Chapter 4: 旭川編
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「それで今週末外出禁止になったの?」
ヤエちゃんが笑い半分でそう言った。積まれた木箱の中から医療用具を取り出し、手元のリストを基に仕分けしながら籐製の大きな箱に端から詰め込んでいく。そうです、門限破りはもちろんバレました。
翌朝物音に気付いて目を開けると、管理人のおばさんが私を仁王立ちで見下ろしていた。彼女は当日午後九時に私がまだ戻っていない事を確認した後、玄関の鍵を閉め、玄関すぐ横の管理人室に戻った。私が帰宅した際ドアに鍵が掛かっていることに気付けば、すぐ管理人室の窓をノックするだろうと考え、朝まで寝たり起きたりを繰り返していたらしい。結局朝までノックは鳴らず、気になって再度部屋を見に行ってみれば、ちゃっかり寝ている私を見付けたという流れだ。そして、門限破り及び戸締り義務不履行の名の下に、私は今週末限り外出禁止を言い渡されたのだった。
「それにしても窓から入るなんて。一人で帰ってきたの?」
「…うん、一人だよ」
飲み過ぎて調子に乗った私が全面的に悪い。どんなに健全に楽しい時間を過ごそうとも、男友達に"隙"を見せ過ぎてはいけなかったのだ。心に決めた別の人がいる時は、尚更。あの時、月島さんの名前を口走らなければ、鯉登少尉はあのまま―これ以上は考えない方が良い。頭を軽く振って思考を払い落とした。
「名前ちゃん、そっち終わった?」
「あと消毒液が四本だけ」
ヤエちゃんが近くの木箱から茶色いガラス瓶を四つ引き抜き、胸元に抱えてこちらに歩いてくる。一本ずつ順番に受け取って籠の端に押し込める。
「ありがと、じゃあ早速行きますか」
「歩兵第26聯隊と、第27聯隊…ここだね」
「…端っこじゃん」
通常業務にも看護婦内のヒエラルキーは確実に影響しているようだ。別紙の見取り図が指し示す、この病院から一番遠い場所にある二つの聯隊兵営に、この籠を届けなければいけないようだ。
衛戍病院に入院してる兵士や、ここで働く衛生兵・軍医と関わりはあるものの、私達看護婦が師団通を隔てたその向こう側―つまり兵営内部に入ることは通常禁じられている。実は今回が、その初めての例外なのだ。
衛生兵から聞いた風の噂では、最近兵士たちが軽傷を負う件数が急激に増え、各聯隊の兵営内にある医務室の備蓄がかなりの勢いで消費されているらしい。原因はどうやら、私達・看護婦にあるらしかった。
「わざと殴り合いして数針縫うくらいじゃ病院には来れないって、何で分かんないかな」
「そこまで女に飢えてるのかな」
「え、ちょっと行くの怖くない?」
次回の物資納入はかなり先らしく、急遽衛戍病院の予備備蓄を各医務室に分ける与えることになったのだ。大きな籠を一つずつ抱え、私とヤエちゃんは倉庫を出た。
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第27聯隊の医務室に最初の籠を届け終えた私達は兵営内の通路を歩き、隣の敷地―第26聯隊兵営に入る近道を探していた。似たような木造二階建て建築ばかりが立ち並ぶ兵営内ではすぐに方向感覚が狂ってしまう。ヤエちゃんが近くを歩いていた兵士に声を掛けると、彼は分かりやすく目を逸らしながらある一方を指差し、会釈をして駆け足で去っていった。私はその様子をにやにやしながら見ていた。
私達はその兵士が指し示した方向に向かって歩みを進める。第26聯隊に届けるもう一つの籠を持つヤエちゃんに、持つよ、と声を掛けるが断られてしまったので、手持ち無沙汰に回りを見渡す。
すると一瞬、背後の木々に生い茂る葉の中で、何かが反射してキラリと光ったのが見えた。
「…?」
「どうしたの名前ちゃん」
「ヤエちゃん、ちょっと先に進んどいて、すぐ追いつくから」
「え、別にいいけど…?」
