Chapter 4: 旭川編
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「恋人よ、僕は旅立つ、東へと向かう列車で」
私は汽車に揺られて軍都・旭川へ向かう。クッションが付いていない木造の座席で約四時間半お尻の痛みと戦い、お昼二時頃にようやく旭川駅に到着した。重いスーツケースを抱えてホームに降り立つと、あまりの軍人の多さにびっくりした。私はこの中から一人の男を見つけ出さないといけない。
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「おじさま、どういう事なのか説明して下さい」
有坂閣下を鉄道駅まで見送りに行った鶴見中尉が帰宅するのを玄関で待ち構えていた私は、戸が開かれるなり腕組みで仁王立ちしたまま語気を強めて言い放った。ニコニコしている鶴見中尉はそのまま玄関に腰掛けてブーツを脱ぎ始める。
「そうカッカするなァ、名前」
「カッカしないでどうしろって言うんですか!」
いっそその形の良い後頭部を小突いてやろうかと振りかぶった瞬間、戸口が再び開いて月島さんが入ってきた。慌てて拳を背中に隠す。
「つ、月島さん、お帰りになったんじゃ」
「あなたを説得するようにと鶴見中尉殿が」
この男、ずるすぎる。月島に茶でも入れてやれ、と言われ、しぶしぶ台所にお湯の準備をしに下がった。
人数分の湯呑をお盆に乗せて鶴見中尉の自室へ向かう。聞きたいようで、実は何も聞きたくない。鶴見中尉はもう決定事項として物事を進めているし、月島さんがそれを止めてくれるなんて万が一にも無いだろう。私に拒否権は無い。
障子を開けると、二人はいつものように座卓を介して座っている。床の間側に座る鶴見中尉の前に先にお茶を出し、月島さんの前にも同じ様に湯呑を置いた。月島さんは軽く会釈をしてくれる。私は座卓の障子に近い辺の側に座り、最後の湯呑を自分の前に置く。
「さて、説明願います」
「まず名前に贈り物があるんだ」
鶴見中尉はいつぞやの様に風呂敷包みを座卓の上に置いた。まさか賄賂から先に出してくるとは―大きさと重さからして今回も服のようだ。結び目を解いて中を確認し始めると、隙間からしっかりとした濃紺の生地が見えた。
「看護婦の式服だ」
ジャケットの両肩の部分を掴み、目の高さに持ち上げて服全体をしっかりと見る。襟の詰まったパフスリーブのシャツジャケットに、袴の様なデザインのロングスカート、さらに大きめのリボンと小さな赤十字のバッジが付いた帽子。目をきらきらさせてそれらを眺める私に、鶴見中尉はきっと陥落を確信したことだろう。私に人差し指を突きつけて言った。
「旭川の第七師団兵営に隣接する衛戍病院に、潜入せよ」
変装コスチュームと"潜入"という語感に、私の好奇心が猛烈に刺激される。
「…待って下さい、こんなの無茶です。月島さんもなんとか言って下さい!」
「特に異論はありませんが」
月島さんはそう短く告げて湯呑を啜った。だめだ、やっぱり全然味方をしてくれる気配はない。
「看護婦修行始めてまだ三ヶ月ですよ。絶対にバレます!」
「良い環境で訓練を受けるいい機会だと思わんか、なあ月島」
「はい」
鶴見中尉にかかれば月島さんは只のイエスマンである。
「そもそも私養成所には行ってませんし!」
「安心しなさい、下準備は済んでおる」
鶴見中尉が数枚の書類を半ば投げるようにして座卓の上に置いた。一番上に置かれた厚紙を手繰り寄せて確認すると、それは鶴見名前名義の看護婦養成課程修了証だった。さらにもう一枚、先程よりも縦書きの細かい字がたくさん書き込まれている紙を手に取る。右下に『戸主・鶴見篤志郎』と書かれている。そのまま目線を左にずらしていくと、私の名前が書かれているのを見付けた。
「『養女・名前』…養女!?」
