Chapter 5: 夏・小樽編
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約一ヶ月ぶりの自宅は、懐かしいような新鮮なような、なんとも妙な感覚である。旭川ではまだ聞かなかった蝉の声が響き、スーツケースの中身を軽く整理しただけで額に汗が滲んだ。若草色の洋服から薄手の和服に着替え、台所へ向かう。
家に着いてすぐに淹れておいたお茶の温度は大分下がったようだ。帰り道に鯉登少尉に買ってもらった氷を取り出し、少し溶け始めたそれを透明のグラスに沢山入れていく。上からぬるくなったお茶を注ぐと、冷茶の完成だ。
お盆に四つ冷茶のグラスを乗せ、鶴見中尉の部屋へと急ぐ。何やら室内が騒がしい。障子を開けると、旭川に現れたという囚人の皮を身にまとった鯉登少尉がバンザイと前屈を繰り返す様に、ひたすら鶴見中尉に向かって頭を下げていた。見え隠れする腹筋が眩しい―おっといけない。鶴見中尉がこちらをちらりと見た。
「名前か、よく戻った」
「予定より早くなりましたが、ただいま戻りました」
畳に膝を突き、座卓の上に冷茶のグラスを並べていく。鶴見中尉はそのお茶に氷が浮いている事に気付くと、上機嫌な笑みを私に向けて言う。
「冷茶か、気が利くな。―その鼻、どうした?」
「…長い話になりますが、聞きますか」
「いや、また今度にしよう」
鶴見中尉はグラスに口を付け、半分程飲み干した。鯉登少尉は壁の方を向いて背を丸めながら軍服を着込んでいる。私はその隙に月島さんの左横にちゃっかりと腰を下ろした。軍服を再び襟まできっちり着込んだ鯉登少尉に、鶴見中尉が話しかける。
「まあいい。鯉登少尉、お前は旭川での任務を外れろ」
この世の終わりの様な表情で畳にへたり込む鯉登少尉は、やはりリアクションが濃すぎる。これでは話が進まない。
「小樽で私の囚人狩りに参加するのだ」
一瞬間が空き、歓喜の表情を浮かべた鯉登少尉がこちらに振り向く。そして、月島さんの横に座る私が邪魔だったのか、私を後ろに突き飛ばした後、月島さんに何か耳打ちした。もう、なんだこれ。
「精進いたします、と言っています」
畳の上に倒れ込んだまま、妙な男を連れて帰って来てしまった、と後悔した。私が座っていた座布団まで奪われてしまい、仕方なく今度は月島さんの右に座ることにした。四つん這いで移動していると、月島さんが自分が今まで座っていた座布団を引き抜いて、右側に置いてくれた。礼を言ってその上に正座する。まだ座布団が温い。先程突き飛ばされて急降下したばかりの私の機嫌はV字回復したのだった。
狭くはない和室で、大の大人が至近距離に三人並んで座る姿はきっと奇妙だろう。鶴見中尉はそんな私達に、座卓の向こう側から話しかける。
「旭川で飛行船に乗っていたのは、間違いなく尾形百之助だったんだな?」
「そうです、間違いありません、あいつです」
私は右手を挙げ、食い気味に質問に答えた。見間違えてなるものか、あの縫合痕、あの人を馬鹿にしたような目を。
「鯉登少尉殿!お願いしますっ」
私の一声で、鯉登少尉が月島さんに耳打ちを始めた。面倒くさそうな表情の月島さんは、耳で情報をインプットしながら、それを小分けに区切りながら口に出して同時通訳する。
「名前さんを人質に取った挙げ句、飛行船から蹴落としたのも尾形です、と言っています」
私は、うんうん、と無言で頷きつつ月島さんの通訳に耳を傾ける。飛行船から落下した後に鯉登少尉から聞いて分かった事だが、あの時の背中の衝撃は尾形が蹴ったことによるものだったのだ。落下中に遠目で見た、片足を上げた尾形の姿が脳裏に浮かぶ―あの男に私は殺されかけたのだ。
