Chapter 4: 旭川編
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喧騒に耳を傾けながら取り留めのない話を続けていた二人だったが、時間が経過するにつれてまわりの客も酒が回ってきたのか、声の音量が上がってくる。漏れなく二人の血中アルコール濃度と声のトーンも最高潮を迎えていた。半ば怒鳴り合う二人の口調もどんどん簡潔になっていく。
「だ・か・ら!『Invitation』ですってば!」
「はぁ!?聞こえん!」
鯉登少尉は椅子に座ったまま、ガタガタと椅子の脚を引きずって名前の横に移動する。テーブルの上には氷だけになった空のグラスが四つ置かれている。名前が近くなった鯉登少尉の耳元に向かって大声でもう一度話しかけた。
「インビテーション!招・待・状!」
「が、なんだ!」
「だからさっき説明したでしょーが!院長から預かったんです!」
「…はぁ?」
「…ぶっ」
鯉登少尉の、訳わからん、という顔が妙にツボに入ったのか、名前は不躾に吹き出した後テーブルに顔を伏せて笑い声を上げた。
「何がそんなにおもしろい!?」
「あはははっ、…はー!顔!ぶふっ」
名前は笑いが引いた頃に上体を戻すと、ちょうど鯉登少尉が胸ポケットからたばこのソフトケースを取り出すところだった。横向きにしてケースを軽く振って飛び出た一本を指先でつまみ出し、口に咥えた。
「たばこ吸うんですね!」
「吸わん奴はおらんだろう!」
もごもごした声で言いながら、鯉登少尉は人差し指で灰皿を引き寄せると、その中からマッチを取り上げ、慣れた手付きで火を点けた。名前はその一連の動作を神妙な目付きで眺めた後、はっとした顔で大声を出した。
「月島さんも吸うんですか!?」
なんかおもしろくない、とぼんやりする頭で鯉登少尉は思った。
「…知らん」
「聞こえません!」
「知・ら・ん!」
宙を見つめて口元を緩める名前から目を逸らして、鯉登少尉は煙を吐き出した。一体月島軍曹の何がそんなに良いのか、について考え込んでいると、名前が指に挟まれた吸いかけのたばこを興味深そうに見つめていることに気付き、鯉登少尉は彼女に視線を戻した。
「なんだ」
「一口ください!」
眉をひそめる鯉登少尉から吸いかけのたばこを指先で受け取った名前は、口にそれを挟んで恐る恐る吸い込む。たばこの先に灯る鮮やかなオレンジが強くなり、ジジジ、と燃えるような音を立てた。はぁ、と煙を吐き出しながら、彼女の表情が苦々しいものに変わっていく。
「…ぺっ、きっつい」
「慣れんことをするからだ」
名前の指に挟まったたばこを、ひょい、と取り上げ、鯉登少尉はそのまま自分の口に運んだ。名前はぺろりと舌先を出し、口の中に入ったたばこの葉を指先で摘みとってから、グラスに残っていた偽・電氣ブランデーを一気に飲み干した。
「あんまり飲みすぎるなよ」
「もう薄まってるからだいじょうぶですよぉ」
ここで、何故か周りの客が一斉に椅子から立ち上がって壁際に移動し始めたことに気が付いた二人は、不思議そうに辺りを見回す。飲み物が残されたままのテーブルを数名の店員達が壁際に寄せ始めた。二人が掛ける席に店員が近付き、失礼!、と大声で言ってから、勝手にテーブルを動かし始めた。
「えっ、なんだろう!?」
「おお、演奏が始まるぞ」
鯉登少尉が指差す先には、クラシックギターを抱えてピアノの横の椅子に腰を下ろす男性と、ピアノの蓋を開くもう一人の男性の姿があった。彼らは指を慣らすように何度か和音を合わせた後、そのまま楽譜も用意せず明るいアップテンポの曲を弾き始めた。
先程隣のテーブルに座っていた若いカップルが、手を繋いで部屋の真ん中に躍り出た。二人は向かい合って手を取り合い、右に左に、簡単なステップを取る。壁際にもたれる男達から口笛やからかうような野次の声が飛ぶ。そしてもう一組の男女が躍り出て、さらに酔っ払った若い男同士がはしゃぎながらダンスフロアに転がり込む。
名前は横に立つ鯉登少尉をちらりと見上げる。抱きつき合いながらふざけて踊る男達を眺めながら、馬鹿かあいつらは、と楽しそうに笑っていた。名前は彼の指に挟まったままのたばこを急に取り上げ、背後にある誰かのテーブルの灰皿に押し付けた。
「おい、なんだ急に!」
「私達も行きましょう!」
はぁ?、というあの表情に再度吹き出しながら、名前は鯉登少尉の手首を掴んでダンスフロアへと引っ張り出す。やめろ、引っ張るな、と抗議の声を無視して部屋の真ん中まで辿り着くと、名前は鯉登少尉と向かい合って彼の両手を取り、それをぶらぶらと左右に振りながら、同じリズムでステップを取り始める。
