Chapter 4: 旭川編
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鯉登音之進、齢は二十一歳。鹿児島の名家・鯉登家に生まれ、名門海軍予備校である海城学校に入学し、当時海軍大佐であった父の背を追うべく海軍兵学校へ進むかと思われたが、心機一転十八歳で市ヶ谷・陸軍士官学校へ入学することとなる。
東京での生活は正に飴と鞭であった。毎日の勉学及び武官教官による厳しい軍事訓練、そして上級生からの苛烈なしごき。しかし、二年目半ばを迎える頃には、華やかな東京の夜を楽しむ余裕が出てきたのであった。
後の昭和初期に最盛期を迎える青年将校文化が、この時代の東京に芽吹き始めていた。上級生や所謂OBである若手将校が候補生達を引き連れて、夜の銀座・浅草・赤坂に繰り出す。新しいバーやビアガーデン、そして待合茶屋。新しい世界への若き好奇心と同調圧力も相まって、このような娯楽に参加し夜を明かすことはあったが、その持ち前の潔癖さから"一歩先"に進むようなことはしなかった。
晴れて陸士を卒業し希望通り第七師団の配属となったが、まだ北鎮部隊お膝元としての歴史が浅いこの街・旭川で、高級将校向けの古いお座敷遊びや、兵卒向けの廉価な遊郭にも食指が動くことは無かった。数少ない同期生と旭川にはまだ数軒しかないバーに繰り出すことはあったが、吹き荒ぶ雪の中目抜き通りまで出ていくくらいなら、寮で飲んで騒ぐことの方が多かった。
そして季節は夏。鯉登音之進、齢は二十一歳。憧れ焦がれる上官の親戚の娘からの突然の誘いに、ときめく胸を抑えきれずにいた。
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「で、その小娘が私に味噌汁を…あああ!腹立つッ」
そう思いませんか鯉登少尉殿、と続け、空になったグラスを鯉登少尉に向かって押し付ける名前。困惑の表情で鯉登少尉はそのグラスにビールを注ぎ足してやるのだった。
話は約一時間半前まで遡る。約束の時間より少し前に下宿前に到着した鯉登少尉は、そのまま馬車の中で名前が出てくるのを待っていた。"逢い引きの誘い"という言葉を必死で頭の片隅に追いやろうと、違う、鶴見中尉殿へ伝言があるとか、そういう事のはずだ、と貧乏揺すりをしながら頭の中で呟く。
五分程経った頃に馬車の扉が開かれ、若草色の洋服を着た名前が乗り込んできた。緊張の面持ちで軍袴の膝を握り締める鯉登少尉を見るでもなく、スカートの裾を直した名前が、あっさりとした口調で言い放つ。
「お酒飲める所、連れてって下さい」
「…は?」
「四条通の角で降ろしてって伝えてありますから、さあ行きましょう」
動き出した馬車の振動に我に返った鯉登少尉は、血の気を失った様に座席の上で倒れ込んだ。名前はそれをなんともないような表情でちらりと見遣る。
「どうしたんですか、お腹空きましたか?私もお腹空きました」
「…」
「ご飯も食べれる所がいいですね」
「…」
「あ、気軽な所がいいです」
「…」
「あとビールがあれば最高」
一人喋り続ける名前がやろうとしている事―それは、鯉登少尉には徹底的に期待しないことだった。あまりのエスコート力の無さにがっかりした三週間前を鑑みて、最初から女として扱って貰う期待さえしていなければ、どうってことないのではないか、という事に気が付いたのだった。そもそも現代に居た頃でも周りに目立って気の利く男友達が居たわけではなかったし、それについてふざけて文句を言う事はあれど、真剣にがっかりした記憶は無い。女友達が彼氏とデートならば、次点で誘うのは男友達である。
二人は師団通と四条通の角で馬車から降り、活気づく土曜の夜の目抜き通りを連れ立って歩く。ぎこちなく先導する鯉登少尉が向かった先は、比較的新しい小綺麗な洋食屋だった。メニューを最後のページまで捲っては最初に戻り、を繰り返す鯉登少尉を無視して、名前は適当に何品かと瓶ビールを二本頼んだ。給仕の男は、連れに何も相談することなく注文を済ませてしまう若い女と、狂ったようにメニューを無言で捲り続ける青年将校を何度か見比べ、首をかしげながら厨房に下がって行った。
