Chapter 4: 旭川編
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「ああああああ!腹立つッ!」
「お、落ち着いて名前ちゃん…」
ベッドの上に投げつけたペラペラの枕がリバウンドして床に落ちた。同室のヤエちゃんが、シーッ、とジェスチャーしながら枕を拾ってベッドの上に戻してくれた。
「あンの小娘共…遂に私の白衣にまで味噌汁零しやがって…!」
「そうだ名前ちゃん、早く洗わないと落ちなくなっちゃうよ」
あの小娘共とは、下宿先に到着したあの日、バルコニーで私を無視したあの三人の事だ。何がどう気に入らないのかは知らないが、とにかくちょっかいを掛けては無視、という女子中学生のようなお遊びを繰り広げている。昼食後はあまりの味噌汁臭さにクレームが舞い込み、私は病室看護から外されて終業時刻までひたすら器具と包帯の煮沸消毒をやらされた。
「ヤエちゃん一緒に洗濯室来てよ…桶ひっくり返されて泡まみれ、とかあり得るからさ…」
「いいけど、私もあの子達苦手なんだよね…」
引っ込み思案なヤエちゃんと同室になれただけで私はラッキーだったのかもしれない。私を含め今回採用された十人の看護婦はみな第七師団衛生部軍医将校の身内で、このヤエちゃんのお父さんも札幌に駐屯中の軍医大尉だそうだ。つまり、お嬢様達である。
あの三人に至っては、恐らく佐官以上の父親を持っているのだろう。そんな身内のヒエラルキーがこの下宿の部屋割にも反映されている様で、二階にあるバルコニー付きの一番大きい部屋は彼女達三人のものだ。もう一つの三人部屋と二人部屋が二階に、そして一階にあるのは台所や洗面所に玄関横の管理人の自室、最後に一番奥まった日当たりの悪い私達の部屋である。
肩掛け鞄から白衣を取り出すと、汚れた部分は内側にして包んでいるはずなのに、ぷわん、と味噌汁の芳しい臭いが漂う。苛立ちを消化できないまま、私はヤエちゃんを連れて洗濯室に向かった。
「そういえば名前ちゃんは、どこの養成所に行ったの?」
腕を捲くって、桶の中に沈めた洗濯板に生地を擦り付ける。ヤエちゃんは洗濯室の壁に背を付けてしゃがみ込んだまま、そう私に問いかけた。
「あー…私はねえ、東京、かな?」
「すごーい!名前ちゃん、東京に住んでたの?」
「うん、まあ、そんな感じ?」
羨ましいなあ、とヤエちゃんが宙を見上げた。東京に住んでいた事は百歩譲って嘘ではないが、東京の看護婦養成所を卒業した事は真っ赤な嘘である。嘘をつくことには慣れていた筈だったが、この時代で初めて気兼ねなく話せる女友達に対しては、やはり罪悪感が拭い取れない。
「他の子はみんな北海道の子ばっかりだよ。私と同期の子もいるし、あとは函館と、小樽の子もいるね」
小樽の子もいるのか。あまり関わらないようにした方が良さそうだ。悶々と考え事をしながらひたすら手を動かし続けていると、ヤエちゃんがこちらをじっと見つめていることに気付き、手を止めて見返した。
「うん、やっぱり名前ちゃんはちょっとみんなとは違うね。東京の子だからかな?」
「そうかな、変わんないよ」
「みんなもきっとそう思ってて、だからあの子達もちょっかい掛けるんだよ」
ヤエちゃんは、ふふふ、と笑って、脚が疲れたのか床に直に座り込んだ。東京の女友達を思い出す。ああやって、馬鹿みたいな事ばっかり酔っ払って話したりして、楽しかったな。
「ヤエちゃんさ、お酒飲む?」
「んー、梅酒はたまに飲むよ」
「今度飲みに行こうよ」
この下宿は女子寮のように管理人が常に駐在している。日曜と平日の門限は午後七時だが、土曜日はみな仕事が正午に終わった後遊びに出かけれるよう午後九時までである。夕方からどこかに入れば、軽く楽しんだ後十分門限内に下宿に帰って来れる。
驚いた顔をしたヤエちゃんが、こちらに身を乗り出して少し大きな声で言う。
「え、私達―女だけでってこと?」
「もちろん。東京ではみんなしてるよ、今週末はどう?」
ヤエちゃんは、ギクリ、といった顔で私から目を逸らし、前のめりになっていた体を元の位置に戻した。何か予定でもあるのだろうか。
「だめ?」
「…誰にも言わないでね?札幌からボーイフレンドが来るの」
あー彼氏ですか。これはいつの時代も変わらないものだ―独り身は辛い。ちなみに土曜の夜のみ、"正当な"理由明記の届けを出せば月一回に限り外泊が可能だ。ヤエちゃんは帰って来ないつもりなんだろう。
「そっかー、ボーイフレンドかー…ヤエちゃんの裏切り者!」
手についた少量の泡をヤエちゃんに向かって投げつけると、彼女は腕で顔を守りながら、ケタケタと小鳥の様な声で笑い声を上げた。
「でも名前ちゃん、あの子達が言ってたよ。素敵な青年将校さんとお付き合いしてるんでしょ」
「青年将校?…ああ、鯉登少尉の事ね」
白衣を絞って洗濯液を脱水する。そういえば、あの三人は私と鯉登少尉が一緒にいる所を見てたっけ。
「あの人はそんなんじゃないよ。おじさま―父、の知り合いで、下宿まで案内して貰っただけ」
「そうなの?じゃあ名前ちゃんの"良い人"は、東京にいるの?」