「プッ、なんだその鈍臭い足は!」
「うるさいなぁ、適当ですよ!」
ムッとして言い返した名前を鼻で笑った鯉登少尉だったが、右手を一度振りほどいて詰襟のホックを外してから一歩前に近付き、名前の背中を支える様に右手を置いた。握った左手を肩より少し上の位置まで挙げて、軽く肘を伸ばす。そのまま素人丸出しのステップを踏む名前をリードするように左右へ動き始めた。
「すごいすごい!上手ですね!」
「次で回れよ、一、二っ!」
左手が、ぐい、と持ち上げられ、鯉登少尉の右手がターンを促すように名前の背中を押した。名前はくるりと片足で回った後、よろめきながら鯉登少尉の前に戻ってくる。
「回っちゃったっ!」
「下手くそが!」
楽しい音楽に、騒がしい喧騒、酔っ払い共が踊る、踊る。
現代の一般家庭に生まれた名前にとって、家の名を背負うことや、この時代の女性として期待される役割や立ち振舞いを続けることは、想像していたよりも過酷なものだった。どこかでその役柄を演じ損なうことがあれば、それはこの時代で生きていく術を失うことと同義だからだ。
小樽に戻れば、彼女はまたその役柄に戻らなければならない。遠く離れたこの旭川の地で、名字名前に戻る"隙"を作ったのは、偶然にもその役柄を演じる名前の姿しか見えていなかった筈の男だった。
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旭橋を越えてしまえば、師団通りを歩く人の数はうんと少なくなった。数名の兵卒が肩を組みながら千鳥足で帰路に着く。辻馬車に揺られる鯉登少尉はあくびを噛み殺しながら、上体を座席の上に倒して居眠りする名前をちらりと見遣った。
馬車が静止する。下宿前に到着したのだろう。鯉登少尉は名前の腕を掴んで引っ張り起こし座った状態にさせた。名前は薄目を開けるが、二の腕から鯉登少尉の手が外れた瞬間、また座席の方に倒れ込もうとする。
「名前さん起きろ、下宿に着いたぞ」
肩を掴んで強めに揺さぶるが、まるで反応が無い。知らんぞ、と内心悪態を吐く鯉登少尉だったが、曲りなりにも鶴見中尉から彼女の面倒を見るよう頼まれている身。名前の上体を再び起こさせ、彼女に背中を向けた状態で後ろ手で腕を引っ張って、彼女の上体を自分の背中にもたれさせる。
足で馬車の扉を開き、名前の両膝の裏を持ち上げてから地面に飛び降りる。一度軽く飛び上がって背中の積荷のバランスを整えた後、御者にここで待つよう伝えた。
幸運にも入り口の門は鍵がかかっていなかったが、流石に玄関の扉は堅く閉ざされているようだ。鯉登少尉がなるべく音を立てないようにドアノブを引いて確認していると、背中の名前が弱々しく腕を上げ、建物の裏へと続く小道を指差した。
「あっちか?」
「…まど、あけてるんで…」
名前はそう言い終えるなり腕をばたりと下げた。恐らく自室の窓のことを言っているんだろう。
「最初から門限破るつもりだったのか」
鯉登少尉が小声で話しかけるが、返事は無いようだ。
指し示された方に歩いていく。玄関がある面のちょうど真反対に差し掛かった所で名前がもう一度腕を上げ、縦に長い窓を指差した。僅かに開いている両開きの窓を手前に開き、片腕で背中の名前を支えながら窓枠に足を掛た。
軽く勢いをつけて飛び上がって土足のまま室内に着地する。灯りのない室内だが、窓から差し込む明るい月の光で、どこに何があるかは大体把握できた。鯉登少尉は右側の寝台に名前を下ろす。ギシリ、と木枠が軋み、名前が、ん、と小さく声を漏らした。
「名前さん、起きてるか」
返事はやはり無く、一定のリズムで繰り返される呼吸音だけが小さく部屋に響いていた。
鯉登少尉は片膝を寝台の上に乗せ、仰向けで寝転ぶ名前の上に覆いかぶさるようにして片手を枕の横に突いた。もう片方の手で口の端に掛かった名前の髪を払いのけると、そこに向かって自分の顔をゆっくり近付ける。寝台がもう一度軋んだ音を上げた。
鼻先が当たるか、という頃に、名前が眉を寄せながら軽く唸り声を上げ、小さく呟く。
「……ん、つきしま…さん…」
鯉登少尉は、近付ける顔をピタリと止めて、すぐに上体を起こした。何も言わずに寝台から下りると、入って来た時と同じ様に窓枠に足を掛けて外に飛び下り、外から窓を閉めた。
遠のいていく足音が完全に聞こえなくなった時、名前の目が薄っすら開かれ、一度まばたきをした後また閉じられた。