Chapter 1: 導入編
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火鉢というものを初めて見た。いつか校外学習で訪れた資料館かどこかで展示品として見かけたことはきっとあるのだけれど、実際に炭を入れ、温かい状態で使用されているのは妙に感慨深い。私はこれからどうなるんだろうか。
薄いナイロンのシャツ一枚では、たとえ火鉢の真横に陣取っていても、真冬の明朝はさすがに堪える。先程這い出てきたばかりの掛け布団を引っ張って、肩に掛けるようにして包まった。
おそらく数時間しか眠っていない。目が覚めた時、これはたぶん夢じゃないという昨夜の感覚がさらに強まったことに気付いた。
私をこの家に連れ帰ったあの額当ての男ー鶴見中尉は、予想に反して、あれから私のことについて質問してくることはなかった。本人が宣言した通り、あくまで紳士的に私を馬車に乗せ、自分の名と階級を名乗り、手を取って馬車から下ろし、この部屋に案内しただけだった。一分も経たない内に、お年を召した女性が三指を突いて襖を開け、寝間着と布団の用意しに来てくれた。用意された柔らかな絹の寝間着は、大学の卒業式で肌着として着けた長襦袢によく似ていたが、きちんとした着方がわからないので、肌触りと楽しんだ後枕元に戻した。それにしても、あのお手伝いの女性は妙なことを言っていた。私のことをお嬢様と呼び、英国での暮らしはいかがでしたか?と尋ねてきた。おそらく鶴見中尉が嘘をついたのだろう。
この炭は、あとどれくらい燃えるのだろうか。一酸化炭素中毒にならないのか。何事も他人事に思えてくる。ぐるぐる色んな事を考えた後、すべては一つの疑問に返ってくる。私はこれからどうなるんだろうか。
灰の下に透けるオレンジ色をぼうっと見つめていると、廊下で物音が聞こえ、足音がこちらに近付いてくる。あの男だろうか?今は身構える精神力がない。目線だけを炭から襖に移すと、襖の向こうから、失礼するよ、と男の声がしたので、どうぞ、とだけ短く答える。襖が開かれ、鶴見中尉がそのまま入ってくる。
「よく眠れたかね」
「わかりません」
視線を炭に戻す。普段であれば耐えられないであろう沈黙が続くが、気を遣って話題を提供するサービス精神などもうとうにない。中尉は火鉢から少し離れた位置で畳の上にあぐらをかいた。
「名字名前さん、君は占いを信じるたちかい?」
この男、分かってはいたがまじで突拍子がない。朝っぱらから勘弁してほしい。昨晩一生分動揺しつくした私に恐れるものなどもうないと、ある意味高を括っていたのだが、この人の奇妙さはさらに上を行くらしい。
「二日ほど前に、市中で急に占い師の老婆に呼び止められてね。なんでも”幸運をもたらす女が時を超えてやって来る”のが見えたそうだ」
突拍子もないだろう、と声を上げて男は笑う。もう一度心の中で言う。突拍子がないのはあなたの方だ。火箸で炭を突付く。
「占いを信じるタイプには見えませんが」
「タイプ?英語かね?」
「そうです。で、どうしてそんなおとぎ話みたいな事を信じるんですか」
「占いを信じた訳ではないんだがね。君の持ち物や服を見て、科学では証明されないことがあるということを目の前に突き付けられたら、それを受け入れる以外ないだろう」
座ったまま腕を使って畳の上を滑るように近付いてくる。どれ、貸してみなさい、と私が持っていた火箸を奪い、灰を被った炭を揺らしたり角度を変えたりしている。オレンジ色が濃くなり、パチリと音を立てた。
「君は今日から私の従姪だ。英国留学から帰国したばかりの、世間知らずのお嬢様を演じてもらう。私が責任を持って面倒をみてあげるから、心配しなくてよろしい」
炭を調整を続けながら、中尉は優しい調子で話す。
「自分の本当の身分を、誰にも漏らしてはいけないぞ。君の所持品、知識、存在そのものが最上級機密ということを理解しておくように」
火箸を動かす手を止め、ゆっくりと火箸の先端を私の顔の方へ向ける。炭火で熱せられた鉄の棒は私の鼻の寸前で止まった。中尉は変わらず上機嫌な表情のままで続ける。
「それまでは、君の身の安全は私達が保証しよう、鶴見名前さん」
私は膝の上で拳を握りしめることしかできなかった。私はこれからどうなるんだろうか。
私のしおらしい反応に満足したのか、中尉は火箸を下げると火鉢の端の方に突き立てた。畳から立ち上がり、私の左肩をぽんぽん、と優しく二回叩いた。
「着物を持って来させるから、支度をするように。その洋装は少し目立つからな。それが終わったら居間で朝食だ。」
か細く、ありがとうございます、と呟いた私を確認してから、男は襖の方へ歩いていった。
「おっと、すっかり忘れていた。一つ質問があってね」
芝居がかった口調で振り向き、口の端を釣り上げて笑う。
「君ィ、月島軍曹のことを、どう思うかね?」
火鉢に面した顔と体の前面はジリジリと熱く、布団の下では背中に特大の寒気が走った。この男には人の弱みを見抜くなにかセンサーのようなものが備わっているらしい。握りしめた拳がビクリと動いたのを、男は見逃さなかっただろう。
「初々しいなァ」
襖が閉じられられ、中尉の足音がに混じって女性の声が聞こえた。二人が二言三言交わした後、パタパタと軽い間隔の狭い足音がこちらへ近づいてくる。丁寧に挨拶をしてから、昨日の女性が着物を携えて部屋に入ってきた。
「鶴見様が昨日の夜、この色の着物を明朝までに用意して欲しいって仰ったので、懇意にしてる呉服屋さんに夜通しであつらえてもらったんですよ」
女性が風呂敷を開くと、そこには美しい薄藍色の長着がきれいに折りたたまれていた。昨日の夜、あの格子窓から見た夜の色にそっくりだった。