ここで、章の頭に戻る。
「聞いてますか、鯉登少尉殿」
「き、聞いちょります」
給仕が栓が抜かれたビール瓶をテーブルに運んで来る。テーブルの端に寄せられた四本の空き瓶を一つずつ持ち上げてすべて空になっているか確認した後、怪訝な視線を名前に送った。
名前は腕を伸ばして新しいビール瓶を鷲掴みし、その注ぎ口を鯉登少尉の顔に突き付ける。
「注ぎますから、鯉登少尉殿も飲んで下さいっ」
二センチ程グラスに残っていたビールを急いで飲み干し、鯉登少尉は空になったグラスを名前の方に向けた。
鯉登少尉は最初、個室の料亭にでも連れて行くべきか、とすら考えていた。女性が多少の酒を嗜むことに異論はないが、ここはまだ封建的な価値観の残る北の島。東京の様に女性が公共の場で堂々と酒を飲む姿に眉を寄せる者も少なくない。給仕さえ眉を寄せる中、当の本人はあっけらかんとパカパカ新しい瓶を開けていく。
「名前さん、あんまい飲みすぎんように…」
「こんなのまだまだ序の口ですよぉ」
名前がビールをうっかり注ぎ過ぎて、泡がグラスの縁から零れそうになる。鯉登少尉が慌てて口をグラスに寄せて泡を吸い上げると、名前がケタケタと楽しそうに笑い出した。
「あはははっ、鯉登少尉、お髭付いてる!」
すったい出来上がっちょお、と鯉登少尉は上唇を拭いながら心の中で言い捨てた。
率直に言えば、鯉登少尉はがっかりしていた。三月半ばに初めて名前を見た時から、彼が頭の中で勝手に築き上げてきた"鶴見名前"というイメージを、とんかちで粉々に叩き壊された気分だった。しかし、目の前で大口を開けながら手を叩いて笑う彼女を見ていても、不思議と軽蔑していない自分に気付いた鯉登少尉は、手元のグラスを一気に傾けるのであった。
「将校さん、良い飲みっぷり」
「はぁ」
再び名前がビールを注ごうと、鯉登少尉の手元にグラス注ぎ口を向ける。おーっとっとっと、と言いながら今度はわざとなみなみに注ぎ入れようとしたので、反対の手で注ぎ口を押し上げて阻止した。
「私の酒が飲めないって言うんですかっ!」
「ちょ、声が大きか!」
店中の視線が二人のテーブルに突き刺さった。鯉登少尉にビール瓶を取り上げられた名前は、目を細めて不機嫌な表情をする。
「もう小樽に帰りたい」
「そうですか、オイもはよう鶴見中尉殿に会いたかです」
「私も早く月島さんに会いたかです」
「…はぁ?月島ぁ?」
「ですです」
鯉登少尉の脳裏に無表情の月島軍曹の顔が浮かび上がる。
「なんで月島なんですか」
「あんな男前放っておけるわけないじゃないですかっ」
「"男前"ェ?」
脳裏に映った月島軍曹が手の平を前に掲げて、いやです、と告げた。あの仏頂面のちんちくりんをどう表現すれば男前になるのか。
「なんですかなんか文句あるんですか」
「いや、別に」
「ちょっと表に出な!」
興奮した名前が椅子から音を立てて立ち上がった所で、いつの間にか側まで来ていた給仕の男が、テーブルの上に音を立てて勘定書を置いた。彼はちらりと鯉登少尉に目配せしてから入り口付近の勘定台へと歩いて行き、そこで立ったまま二人の席を凝視し続けている。鯉登少尉は、もうこの店には来れんな、と心の中で呟いた。
「出ますよ」
「え、冗談ですよ?まだとんかつ余ってますし」
「いいから!」
鯉登少尉は軍服の内ポケットから二つ折りの革の財布を取り出し、紙幣を二枚引き抜くと、勘定書に重ねまとめて手に持つ。名前はとっさにとんかつ一切れを指で拾い上げ、口に放り込んだ。
「行儀が悪かですよ」
叱られた名前はそれ臆すること無く、口をもぐもぐさせながらもう一切れ指で掴み上げると、鯉登少尉の口元に持っていく。食べろ、ということなのだろう。数秒迷った鯉登少尉だったが、これ以上大声を出されても困るので、そのまま素直にかじりつく。名前が満足そうに微笑んだ。
鯉登少尉は名前の手首を掴んでそのまま出入り口の方へ歩き出し、通り過ぎざまに、勘定台に紙幣と勘定書を置く。口をもごもごさせながら扉から出て行く二人の背を、給仕の男は驚きと困惑の混じった表情で見つめていた。