「今回書類を揃えるためにどうしても君の戸籍が必要でな。だが存在しない親戚一家全員の戸籍を捏造するのは流石に大掛かりすぎる」
もう既に十分大掛かりである。上部の但し書き『明治四拾年参月壱日縁組届出』をなぞりながら愕然とする私を物ともせず、鶴見中尉は笑顔で続ける。
「まあ戸籍なんぞ只の書類だが、説得力はあるだろう」
「…潜入と言うからには、何かあるんですか」
「―院長の軍医中佐に言付けを頼みたい」
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「そんなに下ばかり見ていたら転びますよ」
月島さんと小樽駅のホームを歩きながら、私はまるで無実の罪で監獄送りにされる囚人の気分だ。がやがやと忙しなく人々が汽車に乗り込んで行く。開け放たれた汽車の窓から体を乗り出した軍服の若い兵士が、汽車の側でホームから手を伸ばす若い女性の手を握りながら何か話している。
「月島さん、私、行きたくないです」
「二月程度だと鶴見中尉殿も言っていたでしょう。我慢なさい」
二月も経てばせっかくの夏が終わってしまう。北海道の夏は短いのだ。
「良い機会だと思って勉強なさるといい。看護婦になるんでしょう?」
優しく言い聞かせるようにそう言いながら、私の頬に掛かった髪を指で除けてくれた。そうだ、今回の裏事情はどうであれ私は看護婦になるのだ。私は深く溜息を吐いてから、気を持ち直して月島さんと向かい合った。
「景気づけに、頬にちゅーしてくれませんか」
ぎょっとした月島さんは左右を見渡してから、私の顔を数秒見つめ、気まずそうに視線を逸した。怖気づきましたね、月島さん。
「…こんな所でいけません」
かわいいなあ、この人は。ちゅーは貰えなかったが、原動力となるときめきは十分貰えたので良しとしよう。私は月島さんの方に一歩踏み出して、その右頬に軽く口付けた。月島さんは驚いた様にすぐさま右頬に手を当てる。
途端、汽笛が鳴り、駅員がハンドベルを振りながらホーム上の人々に大声で乗車を促し始めた。もう出発の時間だ。
月島さんに背を押されて汽車の乗り口の階段を上がる。上まで登りきった所で、ずっしりと重いスーツケースが手渡された。家からこれをずっと持って運んでくれた、優しさの重み。
「お気を付けて」
月島さんが軍帽を脱いで頭の上に軽く掲げる。涙が浮かび上がりそうになるのを必死でこらえて、わたしも右手を振った。蒸気が吹き上がる音と共に、汽車がゆっくりと動き出す。
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重いスーツケースを抱え、改札の方に向かって旭川駅のホームを歩いているが、目的の男の姿はまだまだ見つからない。濃紺の制服姿は目立つようで、すれ違う軍人達がこちらに振り向いたりヒソヒソ話したりしている。自分で言うのも存分うぬぼれた話だが、白衣の天使はモテる。背筋をしゃんと伸ばして凛々しく歩くだけで男共の視線は釘付けである―あの人以外は。夕張以降、距離が近付いている事をひしひしと感じつつも、未だに奥手なあの人を思うと名前は胸が張り裂けそう―と陳腐なナレーションを頭の中で朗読していると、急に背後から伸びてきた手が私の左肩を掴んだ。驚いて肩を飛び上がらせると、その手はすぐさま外される。
「つ、つるっ、鶴見名前さん」
名前を呼ばれ振り返ると、私が探していた男―鯉登少尉が目を見開いているのに笑顔、という妙な表情で立ち尽くしていた。
「鯉登少尉殿、わざわざお出迎えいただいてありがとうございます」
スーツケースを地面に降ろし、一礼と共に挨拶をする。鯉登少尉はまた私の知らない言葉で一通り喋り終えた後、踵を返してホームを進んでいく。着いて来い、という事だろう。重いスーツケースを再び両手で持ち上げ、鯉登少尉の背を小走りで追いかけた。