Chapter 4: 旭川編
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六月下旬といえば、東京に居た頃はまだまだ梅雨真っ只中で、毎日上昇する不快指数と戦いながら通勤電車に乗ったものだった。北海道には梅雨が無い、という話は聞いていたが、本州との気候差を実際に体験すると一種の感動すら覚える。初めて過ごす、北海道の夏。頭の中で昔立ち読みした国内旅行雑誌のページを捲る。富良野のラベンダー畑、札幌の時計台、そして小樽の夜景―私の心は浮足立っていた。月島さんと過ごす、初めての夏。
今日は非番の日。特に外に出かける予定も無いので、朝から家でシヅさんと洗濯をしたり、居間で小難しい表現ばかりの医学書をぱらぱらと捲ったりしている。集中力も切れかけてきた頃、珍しくまだ出掛けていない鶴見中尉が居間に入ってくるなり、早々と私に声を掛ける。
「名前、二階堂のお見舞いに行くぞ」
ポカン、と口を半開きにしながら、私は色々な事を一気に処理しようとして脳が軽く固まるのを感じた。二階堂一等卒のお見舞い?昨日の時点で病院に来てもいないし、そもそもまた負傷したなんて聞いていない。いつ、どこで、なんで、誰に?何から質問すればいいのか分からず考えあぐねていると、鶴見中尉が先に口を開く。
「詳しいことは道中で話そう。着替えてきたまえ」
下を向いて自分の服装をチェックする。軽作業で汚れてもいいようにと、シヅさんが知り合いのお古を繕って用意してくれた長着だ。ここに来た時鶴見中尉が用意してくれた藍色の長着は厚みのある冬用のもので既に箪笥の中、毎日通勤時に着る薄手のものはさっき洗濯してしまった。どうしよう、着るものがない。
「あの、このままじゃ駄目ですかね」
「名前がいいならいいが…月島軍曹も来るぞ」
「駄目ですね」
月島さんと会うのにこんなおばあちゃん柄の服じゃだめだ。頭を抱え込んでいると、演技っぽく手を額当ての上に置いて、やれやれ、と言った調子で首を振る。
「名前はいつになったら私が贈った洋服を着てくれるのかなァ…」
「…ああ、あの若草色の」
夕張に行く前、洋服店で買ってもらったあの薄緑色のドレス風のワンピース。あの日試着した以来箱に入ったまま押入れの中で眠っているのだ。
「あんなに似合っていたのになァ…」
「分かりましたよ!着ます、今日着ます」
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途中花売りの露店でラヘンデル―ラベンダーの小さなブーケを購入した鶴見中尉と私は、なだらかな丘陵を登っていく道を進む。
「で、二階堂一等卒はなぜ負傷されたんですか」
暖かな日差しが気持ちいい午前十一時。横を歩く鶴見中尉に小声で尋ねた。ブーツに袴姿の女学生二人がすれ違い様に私を見てひそひそと耳打ちし合っている。和洋折衷のおしゃれを楽しむ人々だが、普段着として完全な洋服で外を出歩く女性は、まだ小樽には少ない。和服よりも軽いので動きやすく、かつ慣れているといった点でもっと洋服を着たいのは山々だが、こうやって図らずとも視線を集めてしまうのが玉に瑕だった。
「月島軍曹が夕張で尾形上等兵、そして不死身の杉元と接触した」
寝耳に水だった。不死身の杉元に関しては、月島さんが軽傷を負っていたので接触した可能性は考えていたが、まさか尾形百之助も一枚噛んでいたなんて。
「奴らに剥製所を荒らされる前に二階堂を遣ったが―まあいい、入れば分かる」
大きな平屋の建物の前で立ち止まり、その中に入っていく。まっすぐ続く廊下の左手には無数の扉が定間隔で並んでいる。すぐ側のドアから出てきた白い作務衣を着た男性が鶴見中尉に敬礼をした。軍服を着ていないがこの男性も兵士らしい。その兵士が私をちらりと見遣り、困惑の表情を浮かべながら鶴見中尉に小声で話しかける。
「中尉殿…ここは陸軍関係者以外の立ち入りは…」
「彼女は旭川の衛戍病院に派遣される予定の看護婦だ。その件で軍医少佐殿と面談に参ったのだが」
「は、はッ!失礼致しました!」
そうやって鶴見中尉はいつものように煙に巻いた。いつもながらよくここまで口から出任せが言えるものである。会話から推測するに、ここは陸軍関係の病院のようだ。
「行くぞ、名前」
「はい、おじさま」
さら奥に向かって廊下を進んでいくと、開けっ放しになっている病室の中から言い争うような声が聞こえてくる。
「何の騒ぎだ、月島軍曹」
ベッドの側で、月島さんと医者、そして二階堂一等卒がもみ合いになっている。二階堂一等卒から小瓶を取り上げた月島さんがこちらに振り返り敬礼する。なんと、二階堂一等卒がモルヒネを盗んで自分で注射していたらしい。
月島さんは私のいつもと違う服装に気付いたのか、目線を私の上半身から足元へ、そしてまた上半身に戻した挙げ句、何も言わずに鶴見中尉に向き直った。何か言ってくれてもいいんですよ、月島さん。
