Chapter 4: 旭川編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
駅の外へ出ると、そこには馬車鉄道のレールが敷かれた直線の目抜き通りが広がっていた。小樽程ではないが、沢山の商店やレンガ造りの銀行など、"街"と形容してもよい程の規模である。
立ち止まって眺めたいのは山々だが、目の前を先々進む鯉登少尉の背中は遠ざかるばかりだ。月島さんみたいに荷物も持ってくれないし、歩調すら合わせてくれないなんて、風上にも置けない。眉間に寄る皺をなんとか伸ばして、追いつくために小走りを続ける。
謂わば公共交通機関である馬車鉄道ではなく、タクシーのような役割の辻馬車を捕まえた鯉登少尉はようやく私の方を見遣り、ご機嫌そうな表情で私が追いつくのを待った後、馬車のドアを自分で開いてそのまま先に乗り込んだ。小樽にいる時から分かってはいたが、世はまだまだ男尊女卑の時代。女は三歩下がって歩くのが美徳とされ、西洋文化的な教養がある男性達はレディーファーストを実践しているものの、女性側からそれを求めて声を上げることはタブーに近い。さらっとエスコートしてくれる鶴見中尉や、上官の親族として丁重に扱ってくれる月島さんを始めとした兵士達に慣れてしまっているのも影響して、現代っ子の私はこういう扱い方をされる事に対してそこまで懐は深くなかった。そもそもこの人にとっても私は上官の親族のはずなんですが。
「鯉登少尉殿、荷物が重くて持ち上がりません。お願いできますか」
"お願い"と呼ぶには、言い方が多少不躾だったことは認めよう。鯉登少尉は馬車の中から雷にでも打たれたかのような表情をした後、呆然とした様子で馬車から下りてくる。
「…すんもはん」
どうやら話が通じるようになってきたらしい。鯉登少尉がスーツケースを運んでくれている間私は後ろで控えていたが、彼はやはり私を先に乗せたりはせず、荷物を乗せ次第さっさと奥に引っ込んでいった。
「…」
兵営に向かって走り始めた馬車の中は、無言である。鯉登少尉は肘掛けに肘を突き、その手でこめかみ辺りそ支えて緊張した表情のまま座っている。
「あの、これからそのまま病院に?」
私が業務的な確認としてそう尋ねると、鯉登少尉は焦ったように姿勢を正し、私に向き直って威勢の良い声で答える。
「はいッ」
「…」
「…」
続かない。こっちは鶴見中尉から、詳しい事は鯉登少尉に聞けっていわれたんですけれど。そのままもじもじし始めた鯉登少尉を尻目に溜息を吐くと、彼はびくりと肩を揺らした。
「…あの、別に怒ってませんよ?」
眉尻を下げた鯉登少尉が胸ポケットから折りたたまれた書類を取り出し、私におずおずと手渡した。無言のまま受け取って紙を開くと、それは今回試験採用される看護婦に向けてのしおりのようだった。縦書きのそれを右から順に目で追っていくと、初出勤日は明日の日付になっていて、その先に下宿先の案内と地図が書かれている。どうやら今日病院に出向く必要は無いみたいだ。
「鯉登少尉殿、今日は病院には行かなくていいそうです。このまま下宿先に向かいましょう」
しおりに目を落としたままそう告げた。そういえばさっきこの人思いっきり『はい』って答えてたような、と思い、ちらりと鯉登少尉を盗み見ると、今度はつららに貫かれた様な顔をしていた。毎度毎度リアクションが濃いのだ、この人は。
「だから怒ってませんてば」
------
第七師団兵営前で一度馬車から降り、御者にしおりの地図を見せて行き先の変更を告げた。第七師団の広大な敷地を左手に眺めながら師団通りをそのまま北東に進んで行く。そして右手に見えるのが、明日から私が働くことになる第七師団衛戍病院―つまり陸軍病院だ。
馬車はそのまま通りを進み、三つ目の角を右に曲がる。そして百メートル程奥まった場所に下宿の建物はあった。衛戍病院から徒歩十分圏内といったところだろうか。
私が先に馬車から降りた後、今回は何も言わずとも鯉登少尉がスーツケースを降ろしてくれたので素直に笑顔で礼を言った。鯉登少尉はすぐさま目を逸し、頭のてっぺんから出るような素っ頓狂な声を短く漏らした。
下宿の建物をじっくり眺める。二階建ての大きい洋式建築で、きつい傾斜のついた屋根がドイツの様な雰囲気を醸し出している。屋根と剥き出しになっている梁は焦がした様な木目、そして真っ白な壁のコントラストが美しい。
「…名前さん」
「はい」
「お、男は入れん思いもすんで、オイはここで…」
「ちょっと待って下さい」
ペコリ、とこちらに一礼をして、そそくさと馬車に戻ろうとする鯉登少尉だが、身一つでやって来た私にはまだまだ聞きたい事があった。馬車の御者、あとは通りに何人か人の姿が見える。会話の内容を聞かれてはまずいと思い、鯉登少尉に近寄って耳打ちしようとすると、またあの素っ頓狂な声を出して退こうとしたので、軍服の二の腕辺りを引っ張って引き寄せた。
「あの、あなたと連絡を取るにはどうすれば?」
「…び、病院の衛生兵に連絡役のもんが…」
「その人に手紙か言付けを頼めばいいんですね?」
「はいッ」
軍服を掴む手を離せば、両手で顔を覆いながら逃げるように馬車の方へ走っていった。なんか私が意地悪な尋問したかのように見えるけど、なんなんだ。
意を決して重いスーツケースを持ち上げ、建物の方に振り返る。二階のバルコニーから若い女性三人が私を見下ろしていた。明日から共に働くことになる看護婦達のようだ。私は笑顔で上に向かって手を振ったが、彼女達は無言のまますぐに踵を返して部屋の中に戻って行った。なんだ、感じ悪い。
------
将校及び特務曹長以上の下士官は兵営外に家を持つことを許されている。但し未婚や若年の将校達は、兵舎とはまた別の、敷地内にある寮で寝起きしている者が多い。所謂独身寮だ。
鯉登少尉も例に漏れず、この若年幹部用の寮に入居していた。夕食の仕出しを食べ終えた後、居間に残って数人の同期と軽くビールを煽っていた。瓶を傾けた後に毎度溜息を漏らす鯉登少尉に、シャツ姿の同期がからかうように話しかける。
「鯉登、お前また"鶴見中尉殿"か」
「…はあ、名前さん…」
「おっ、女か鯉登」
「
「おい分かんねーよ」
「
「もう放っとこーぜ」
「
すっかり輪から外された鯉登少尉だったが、気にせずにビールを煽る。同期達はどこからともなく出た次の話題に移行した。
「そういえば明日から、衛戍病院に看護婦が来るらしいじゃねえか」
「聞いた聞いた!こりゃ負傷者で溢れかえるぞ」
「どうせ今まで通り、腹に穴でも開かねえ限り医務室止まりだろ」
男達の夜は更けていく。