「尾形の父である元第七師団長・花沢幸次郎中将の自刃に泥を塗る行為であります、と」
私の聞き違いだろうか、"尾形の父である元第七師団長"と月島さんが言ったのは。聞き返そうにも同時通訳はどんどん先に進んでおり、私だけが話題に着いて来れていない中、話の腰を折る訳にもいかなかった。
「尾形百之助も当然、父君の名誉と第七師団のために戦ってくれると、私は信じていたのだが…」
鶴見中尉が目を伏せて言った。じじん―自刃、つまり切腹。尾形の父親は、戦争責任を被り自害した元第七師団長で、そしてその第七師団を裏切った尾形、という構図をようやく私は理解した。
「尾形の話はここまでにして、」
鶴見中尉が私をちらりと見てそう言い、畳の上に投げてあった新聞を手に取った。折りたたまれたそれを開き、何枚かページを捲った。
「鯉登少尉、ちょっとこっちに来なさい」
呼ばれた鯉登少尉がコンマ秒以下で反応し、一切上体を曲げることなく純粋な足の力だけで正座の状態から垂直に立ち上がると、滑らかに鶴見中尉の真横に腰を下ろした。新聞を覗き込むというよりは、鶴見中尉の顔を至近距離で眺めている。近い。すごく近い。
「網走の脱獄犯・刺青の二十四人のひとり…稲妻強盗が動き出した」
新たな刺青の囚人が、小樽に現れた。月島さんが、刺青人皮をダシにして罠を張る案を提言すると、また軍服の前をはだけさせた鯉登少尉が暴走を始めた。奇声を上げたり、猫の様に畳を引っ掻いたりと、まったく忙しい男である。
「お茶をぶっかけろ月島」
無表情で無介入を貫く月島さんを尻目に、私は自分の冷茶のグラスから氷を一つ摘み上げ、鯉登少尉の軍服と襟首の間に押し込んだ。奇声を上げながら飛び起きた鯉登少尉が、襟元に手を突っ込んで必死に氷を取ろうともがいている。そのままじっとしておいて欲しい。
「そうだ、名前、院長殿には挨拶できたか」
「…ああ、はい。これを預かってます」
和服の胸元から、院長の軍医中佐から預かった洋封筒を引き抜き、座卓の上に乗せて鶴見中尉の前へとスライドさせる。
「よくやった。中は確認したか?」
「はい、でも何のことやら私にはさっぱりでした」
鶴見中尉が、封筒から中のカードを取り出して確認する。黒い目が文字列を追って横に動いた。
「これは刺青の囚人とはまた別件だが」
二つ折りのカードが閉じられ、座卓の上に軽く投げ出された。鶴見中尉の言付けである"次の小樽での会合"に何か関係があるのだろうか。鶴見中尉が演技臭い動きで両腕を斜め上に広げた。
「仮面舞踏会に参加するぞ」
昭和末期の三人組アイドルの、あの曲が頭の中に流れる。いや、恐らくこれじゃない。横に並ぶ二人の男は、ぽかん、とした表情で鶴見中尉を見つめている。
「あの、仮面舞踏会って…"マスカレイド"のあれですか?」
「良く知ってるな、名前」
横の二人の頭上にクエスチョンマークが増える。顔を隠して参加する、中世ヨーロッパの貴族のパーティー・マスカレイド。
「この招待状を受け取った者のみが、いつ・どこで行われるのかを知ることができる」
どうやら院長は招待された客の内の一人らしい。しかし何故、脅しをかけてまでこのパーティーに参加したいのだろうか。
「―舞踏会という名の、
ようやく男二人も合点がいった様で、真剣な表情を浮かべ始めた。
「主催者はイギリス人富豪―香港に輸出する阿片の一部を秘密裏にこちらに流し、北海道の金持ち相手に売り捌いているらしい」
月島さんが少し考え込む様な素振りを見せ、口を開く。
「それで招待制の舞踏会とやらを装っていると」
「そうだ。仮面を着けるのも、招待客同士の素性を明かさないためだろう」
