Chapter 5: 夏・小樽編
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共に部屋を出た月島さんは、先に外に出ていて下さい、と言い残して二階の廊下の奥に消えていった。
恥ずかしがっている方が恥ずかしい、とどこぞの偉い人は言ったそうだ。私はその言葉を頭の中で繰り返しながら、胸を張って旅館の階段を下りる。玄関付近に立つ兵士達に分かりやすく何度チラ見されようとも、下を向いたり隠したりしないと、そう心に決めたのだ。
が、早くも心が折れそうになっている。原因は、やはりこの男である。
「…な…なんだその破廉恥な格好はッ」
「あの、鯉登少尉殿、そんなに見ないで下さい」
髪をオールバックに撫で付け燕尾服を着こなす鯉登少尉は、気取ったように馬車へ寄りかかっていたかと思えば、私の姿を見た瞬間に飛び退いた。顔を赤くしながらも、私の胸元に集中させた視線を隠そうともしない。一体どちらが破廉恥というのか。
「そんな浮ついた服で潜入するつもりか」
「失礼ですね。おじさまが選んで下さったんですけど」
「…!…鶴見中尉殿、が…」
鶴見中尉の名前を出せば、思った通り大人しくなったが、何故か神妙な顔つきでまだ私の胸元を凝視している。見世物じゃねえぞ、と隠してしまいたい所だが、ここは我慢である。今日の私は女優なのだ。
「鯉登少尉、名前」
旅館の入り口から鶴見中尉がこちらに向かって歩いてくる。その手には、二つのヴェネチアン・マスク。鯉登少尉が鶴見中尉に向き直り敬礼をした。
「似合っているじゃないか、鯉登少尉」
鯉登少尉はうっとりとした目付きでその褒辞をじっくり噛み締めた後、私の耳元で、鶴見中尉殿もとてもお似合いですと言ってくれッ、と早口で捲し立てた。
「…鶴見中尉殿もとてもお似合いですと言え、と言われました」
「遂に名前まで通訳になったか」
勘弁してくれ。
鶴見中尉は、私と鯉登少尉に一つずつマスクを手渡す。鼻の頭から額の半ばまでが隠れる様になっており、オフホワイトのベースに金箔で縁取りと模様が精巧に描かれている。鯉登少尉が渡されたものもほぼ同じデザインに見えるが、私のものにだけ赤いフェザーの飾りが付いている。
「最初の地点に到着するまでに着けておけ」
私は、ごくり、と唾を飲み込む。旅館から数名の兵士を引き連れて月島さんが出てきた。
「鶴見中尉殿、時間です」
「分かった―出発するぞ」
大掛かりな潜入ミッションの幕が開ける。
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時刻は午後七時五十分、御者に化けた兵士が操る馬車に乗り、私と鯉登少尉は招待状に書かれた住所へと向かう。馬車はどんどん人里離れた森の方へと進んで行く。カーテンを除けて窓の外を確認するものの、明かりも何もないあぜ道がただ広がっていた。
「そろそろ仮面を着けておけ」
ほぼ真っ暗の車内に鯉登少尉の声が響く。膝の上に乗せていたマスクを顔に当て、端に付いたリボンを後頭部まで持ってくると、シニヨンの下辺りで蝶々結びにした。マスクのベースは固めた和紙の様な軽い素材でできているため、多少動いたとしてもずり下がったりすることはなさそうだ。
リボンの位置や髪を軽く指で整え直し、両手を膝の上に下ろした。横からはまだ布擦れの音が聞こえており、チッ、と小さく舌打ちが響いた。
「…あの、手伝いましょうか」
「…頼む」
どうやら鯉登少尉は上手く後ろ手でリボンが結べないらしい。男の人なので仕方ない。後ろを向いて下さい、と伝えると、座席の上で軽く座り直す音が聞こえた。ほぼ手探りで鯉登少尉の後頭部を探し、左手が肩に、右手が耳に触れた。鯉登少尉の肩が、ビクリ、と揺れる。
「仮面を押さえて、じっとしてて下さい」
「わ、悪い」