私はその場で立ち止まり、ヤエちゃんが建物の角の向こうに消えていくのを見送った。振り返り、先程光った木の真下に歩いていく。枝々の隙間から軍靴と白い脚絆が見えた―誰かが木の上に居るらしい。上半身を確認しようと左に二歩移動した所で、木の上の人物から声が掛かった。
「お前…鶴見名前か?」
双眼鏡を顔の前に構えたまま視線だけで私を見下ろすその男の顔には見覚えがあった。いや、見覚えがあるどころの話ではない。その両顎の縫合跡を、一体誰が毎日消毒してあげたと思ってるんだ。
「尾形、百之助…」
尾形はすぐに双眼鏡へと視線を戻し、めんどくさそうな声で私に言う。
「撃たれたくなかったらさっさと消えろ」
「…よくもそんな口が聞けますね!」
この男は裏切り者だ。ここで逃してはならない。誰かが通り掛かるまで、ここで引き止めておくことはできるかもしれない。
「ここで一体何してるんですか」
「…」
「またこそこそと味方の背中を撃つつもりですか」
尾形が馬鹿にしたように鼻で笑う。
「裏切り者はお前らの方だろう」
「二階堂一等卒に、よくもあんな酷い事ができましたね」
「…あれは俺じゃない、熊だ」
病院で見た二階堂一等卒のカルテを頭に思い浮かべる。頭部の裂傷、及び両耳介の欠損。
「…熊が両耳を食べたって言うんですか」
「耳?知らねえなぁ」
「あなたが情報を吐かせるために、拷問したんじゃないかって聞いてるんです」
尾形が再び双眼鏡から両目を外し、無表情で私を見下ろした。
「二階堂はそもそも俺と一緒に造反したんだぜ」
「…は、あ?」
「その後鶴見中尉に捕まったが」
そう言った後尾形は手を顎に遣り、一瞬考えるような仕草をしてから、ははっ、と笑って私に目を向けた。
「その耳とやら、鶴見中尉の仕業だろうな」
「…!」
「見せしめだか何だか、俺には知ったこっちゃねぇが」
動悸が止まらない。鶴見中尉が、おじさまが、まさか。どうせこの男の口から出任せに違いない。違いないのに、全てに説明が付くのは何故だ。夕張で二階堂一等卒が私に言った、その内分かる、とは、そういう意味だったのか。
ふと尾形が私の背後更に奥に視線を移し、双眼鏡をそちらに向かって構えた。慌てて私も振り返ると、見覚えのある白い士官服の男が猛スピードで奥に見える門の中へ駆け込んで行くのが見えた。
「まずいぞこれは」
今のはもしかしたら、鯉登少尉かもしれない。彼に伝えなければ、尾形がここに居る事を。建物に向かって走り出そうとした瞬間、後ろから声が掛かる。
「おい舐めてるのか、良い的だぞ」
尾形が私に銃口を向けていた。私の魂胆はもちろんバレているようだ。大人しく立ち止まり両手を肩の高さに上げると、尾形は銃口を下ろして再び双眼鏡を建物の方に向けた。
「…さっさと消えろって言ったのはそっちでしょ」
「うるさい」
このまま尾形が双眼鏡を構え続けていれば、真下の私は死角のはずだ。音を立てない様にゆっくりじりじりと後ずさりを始めた私だったが、急に鳴り響いた二発の銃声に、足を止めざるを得なかった。
尾形は双眼鏡から手を離し、直ちに奥の建物に向かって小銃を構えた。何かが起ころうとしている。あの建物と反対方向に逃げれば、尾形は私を見逃すだろうか。そうすれば、この男を逃がすことになってしまう。考えあぐねている内に、更にもう一発の銃声が鳴り響き、建物の二階の窓から二人の男が窓を突き破って転がり落ちるのが見えた。
「な、なんなの…?」
直後、木の上の尾形が発砲した。初めて近距離で聞く発砲音に私の足がすくんでる隙に、尾形は軽々と木から飛び降りて小銃を背負う。そして私を見遣り、ニヤリ、と笑った。いよいよ嫌な予感しかしない。
「名前さん、ちょっと借りるぜ」
尾形は後ずさりする私に大股で詰め寄り、そのまま米俵を運ぶ様に肩に私を担ぎ上げた。反動で勢いよく頭が下がり、私の帽子が地面へ落ちた。
「ちょっ…下ろしてっ!どこ行くんですかっ!」
「舌噛むから黙ってろ」