きらびやかなダンスパーティーかと思えば、かなりきな臭くなってきたようだ。しかし何故、鶴見中尉はあの院長が招待状を受け取っていた事を知っていたのだろうか。
「おじさま、なぜあの院長が招待状を?」
「あの軍医中佐が、六月に函館で開催された舞踏会に参加していたという情報を掴んでから、ずっと揺さぶりを掛けていた」
なるほど、それがバレれば大スキャンダルになる。言付けを伝えた時の、あの狼狽え方にも納得がいく。奥の鯉登少尉がまたこそこそと月島さんに耳打ちし始めた。
「僭越ながら、薬物取締及び逮捕は官憲の管轄では、と言っています」
「我々が正義の味方ごっこをしに行くと思っているのか、鯉登少尉?」
鯉登少尉がまた奇声を上げて土下座を始める。鶴見中尉が、そういうところだぞ、と人差し指を立てて溜息を吐いた。
「目的は招待客の名簿及び証拠品の押収だ。これでしばらく投資者には困らん」
ハッハッハ、と鶴見中尉が声を出して笑った。この人を敵に回してしまった院長に少し同情する。
話も一通り終わったようなのでお茶のおかわりを用意しようかと、全員のグラスを盆に乗せていく。立ち上がろうと畳に手を突いた時、鶴見中尉が右手を軽く上げて私に座るよう促した。
「まだなにか?」
「鯉登少尉、名前―お前達には当日、招待客として潜入してもらうぞ」
取り落した盆から四つのグラスが畳の上に落ち、小さくなった氷が四方八方へ畳の上を転がっていく。月島さんが横でさり気なく氷を集めてくれているのが見える。優しい。が、今はそれにほだされている場合ではなかった。
「いや、なんで私が!」
「西洋風の会合だ、
「でも私じゃなくてもいいですよね!?」
「だそうだ月島、女装して鯉登と潜入しろ」
「無理があります、鶴見中尉殿」
流石に月島さんに女装させる訳にはいかない。しかし鯉登少尉と二人でダンスも、もう正直避けたい。"あれ"は寝言という事になっているので、もちろん普通に接しているつもりなのだが、あの夜以降どうしても意識せざるをえないのだ。先程から妙におとなしい鯉登少尉をちらりと盗み見ると、こんな時に限って平気な顔で正座していた。
「あ!そうですよ、月島さんと私が潜入するなんてどうですか?」
「月島、ワルツは踊れるか」
「ワルツとは何でしょうか」
ダメだ、全然ダメだ。鶴見中尉がにこやかに、もう行っていいぞ名前、と言いながら、シッシッ、と私に向かってジェスチャーをした。月島さんが一箇所にまとめておいてくれた氷を両手で掬って盆に乗せる。更にグラスもすべて乗せ、私は小走りで部屋を後にした。ようやく小樽に戻って来れたと思ったら、こんな仕打ちが待っているとは微塵も考えていなかった。
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鶴見中尉は名前の足音が遠ざかるのを待った後、部屋に残った二人に向き直り、先程とは打って変わった低い口調で話し始める。
「六月の舞踏会以降、函館周辺で十数名の遊女と若い一般人女性が不可解な失踪を遂げている」
座卓の上の招待状に再度手を伸ばし、筆記体で書かれた文字列を人差し指でなぞる。
「それは…本件と関連性が?」
「調査はさせたが証拠は出なかった。もちろん偶然の可能性もある、が」
鶴見中尉は月島軍曹の質問に軽く首を振って答えた。そして両手すべての指先同士を合わせてしばらく考え込むような仕草をした後、視線を月島軍曹に戻す。
「因果律がそこまで横着するとは思わん」
その一言で、月島軍曹は何故鶴見中尉がわざわざ名前を会場に潜入させるのかを理解し、閉口せざるを得なかった。鶴見中尉が鯉登少尉に視線を移す。
「"餌"から目を離すなよ、鯉登少尉」