないで頂きたい)」
流暢なイギリス訛りで答えた鶴見中尉に、主催者の男は呆然とした表情で両手をゆっくりと上げる。
「Would you get me the bloody lists if you don't mind?(そろそろ名簿を渡して貰えますかね)」
「―Sure... they are in the cabinet... You fetch them Dog...(分かった…引き出しの中だ…自分で取ってこい、犬めが…)
「Woof-woof!(ワンワン)―月島、あの引き出しの中だ」
「はい」
月島軍曹が机の横に置かれた三段の引き出しを上から順に開けていき、探る様に中の物を床に落としていく。二段目の引き出しを開けると、一番上に鎮座する黒光りする革表紙の冊子が目に入ったようだ。僅かに血で汚れた手でそれを取り上げ、重厚な表紙を開いた。
「ありました」
「よーしよーし」
鶴見中尉は銃口を主催者に突き付けたまま満足気に言った。
「Just for my curiosity, what's in "the chamber"?(只の好奇心なんですが、その"部屋"には何が?)」
「...」
「Oh don't worry - it seems like we have plenty of time to explore this lovely mansion after I "dispose" of you, don't you think?(ああ、お気になさらず。あなたを"始末"した後にたっぷり屋敷を散策する時間はあると思うのですが、どうですかね?)」
鶴見中尉が、主催者に突き付ける拳銃の撃鉄を、もったいぶる様にゆっくりと親指で起こす。主催者の荒い息だけが響いていた部屋に、ガチリ、と冷たい金属音が亀裂を走らせた。主催者は歯をがちがちと鳴らしながらも、チッ、と舌打ちし、小さく口を開く。
「... You bastard... shut your fucking mouth up, you know nothing at all...(…いい加減に黙りやがれ、何も知らんくせに)」
鶴見中尉は、後ろ手でテーブルの上のウィスキーグラスを掴むと、主催者の頭の上でそれをゆっくり傾け始めた。キャラメル色の液体が老いた皮膚の上を滴り落ち、主催者が着用している上質なスーツの生地に染みを作っていく。グラスの中の液体が空になると、鶴見中尉は笑顔のままグラスを壁に向かって勢いよく放り投げた。けたたましい破壊音が響く。
「What. Don't. I. Know?(私が、何を、知らない、と?)」
「... We don't sell bloody opium itself. We DO sell hoes doped up with it to the fucking stupid pigs down there...(我々は阿片を売っている訳ではない…我々が下の小汚い豚共に売っているのは、阿片漬けにした娼婦だ)」
主催者はそう言い終えると、乱れた息を整えながらも鶴見中尉に反抗的な視線を遣った。鶴見中尉は少し考える様な表情で数秒視線を交じり合わせた後、もちろん銃口はそのままで、奥の月島軍曹に話しかける。
「月島、すぐに鯉登少尉と合流して"罠"を確認しろ。何か掛かっているかもしれん」
「…了解しました」
「私はこの男ともう少し遊んでいく―吐かせる事がまだあるようだ」
月島軍曹は手に持った黒い冊子を机の上に置き、扉の方へと向かう。応接椅子の横を通り過ぎる直前、鶴見中尉が何か思い出したように月島軍曹を呼び止める。
「―月島」
「何でしょうか」
「客は、殺すなよ」
元々計画の時点で忠告されていた事―招待客に危害を加えない事、そして現場確保までは騒ぎを起こさないこと。それをわざわざ再度忠告された事に対して妙な違和感を感じながら、月島軍曹は部屋を後にした。