Chapter 5: 夏・小樽編
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「おじさま…これ寸法間違ってませんよね?」
「あの乗馬服と同じ寸法で直させた筈だぞ」
障子の向こうから鶴見中尉が言った通り、確かにサイズが違っている訳ではなさそうなのだが、それにしてもこのドレスはおかしいのだ。
「…これ、本当にこうでいいんでしょうか」
「入っても構わんか」
「えっ、あっ、…はい」
背を向けている障子が開く音がする。
「あの、やっぱり恥ずかしいんですけど」
「こっちを向いてごらん」
鶴見中尉が後ろから私の両肩に手を置き、体をぐるりと回転させた。胸元でバッテンにした私の両手がゆっくり取り払われる。
「ほう…美しい」
「…はあ、ありがとうございます」
仮面舞踏会用に用意されたドレスは、コルセットやペチコートが必要無いエンパイアスタイルで、バスト下からなだらかに広がるAラインがシンプルながらもゴージャスな印象を与える。ここまでは私もすごく気に入った。問題なのは、胸元である。
「これ、ちょっと大胆すぎやしませんかね…」
「顔を隠すんだから問題ない」
背中とデコルテがかなり開いているのだ。パフスリーブで肩は隠れているものの、胸元に関してはほぼチューブトップの様なデザインになっている。おそらく現代であっても視線を集めるだろう。
自分の胸元ばかり見つめていたので気付かなかったが、よく見ると鶴見中尉も今日はスーツを着ている。通常のネクタイを着けているのでドレスアップという訳ではなさそうだが、軍服か和服姿しか見たことが無かったので、とても新鮮だ。
「おじさまも素敵ですよ―もしかしておじさまも会場内に入るおつもりですか?」
「そのつもりだが、君達とは別経路だ」
「…じゃあ鯉登少尉殿じゃなくて、おじさまが私と一緒に正面から入ればいいじゃないですか」
「仮面を着けても"これ"が目立つだろう」
鶴見中尉が琺瑯の額当てを二回指で叩く。カツカツ、と爪が当たる音がした。確かに目元周辺を隠すヴェネチアン・マスクを着けても、上から額当てがはみ出してしまう。あれは割と印象に残る。
「お誘いは嬉しいが、な」
そう言って、鶴見中尉は鏡台に置かれていた大ぶりのネックレスを摘み上げ、私の後ろに移動する。後ろから首元に手が回され、広く開いたデコルテに大粒の宝石が置かれた。ヌーディーな桜色とゴールドのコンビネーションがとても上品だ。
首の後ろで鶴見中尉が留め具を付けてくれている最中、障子の向こう側から月島さんの声が聞こえた。
「鶴見中尉殿」
「月島か、入れ」
「えっ、ちょっ、ちょっと待って!」
「いいから入れェ」
慌てて障子に背を向けようとするが、鶴見中尉に後ろから、動くなよ、と釘を刺されてしまう。そうこうしている内に障子が開かれ、鶴見中尉と同じスーツ姿で、いつも通りの無表情を浮かべた月島さんと目が合い、その視線が一瞬胸元に移動してから、思いっきり横に逸らされた。今、見ましたね、月島さん。
「…失礼しました」
障子が閉じられた。その後三秒ほど沈黙が続き、廊下の月島さんが、着替えが済んだら呼んで下さい、と障子越しに告げた。
「…あの、もう済んでるんですけど」
「…は?」
「これはこういうものだぞ、月島」
鶴見中尉がからかい半分で背後から声を上げた。どうやら月島さんは、この上にまだ何か着るものだと―つまり、私が下着姿だったと思っていたようだ。顔がものすごく熱い。ネックレスを留め終えた鶴見中尉が、おそらく赤くなっているであろう私の耳を軽く引っ張り、そこに向かって囁く。
「月島がワルツを踊れたらよかったんだがなァ」
「…からかわないで下さい!」
興奮する私を宥めるように肩を撫でた後、鶴見中尉はもう一度廊下の月島さんに部屋へ入るよう言った。障子が再び開かれ、今度は最初から視線を横にそらした月島さんが部屋に入ってくる。
「月島、今日の流れを名前に説明してやってくれ。あと五分程で下に馬車が到着する」
「かしこまりました」
部屋を出て行く鶴見中尉を月島さんは敬礼で見送った。障子が閉まった後も、不自然にあちらを向いたまま私に振り向こうとしない。
「…あの、月島さん?」
「…すみませんが、何か羽織って貰えますか」
もしかして、もしかしなくても、照れてるんですか、月島さん。見られていないのを良いことに、私は溢れ出る笑みを抑えないまま、畳んでおいた長襦袢に袖を通して胸元をぴっしりと隠した。いいですよ、と声を掛けると、月島さんがわずかながらも安堵の表情を浮かべて、ようやくこちらに振り向いた。
立ったまま話すのも落ち着かないので、とりあえず近くにあった座布団に正座すると、月島さんも私の斜め前辺りに畳の上へ直に腰を下ろし、あぐらをかいた。
私は、初めて見るスーツ姿の月島さんをまじまじと見つめる。控えめに言っても最高だ。飾らない短髪に精悍な表情、そして何より、この堅気っぽくない感じがすごく魅力的だ。
「…まず大前提として、鯉登少尉とはぐれないように―聞いてますか?」
「あっ、はい!もちろん!」
「何があっても、鯉登少尉から離れないで下さい」
「分かりました」
「そして、鯉登少尉の指示に従って行動して下さい」
「…はあ」
薬物売買のために開催されるパーティーだ、もちろん警戒しなければいけない事は分かっている。妙に念押しした月島さんは咳払いで一度区切り、さらに話を続ける。
