Chapter 4: 旭川編
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軍刀片手に人間ピラミッドをよじ登り、その頂点で思いっきり踏み込んだ鯉登少尉の手は、浮上を始めた気球の足場の端を辛うじて掴んでいた。私はそちらに移動しようと足を踏み出すが、尾形が私の前で通せんぼする。器用によじ登った鯉登少尉が、尾形の肩越しに私を見た。
「名前さん、何でここにッ―その顔どうした!?」
私の顔がどうかしているらしい。自分の両頬をペタペタと触って確認するが、特に何も付いていない。目の前で私を見る尾形が、ニヤニヤしながら口を開いた。
「鯉登少尉にも唾付けてたのか、尻軽女」
この男はどこまでも私の事が嫌いらしい。むしろ私を罵倒する事に執着していると言っても過言ではない。思いっきりその黒い目を睨みつけると、馬鹿にしたように鼻で笑われた。
「鼻血垂れてるぞ」
急いで鼻の下を擦ると、まあまあな量の血が指に付いていた。絶対に尾形に放り投げられて地面に顔を打ったせいだ。この男、一生許さない。杉元に銃剣を渡すため、こちらに背を向けた尾形の外套の端を掴み、乱暴に鼻の下を拭ってやった。肩越しに私を軽蔑の目で振り返る尾形のフードがはらりと落ちる。
「尾形百之助、貴様…」
鯉登少尉は、ようやくこの男が尾形だという事に気付いたようで、早口の薩摩弁で何かを捲し立てた後、杉元に向けてその軍刀を振りかぶった。尾形がとっさに、受けるな、と叫んだが、杉元が掲げる小銃に軍刀がぶち当たり、その小銃が杉元の額を直撃する。バランスの悪い足場から落ちそうになる杉元を見て、私は看護婦としての使命と、鶴見中尉に与する人間としての使命を天秤に掛けていた。看護とは、博愛の心である。敵・味方関係なく、命あるものを全力で守る。それが看護婦の役目なのだ。
杉元は胸に銃弾を受けている―血痕に位置からして、胸に二発。その状態でここから落ちれば命は無いだろう。放っておいたとしても、鯉登少尉が殺してしまうかもしれない。じり、と足が無意識に動くのを感じる。尾形の肩を押し退け、細い足場の上を一歩ずつ進み、杉元の方へ近付いていく。何故か尾形は私を止めなかった。
鯉登少尉の視界にそんな私の姿が入ったのか、彼は振り上げた軍刀を一瞬ためらったように止めた。困惑と憤怒が入り混じった視線が私を貫いた。私は負けじと見返し、声を上げる。
「私はッ、看護婦です!」
その瞬間、背中に強い衝撃を感じ、またあの重力変化の感覚を味わった。ぐるりと下向きに回転する視界に目を見開く。私は落ちている。
すべての情報を処理するには時間が足りないが、この切り取られた一瞬の光景を写真の様にして脳内に保存する。上空には気球、足場の上で片足を上げる尾形、膝をついたままの杉元、弛んだ縄の先に白石、そしてその白石によって吹っ飛ばされ、宙に浮く鯉登少尉。
私は落ちていく。来たるべき衝撃に備えて目を瞑ることにした。その衝撃の後には、きっともう何も感じないだろうから、今の内にあの人に話しておこうと思う。ああ、こんな時に限って、私、あのブレスレット着けてないんです―就業規則だから、仕方ないですよね、お墓には、あれも一緒に入れて下さい、そしてどうか、悲しまないで下さい、ね、月島さん。
ぐい、と左手首を握られ、引っ張られる感覚がした。上体と顔に何かが当たっている。薄っすら目を開けると、真っ白の何かが見えた。その瞬間、激しい衝撃にもう一度目を瞑る。何度か体に同じ様な衝撃を受けながら、落下が止まった。少なくとも意識はあるが、もしかしたら死んだかもしれないし、死んでないかもしれない。死んだことがないから分からないのだ。
地面が速いリズムで上下している。これは、何だ、これは、人間の呼吸だ。目を見開くと、先程見た白が再度視界に広がる。並ぶボタンに沿って顔を上げていくと、"27"の数字が見えた。これはもしや、軍服?