気まずい。恐らく、私も鯉登少尉も、確実に意識している。しかしここで止めれば、気まずいです、と態度で示しているようなものだ。見られる訳でもないのに無表情を取り繕い、鯉登少尉のこめかみ辺りを指先で弄ってリボンを探した。硬い髪と肌の感触。ああ、気まずい気まずい。
ようやく両サイドに絹の生地を探し当て、耳を避けて後頭部のくびれた辺りに一度結び目を作る。
「きつ過ぎたり、食い込んだりしてませんか?」
「大丈夫だ」
鯉登少尉が仮面を押さえていた手を下げたのだろう、布擦れの音がした。そして、はぁ、と小さく溜息のような、吐息のようなものを漏らした。暗闇の中視覚を遮断されているからだろうが、この流れといい会話といい、何故かどことなくいかがわしい雰囲気を感じ取ってしまっている自分が恥ずかしい。
急いで結び目の上に蝶々結びを重ね、ぶっきらぼうに、できましたよ、と告げた。すると、鯉登少尉が座っている側の窓に掛かるカーテン越しに、ぼんやりと明かりが近付いてくるのが見えた。馬車の速度が完全に落ちる頃、間接照明によって少し明るくなった車内にノックの音が響く。
馬車のドアがゆっくりと開かれる。中折れ帽で目を隠したスーツの男がランプを片手に、鯉登少尉に話しかけた。
「招待状を拝見します」
鯉登少尉は燕尾服の内ポケットからあの招待状を取り出し、中のカードを封筒から引き抜くと、無言でその男に差し出した。
「そちらの封筒もお願いいたします」
男の言葉に、差し出したカードの上に封筒を重ねた。その両方を受け取った男は、カードの中を一瞥した後、封筒の裏に鎮座する封蝋にランプの光を当てて注意深く確認しているようだ。簡単に偽造可能な招待状そのものよりも、封蝋の模様が本物かどうか確認しているに違いない。旭川で鯉登少尉を飲みに誘う際に封筒のフラップを破って使ったが、あの時封蝋ごと剥がしてしまっていたら、どうなっていただろうか。
「…ようこそお越し下さいました。どうぞお進み下さい」
男はそう言って一礼すると馬車のドアを閉めた。鯉登少尉がカーテンを開け、窓越しにあの男の背を目で追う。男は御者に近付いて一言二言交わしたあと、近くに見える古い建物の側まで下がって行った。
馬車が動き出し、建物の周りをぐるりと迂回する様に敷地裏へと進んでいく。木々が生い茂るそこに、馬車一台がようやく通れるか、というくらいの獣道の入り口があった。馬車はスピードを落としてその中に入っていく。
「…この先が会場か」
「そうみたいですね」
明かりが遠ざかったため、車内は再び真っ暗になった。ごそごそと横で音が聞こえ、何かを擦る音が聞こえたと思ったら、鯉登少尉の手元が赤く照らされた。マッチを擦ったらしい。マスクを着ける時にもこうやって明かりを点けてくれていたら、お互いあそこまで気まずい思いをすることも無かっただろうに。
心の中で文句を垂れたその瞬間、馬車が木の根でも踏んだのか、車体が大きく揺れた。固い座席の上で一瞬お尻が持ち上がり、私は軽く悲鳴を上げる。火を持っている鯉登少尉は大丈夫だったか、と気になって急いで視線を向けると、マッチの火が指先近くまで来ている事にも気付いていないのか、彼は微動だにせず私の胸元をまた凝視していた。たぶんさっきの振動で、その、揺れたのだ。
「…あの、火が」
「―熱ッ!」
鯉登少尉は慌ててマッチを振って火を消した。車内に再び暗闇と静寂が訪れ、馬車は緩やかな森の斜面を登っていく。
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"鶴の一声"さえあれば、鯉登少尉はこんなこともできてしまうようだ。先に馬車から降りた彼は、私に向かって片手を差し出している。その手を取って久方ぶりの地面に足を着けた。まるで丘陵の中腹にある森の真ん中をくり抜いたかのような敷地の中に、石造りの洋館がそびえ立っている。
「こんな所に洋館が…」