「ねーえー、もう一軒行きましょうよぉ」
「時間はいいんですか」
名前は振り返って、洋食屋のガラス戸越しに中の柱時計を見る。針は午後八時ちょうどを示していた。
「…余裕です!」
多少間が空いた気がしたが、本人がそう言うならそうなのだろう、と鯉登少尉は目ぼしい店について考えを走らせる。バーは何軒か知っている、が、今の状態の名前を連れて行くとまた出禁を喰らいかねないし、なんせ自分の顔が割れているので、女を連れて行って噂になるとまずい。多少アルコールがまわり始めた頭でもんもんと考えていると、週末はいつもやかましい一軒の店が頭に浮かんだ。
「じゃあ、行きましょう」
鯉登少尉が通りを指差し、歩みを進め始める。名前は指し示された方向へ向かって小走りし始めた。
「おい!ないごて走るっ」
「だって楽しいじゃないですかー!」
小走りでその背中を追いかけながら、崩れ落ちた大和撫子像のその向こうに、新たな姿かたちの輪郭がぼんやり見えた気がした。生まれ育っていく間に自然と身に付けてきた女性に対する通念とは相反するその姿に、落胆しながらも未だ興味を失うことがないのは何故なのだろうか。鯉登少尉は、旭川に来てからはすっかり記憶の奥底にしまわれていた、銀座の夜々を思い出していた。
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師団通りから二本奥に入った通りに、その店はあった。ぱっと見ただの木造家屋のようだが、中に入り混雑した薄暗い店内を眺めると、湧き上がる既視感に名前は思わず声を上げる。
「イギリスのパブみたい!」
「函館に住んどうイギリス海軍の退役軍人が出資しちょる店です」
入り口すぐ横からバーカウンターが奥に向かって一直線に続いており、男達がカウンターや壁に寄りかかってビール瓶を傾けている。バーカウンター前に列を作るを避けながら奥に進んでいく鯉登少尉の背中を見失わないように、名前がその後をぴったり着いていく。右手のバーカウンターが途切れた先は、丸テーブルがぽつぽつと置かれている広めのスペースになっているのが見えた。奥の壁際にはアップライトピアノが鎮座している。
壁際のテーブルはすべて埋まっており、二人は部屋の真ん中辺りに一つだけ空いた席に座ることにした。鯉登少尉は、飲み物を買ってくる、と言ってバーの方へ一人で戻って行った。
手持ち無沙汰の名前は、ぐるりとあたりを見渡す。テーブルの上には陶器の灰皿と、その中にマッチ箱。隣のテーブルには兵士と若い女―女性の客も一応居るようだ。その隣の席は洋服の若い男性三人組―全員たばこを吸いながら名前の視線に気付いたようで、こちらに目線を寄越した。
急に横から腕が伸びてきたかと思えば、大きな氷の入ったショートグラスが名前の前に置かれた。彼女が腕の主を見上げると、鯉登少尉だった。
「なんですか、これ」
「電氣ブランデーです」
「…あっ、神谷バーの!?」
名前がまだ現代にいる時、バー巡りが趣味の友達に一度連れて行って貰ったことがあった、浅草の老舗バーの名だ。そこの看板メニューが電氣ブランデー、後に電氣ブランと呼ばれるブランデーベースのリキュールで、この時代に既にもう存在していたとは、と名前は軽く感動した。
「と言っても、似せて作った偽物ですが」
鯉登少尉も同じ物を頼んだらしく、もう一つのショートグラスをテーブルの上に置き、椅子に腰掛けながら言った。現代では瓶詰めにされて流通しているが、この時代では本店でのみ提供されているのだろう。東京で候補生時代を過ごした若い将校が集まるこのバーで、偽物でも近い味が楽しめるのは素敵なことだ。
「名前さん、行ったことあるんですか」
「東京に住んでましたから!」
「オイも市ヶ谷に住んじょったとです」
「あー、士官学校ですね」
かなり度数が高いので、名前はちびちびと舐めるように偽・電氣ブランデーを口に含む。その名の通り、ピリピリと舌が痺れるような感覚がした。