「…生きちょるかあ、名前さん」
鯉登少尉が、喋った。
「…生きてます、たぶん」
「…よう邪魔してくれたな」
鯉登少尉がごそごそと軍服の胸ポケットを漁り、一枚の写真を取り出した。それに何が写っているかは、私からは見えない。自分の体の下敷きになっている左手を見る。上空で掴まれた感覚のあったその左手首には、再び留め具の壊れたブレスレットが引っかかるようにして巻かれていた。まずい、また壊してしまった。でも、どうしてこれがここに。
鯉登少尉が溜息を吐き、体の下の胸が急に下がった。私だって溜息くらい吐きたい。だって、
「月島さんに叱られる…」
「鶴見中尉どんにがられる…」
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スピードを落とした汽車が小樽駅のホームに滑り込む。私は立ち上がって網棚のスーツケースに手を伸ばす。ハンドルを握って手前に引くが、重いスーツケースはびくともしない。正面の座席に足を組んで座ったままの鯉登少尉に無言で視線を向けると、なんだ、とぶっきらぼうに返される。
「鞄、下ろして貰えませんかね」
鯉登少尉がろくに返事もせず立ち上がる。網棚からスーツケースを軽々と持ち上げ、座席の上に下ろすだけ下ろして、さっさとデッキの方に歩いていってしまった。
「…まだ怒ってんの、あの人」
それはもう、怒っていた。結果的に私が白石確保の邪魔をしたかたちで終わったからだ。座席の上に放置されたスーツケースを両手で持ち上げ、私もデッキへと向かった。
甲高い音を発しながら汽車が完全停止し、私と鯉登少尉はホームへと降り立つ。白石の一件があったせいで、予定を一ヶ月早めて小樽へと帰ってきたのだ。スーツケースに何度も膝をぶつけながら、必死で鯉登少尉の背中を追う。彼は歩調を緩めもしなければ、こちらを振り返りもしない。
鯉登少尉が突然立ち止まった。下を向いて歩いていた私は、その背中に思いっきり顔、特にまだ青あざの消えない鼻筋をぶつけた。鯉登少尉の背中から顔を出して前方を確認する。
「月島さん!」
敬礼する月島さんの軍服が衣替えされている事に気付いた。鯉登少尉が着ているものとデザインはよく似ているが、月島さんのものはカーキだ。濃紺の冬服もシャープな印象で素敵だが、この夏服は屈強な陸軍兵のイメージを増長させている。
私の熱い視線に気付いた月島さんが軽く会釈してくれる。こちらに一歩近付き、お持ちします、と小さく言って、私が持つスーツケースへと手を伸ばした。上がる口角を隠そうともせず、ほらしっかり見ときなさい鯉登少尉、こういうところですよ、という視線を鯉登少尉に送ると、肩越しに眉をひそめる彼と目が合った。途端、何故か鯉登少尉は私の手元からスーツケースを奪ったのだった。
「…は?」
「鯉登少尉殿、私が持ちます」
月島さんがそう声を掛けてから手を伸ばすが、触るなァ、と大声を上げた鯉登少尉は即座にスーツケースを持つ手を背中側に隠し、言う。
「いい、私が持つ!」
じゃあなんで最初から運んでくれなかったのか。一人で歩き始めた鯉登少尉の背中を呆然と眺めていると、急に月島さんが、指先で私の鼻筋にそっと触れた。
「あいたっ…」
「あ、すみません。汚れているだけかと思ったんですが」
焦ったように手を離す。まさか妙齢の女が顔に痣を作って帰ってくるとは思っていなかったのだろう。でももう今ので治りましたから、もっと触ってもいいんですよ、月島さん。
「…何で笑ってるんですか」
「ふふふ、ただいま戻りました、月島さん」
「…おかえりなさい、名前さん」