「ああ、上手く隠したものだ」
洋館の窓からは煌々と明かりが漏れており、私達の後にも更に何台か馬車が当着したようだ。入り口付近には私達と同じ様な"カップル"が何組か、顔全体を隠す真っ白いプレーンな仮面を着けたドアマンに促されて建物内に入っていく。
「行くぞ」
「…はい」
軽く曲げられた鯉登少尉の腕に私の手を絡める。鶴見中尉や月島さんは距離を取って私達を追跡し、この洋館の場所を特定したはずだ。無事合流できればいいが。
ドアマンは無言で私達に会釈し、重厚な両開きの扉を開いた。優雅なクラシックを奏でる弦楽器の音と、人々の笑い声が木霊するホールに足を踏み入れる。正面には奇妙な存在感を発する裸婦の銅像が鎮座しており、その横には赤い絨毯が敷かれた螺旋階段が二階へと続いている。一階の奥に続く廊下では、ワイングラス片手に匿名の招待客達が数グループに分かれて談笑している。今視界に入っているだけで二十名程は居るだろうか。物欲しげにワイングラスを見つめる私に気付いた鯉登少尉が、私の腕をぐっと引き寄せ、耳元で囁く。
「今日は飲ませんからな」
「鯉登少尉殿、分かってませんね。何か飲み物持っておかないと逆に怪しいでしょ」
「水でも飲んでおけ」
「ひどい」
半ば引き摺られるように廊下を進む。壁に寄りかかって談笑する招待客の内の一人の前を通り過ぎる時、マスクのせいで確証は無いものの、その男と目が合った気がした。男は右手にワイングラスを、左手を連れの女性の腰に回していたようだが、私と目が合うなり意味深な笑みを口元に浮かべた。
「…?」
「どうした」
「あの男がどうかしたのか?」
「…いえ、特に」
鯉登少尉がその男をマスク越しに見遣った時には、私へ向けられていた笑みは既に解かれ、他の招待客の話に相槌を打ち始めていた。まあどうせ、あの男も私の胸元を見て鼻の下を伸ばしていた、というのが関の山だろう。何にせよ、他の招待客に紛れて潜入させるなら、私だったらもう少し目立たない服を用意させたと思う。
人の声が一段と賑やかな部屋の手前に差し掛かった。どうやらここがメインの
天井から吊るされた豪華なシャンデリアは、その大きさに反して薄暗く妖しい光を室内に落としている。部屋の一角に陣取る弦楽隊は、ステップを踏むにはふさわしくないスローなナンバーを奏でているものの、その音楽は部屋の中央に集まる人だかりから上がる野次と拍手に最早かき消されている。
「…これ、本当に舞踏会ですか?」
「なんなんだ一体…」
あの人だかりは一体なんなんだろう。鯉登少尉と腕を組んだまま数歩近寄ると、群がる人々の奥に、人間の足が天井に向かって高く上げられるのが見えた。そのピンと伸ばされたつま先に細い指が誘惑的な手付きで添えられ、ストッキングの先端を掴むと、ゆっくり滑らせる様に脱がせていく。さらに歓声が上がった。
「…なんだあれは」
「あ…あれは…まさか!」
全く理解できない、というような口調で呟く鯉登少尉とは反対に、私はピンと来ていた。あれは、まさか、この時代にもう存在していたとは。
投げられたストッキングが宙を舞い、興奮した男達が我先にと掴もうとしている。先程足先が見えた位置に、白いレースのコルセットのみを纏ったブロンドの白人女性が立ち上がった。どうやら彼女はお立ち台の上に乗っているらしい。彼女はこちらに背を向け、腰をくねらせながら、もったいぶった手付きで背中の紐を解き始めた。やはり私の予想通り、これは―ストリップショーだ!
横に立つ鯉登少尉を見る。口は一文字に堅く結ばれ、喉仏がごくりと動いた。まずいまずい、これ以上卑猥な雰囲気を呼び寄せる訳にはいかない。私は鯉登少尉に飛び付き、両手で目の部分をマスクの上から押さえた。
「みっ、見ちゃダメです鯉登少尉!!」
「なっ―見ておらんわ!離せッ!」
一糸まとわぬ女がこちらに振り向き、人だかりは熱狂に包まれたのだった。