「会場の情報はまったく未知です。招待状に書かれた住所を事前に偵察しましたが、使われていない古い家屋しかありませんでした―恐らくあそこはただの"待ち合わせ場所"です」
「じゃあ、今からその"待ち合わせ場所"に行ってみないと、実際の会場がどこかは分からない、という事ですね」
「その通りです」
月島さんが畳の上のある一点を指差し、そのまま指を横にスライドさせた。
「鯉登少尉とあなたは予定通り招待客を装って正面から潜入、阿片売買が行われている場所を特定して待機。鶴見中尉殿と私は別の侵入経路を見つけて、先に主催者を押さえます」
指を停止させたその地点から、二股に分かれる線を描く様に、畳の上に指を滑らせた。
「その後、合流してから現場を押さえる予定です、が」
枝分かれした二つの線の停止位置を二本指で押さえ、最後にその二つの線を合流させた後、月島さんは視線を自身の指から私に移す。
「本当に、いいんですね」
「…何が、ですか?」
質問の意図が分からず戸惑う。
「旭川の件もそうですが、鶴見中尉殿はどうもあなたに無茶をさせようとする」
先程まで畳に線を描いていた月島さんの人差し指が、私の鼻筋を優しく押した。旭川で作ってきた青あざはもうすっかり薄くなっており、かなり近付いてじっくり見ない限り分からなくなっていた。
「私が言うべき立場ではありませんが…どうして断らないんですか」
月島さんは叱るような、たしなめるような表情でそう言った。
「だって月島さん、女装したくないでしょ?」
「そういう問題では、」
「だから、今日は月島さんのために行くんです」
腰に手を当てて、感謝して下さいね、とふざけた調子で言った。月島さんが一瞬だけ苦しそうに眉を寄せた様に見えたが、またいつもの無表情に戻り、うつむきがちに呟くのだった。
「私に、そんな価値は無いですよ」
この人は、たまにこうやってどこかが痛むような顔をする。その痛みを甘受する事で、きっと何かから目を逸らし続けているのだろう。いつか向き合う時が来るかどうかは私には分からない。でも目を逸らしたいならば、見なくたっていいんです、少なくとも、今は。
「月島さんに、おまじないを掛けてあげましょう」
「いえ、別に結構ですが」
「いいからいいから、目を瞑って下さい」
月島さんが大人しく目を瞑る。私は月島さんの正面で膝立ちになり、おほん、とわざとらしく咳払いをしてから月島さんの両肩に手を置いた。
「痛いの痛いの、飛んでいけっ」
そのちょっと平べったい小さな鼻の頭に軽くキスを落とす。月島さんの表情が視認できる距離まで顔が離れた頃には、その目は既に開かれ、私の目を見ていた。じっ、と見つめ続けられると、なんだかスベってしまったようで気恥ずかしくなってしまい、目を逸らして肩に置いた手を離そうとしたが、月島さんの右手が私の左手首を掴んでそれを阻止した。月島さんは私の左手を顔の前まで移動させて、握った部分をさわさわと撫でた。
「腕飾り、最近着けていませんね」
恐らく私の顔にははっきりと、しまった、と書いてあると思う。旭川でブレスレットを壊してしまった事をまだ伝えていないのだ。ただタイミングを逃しただけであって、わざと先延ばしにしているとかでは、無い。断じて。
「まさか、また壊したんですか」
バレている。私の目が左右に泳ぐのを見届けた後、月島さんはようやく私の手を離して、溜息を吐いた。
「壊したんですね」
「…"壊れた"んです」
「見せて下さい」
すぐ側に置いていた鞄を引き寄せ、中から小さな巾着を取りだす。突き刺さる視線を感じながら、巾着の紐を緩めて壊れたブレスレットを取り出す。無言で差し出された手の平の上にそれを乗せ、事前に用意していた言い訳のセリフを述べる。
「あの、今回はですね、よく見たら留め具の付け根の金具が開いちゃっただけみたいなんです」
「…ああ、本当ですね」
「なので、工具があれば簡単に直りますから」
しかめっ面で金具の部分をいじるの月島さんに必死でアピールしていると、月島さんがブレスレットを見たまま、私に尋ねる。
「何か、細い紐はありませんか」
「細い紐?」
細い紐、と口に出して繰り返しながらぐるりと部屋を見渡す。鏡台の上に髪を結った時に使った白い
「左手を」
月島さんは、差し出した私の左手首にブレスレットを下から巻きつけ、千切れた部分を繋ぐ様にしてチェーンの輪に元結を通し、二度固結びをした。そして私の左手をそっと掴み、まるで手の甲にキスをするかの様にその口元に近付ける。心臓が掴まれた様な感覚が走り、思わず背筋が伸びる。しかし、予想に反してその口は、先程固結びされたばかりの元結の根本近くにかぶり付いたのだった。月島さんは、糸切り歯で紐の根元を固定し、紐の端を強く引っ張って余分な長さを千切り落とした。
「応急処置です」
私は、このときめきが不発に終わった事への落胆と多少の安堵を感じながら、高鳴る胸を落ち着かせようと小さく息を吐いた。遠くから馬の蹄の音が聞こえてくる。馬車はもうそこまで来ているようだ。
「そろそろ行きますよ」
月島さんが立ち上がってズボンに付いた畳の屑を払った。私も続いて立ち上がり、あえて月島さんの目の前で、羽織っていた長襦袢の前を思いっきりくつろげた。ばさり、と音を立てて長襦袢が畳の上に滑り落ちる。月島さんは目を見開いた後、先程と同じように思いっきり目を逸らした。ざまあみろです、月島さん。