走って移動を始めた尾形がどこに向かっているかは、後ろ向きに担がれている私にはまったく見えない。尾形に背負われた小銃が、私のすぐ近くで揺れている。喉が、ゴクリ、と鳴った。
「杉元、コッチはダメだッ―南へ逃げろ」
尾形がそう叫んだ。今、"杉元"と言った?前を確認しようとして上体を捩ると、急にお尻に鋭い痛みが走った。尾形に抓られたのだ。
「いっ…たあ!このっ―変態野郎!」
「動くな、放り投げるぞ!」
尾形が方向転換したおかげで、私はその"杉元"と呼ばれた男の姿をようやく確認することができた。頭を丸めた男が、上半身を血まみれにした男を支えながらこちらに走ってくる。どっちが"杉元"だろうか。二人を見比べていると、頭を丸めた方の男と目が合った。
「オイ尾形ッ、この看護婦さんどうした!?」
「弾除けだ!後で杉元の手当をさせりゃあいい」
杉元の手当ということは、この負傷した男がどうやら"杉元"のようだ。支えられながら荒い息で走り続ける男を睨みつけるが、さすがにこちらの視線に気付く余裕はないようだ。代わりに隣の男が、厭らしくにやにやしながら反応する。
「看護婦さんッ!すみませんねえ、この男が乱暴にっ」
「やめとけ白石、こいつは鶴見中尉の親族だ」
白石と呼ばれた男は、目を見開いて私の顔をさらにまじまじと見つめた。
「なッ―鶴見中尉の!?」
「あと月島の"お手つき"だ」
毎日病院まで月島さんに迎えに来て貰っていたことを、尾形は何故か知っているらしい。白石と呼ばれた男が、月島ってあの夕張の、と荒い息に乗せて呟いた。それにしても、月島さんの"お手つき"とは…けしからん表現である。
「お、お手つきって…!」
「喜ぶな変態女」
かなりの距離を走ってきた私達は、建物が密集するエリアを抜けて練兵場の一角に辿り着いた。大分息が上がってきた男達だったが、急に、何だありゃあ、と大声を上げた。また身を捩って前を見ると、大きな白い"何か"の端が視界に映る。
「気球隊の試作機だ!」
「あれだッ、あれを奪うぞッ!」
急に、体に掛かる重力が乱れる感覚を味わった。尾形によって勢い良く地面に放り投げられた私は顔から着地した後、横向きにごろりと一回転して止まった。土で汚れた白衣の裾が視界に入る。痛みと衝撃で体が動かず、そのまま寝転がったまま耐えていると、尾形が私の腕を乱暴に引っ張り、無理やり立たされた。
「白石!その女を持ってろッ」
「喜んで!」
白石が私の左腕を取ってしがみつくように身を寄せてくる。右側からは、フードを被った尾形が私に小銃の銃口を向けていた。
そのまま引きずられるように気球に向かって走る。気球の傍で作業をする兵士達に向かって、尾形が大声を上げる。
「全員下がれッ!この看護婦を撃つぞ!」
もう嫌だ。こうなるくらいなら、あの時素直に退いていれば良かった。鼻の奥が熱くなり、視界がじわりと滲み始める。脚が震えて、今にも膝が崩れ落ちそうだ。ぶつけた鼻も痛いし、もうなにもかも嫌だ。今すぐ小樽に帰りたい。月島さん、助けて。
床板さえ張られていない枠組み部分に押し上げられる。エンジンを始動させる兵士に注意を向けている白石の目を盗み、私はどうにか逃げようと四つん這いのまま後ずさるが、杉元が目ざとく私の様子に気付き、こちらに銃口を向ける。鋭く私を睨む杉元だったが、次第にその表情に罪悪感が滲み始める。
「悪いが、大人しくしててくれ」
私は何も言えず、浮上を始めた気球の枠組みにしがみつくしかなかった。白石はエンジンを見ていた兵士を下に蹴り落とし、尾形と杉元に気球に乗るよう叫んだ。
遠ざかっていく地面を眺める。私はこのまま連れ去られるのか。練兵場の奥に見える建物の方に視線を遣ると、男が一人こちらに向かって全力疾走しているのが見えた。あの士官服―やはりさっき兵営内で見たのは鯉登少尉だったのだ。肩を上げて大きく息を吸い込み、渾身の音量で叫んだ。
「こいとしょおおおいいぃぃーーー!!」