勝手口の戸を開けて、桶の中の洗濯液を外に撒いた。空を見上げる。もう夕暮れ時だ。
「―小樽にいるよ」
月島さん、元気かな。
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いい加減私は怒ってもいい筈だ。二日連続で味噌汁を掛けられたのだから。最終的に温くなった緑茶で反撃した私が呼ばれた場所は、院長室だった。
「何のつもりだね、鶴見くん」
目の前の椅子に踏ん反り返って座る、この肥えた男―院長の軍医中佐が、腕を組んで溜息混じりに言った。
「…申し訳ありませんでした」
喧嘩両成敗なら、なぜあの小娘は呼ばれないのか。ヒエラルキーですか。あまり尖った事も言えず、大人しく謝罪の言葉を口にした。
「まさか有坂中将まで出してくるとは…どういうつもりなのだあの男は…」
私の奇行のせいでお叱りを受けているのかと思っていたが、話がどんどん鶴見中尉についての事にシフトしているようだ。この軍医中佐と鶴見中尉の間に何があったかはまったく予想が付かないが、どうやら嫌われている事だけは確かのようだ。今後院長と個人的に話せる機会がある可能性は低そうなので、鶴見中尉に頼まれた"言付け"を今の内に話しておくことにした。
「…あの、父から言付けがございます」
「なんだ」
「『次の小樽での会合に参加されますか』と」
私の言葉を聞くなり、院長はふんぞり返っていた上体を前に倒し、机の上で半ばうずくまるように顔を伏せた。右手で拳を作り、ダン、と音を立てて机に振り落とされる。
その衝撃音に驚いて、肩がびくりと跳ねた。荒い息を整えるようにその体勢のまま固まった院長だったが、しばらくして顔を上げ、丸メガネを押し上げた。
「…本当に脅しが上手い男だ」
そう言って院長は上体を戻し、机の引き出しから封筒を取り出した。机の端に投げて寄越し、私に取りに来るよう命じる。机の側まで歩みより封筒を拾い上げたが、今中身を確認して良いものかどうか。
「それを鶴見中尉に渡したまえ」
「…かしこまりました」
「分かったならすぐ出ていってくれッ」
ひどくうろたえた様子の院長を尻目に、あんまり怒られなくて良かった、と心の中で呟きながら院長室を後にした。
ドアの外に出た私は、すぐに封筒の中を確認した。その真白い洋封筒は赤い封蝋で封がしてあるが、既に上部がペーパーナイフで破られている。中には二つ折りのカードが入っており、それ以外は何も入っていないようだ。
「Invitation…招待状?」
すべて英語で書かれたそのカード―招待状には、『八月三日・午後八時・とある小樽区内の住所』のみが記載されており、送り主や何の会合かについての情報は一切書かれていなかった。これが何を意味するかは私の知るところではないが、とりあえず今回の潜入ミッションの山場は超えたようだ。これを祝して明日ヤエちゃんと飲みに行けたら良かったんだけれどなあ、と心の中で文句を言う。
「鶴見名前さん」
急に後ろから声を掛けられ、また肩が飛び上がった。振り向くと、廊下の奥から白い作務衣を着た衛生兵がこちらに歩いて来ている。招待状を乱雑にポケットにしまい、姿勢を正してその衛生兵に向き直った。
「あの…何か御用でしょうか」
彼は私にかなり近くまで歩み寄り、小声で答える。
「鯉登少尉より、何か困ったことは無いか、と」
この衛生兵が例の連絡役のようだ。初日以来なんの音沙汰も無かったが、もしかしたら向こうは私からの連絡を待っていたのかもしれない。ただ、どの衛生兵が連絡役かなんて知る由も無かったので仕方ない。
何か困ったこと、か。小娘達のいたずらにはほとほと困り果ててはいるが、実年齢では私の方が年上なので、コネを使ってなんとかしてもらうのも大人気なくて恥ずかしい気もする。何か手伝って欲しいことがあるとすれば―ひらめいた。
ポケットから例の封筒を取り出し、三角形のフラップの部分を封蝋を避けてちぎり取る。衛生兵が鉛筆を差し出してくれたので、礼を言って受け取り、ちぎった部分に走り書きをして折りたたんだ。
「鯉登少尉に、これを」
憂さ晴らしの時間だ。
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小さく折りたたまれた紙を開いては、中の文を読み、溜息を吐いてまた折りたたむ。鯉登少尉は、過去三十分間これを二十八回繰り返していた。何があって名前がこの走り書きを寄越したのか、鯉登少尉は考えあぐねていた。病院で何か不都合でもあったのだろうか。
急に同期生の男が後ろから手を伸ばして、鯉登少尉が持つその紙を奪い取った。
「あ、おい、返せ!」
「『明日土曜・午後六時・下宿』…鯉登、逢い引きか!?」
男の大声に、他の同期生もなんだなんだとテーブルの側に集まってくる。揉みくちゃにされている名前からの紙切れを呆然と眺めながら、鯉登少尉は降ってきた隕石が頭に当たったかの様な表情で考えた。
ありえない、あの鶴見中尉殿のご親族ともある方が、あの清廉さの権化の様な名前さんが、自分を逢い引きに誘うなど―ありえない。