ところで、二階堂一等卒はそんなに負傷した部位が痛むのだろうか。どこを負傷したのか確認しようとベッドに近寄り、私は首筋から頭にかけて血の気が引くのを感じた。右脚の脛から下が、切断されていた。
鶴見中尉が両手の人差し指・中指でバッテンを作り、まるで動物に教え込むかのように、ダメダメ、と声を荒げている。モルヒネの副作用と心的外傷のせいか、二階堂一等卒の言動・挙動が前にも増して不自然に思える。
「大丈夫ですか」
立ち尽くしたまま黙っている私に月島さんが横から話しかけた。私は無言で頷き、胸に手を当てて深呼吸する。
「あっちの病院では、こういった患者さんは多くないですから…ちょっと驚いただけです」
私が勤めるあの私立病院では、兵士の治療はもちろん行うものの、今まで四肢切断などの重篤な手術は無かったし、一般の患者に至ってはほぼ内科系疾病のみ。月島さんも鶴見中尉も、この姿の二階堂一等卒を見て全く動揺しないのは、やはり今まで見てきたものの違いだろうか。彼らはあの日露戦争の前線を生き抜いた人達なのだ。
「ところで軍医少佐殿」
鶴見中尉がモルヒネの小瓶を軽く振って、ちゃぷちゃぷ、と音をさせながら、メガネを直す医者に話しかけた。
「例の件、先方にお話し頂けましたかな」
「残念だが、今回は衛生部将校の身内からしか採らんそうだ。諦めてくれッ」
何か陸軍内部の話のようだ。鶴見中尉は、はぁ、と大げさに溜息を漏らし、旭川の院長殿には嫌われましたかな、と演技掛かった口調で言った。メガネの医者はうさん臭いものを見る目で鶴見中尉を一瞥した後、私に同じ視線を向ける。
「…彼女がその看護婦かね」
「はい、私の親戚の娘です。この春に赤十字養成所を卒業したばかりでして」
鶴見中尉が私の背を押して前に立たせた。ちょっと待って、話が全く見えない。私は赤十字の看護婦養成所になんか行ってない。こめかみに汗をにじませながら、医者に向かってぎこちない笑みを送る。医者がじろじろと私の顔を五秒程見つめた後、溜息を吐きながら告げる。
「旭川の院長は軍医中佐だ。少佐の私からは、一度断られた以上もう何も言えんッ。それでもまだ一押ししたいなら、どこかの将官にでも味方に付けるんだな!」
医者はそう言い残し、逃げるように病室から出て行った。私は辺りを見回す。腕を組み無表情で立ち尽くす鶴見中尉、そしてその鶴見中尉が肘の下で持つモルヒネの小瓶に手を伸ばそうとする二階堂一等卒、ぼうっとした表情でこちらを見ていたが、すぐさま二階堂一等卒の手を払い落とした月島さん。誰か状況を説明して下さい。
「…帰るぞ、名前」
鶴見中尉が一瞬、にやり、と笑ってから私に手招きをした。私をどこかに遣る、という様な話をしていた様に聞こえたが、結局断られた、ということでいいのだろうか?
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"小銃をつくった者"を名乗り、荷車から飛び降りて伏せるように地面に着地したその男に、鶴見中尉は敬礼を、月島さんは小銃を前に掲げて"気をつけ"をした。こんな至近距離に居るのに叫び合いながら会話を始めたその男と鶴見中尉を尻目に、私は月島さんに耳打ちして尋ねる。
「…月島さん、こちらの方は…?」
「…陸軍中将、有坂閣下です」
なるほど、やはり偉い人のようだ。私と月島さんは一歩下がった所で二人のやかましい会話を立ち尽くしたまま聞いていたが、急に有坂閣下が荷車の木箱を降ろし始め、中から小銃や大型の武器を取り出し、組み立て始めた。
鶴見中尉がその小銃を手に取り、うっとりした表情で細部を眺めたり構えたりした。"呪われた仕事"と自分の職務を形容して頭を抱える有坂閣下に、鶴見中尉があの演技掛かった口調で美しさと強さの一体性を説き始める。
「鶴見くん頭がどうかしておる!」
「前頭葉が吹き飛んでおりますッ」
…もう中に入ろう。到底理解し得ない二人の会話をこれ以上聞いておく必要は無いと勝手に判断し、私は一人玄関へと歩き出す。すると途中で鶴見中尉の手が私の二の腕を、がしり、と掴んだ。嫌な予感しかしない。
「彼女もそう、肯定されるべき美と力の権化なのですッ」
「そのお嬢さんはどちら様かね鶴見くん!」
有坂閣下の唾が飛んで来る。一瞬顔を逸らし手の甲で頬を拭った。
「私の養女―今は英国に住む親戚の娘でありますッ、この春晴れて看護婦資格を取得いたしましたッ」
「素晴らしい志だお嬢さん!」
拭った唾の倍以上の量がさらに飛んで来た。もう一々拭っても意味がなさそうだ。
「有坂殿、第七師団衛戍病院が試験的に日赤看護婦の採用を始めた事をご存知でしょうかッ」
「旭川で小耳に挟んだぞ!兵がみな浮足立っておった!」
ここでようやく、先程の病院での会話と話が繋がってきた。鶴見中尉は私を旭川の陸軍病院に看護婦として働かせに行くつもりだったらしい。しかし、コネが効かず却下された、と。
「平常時であっても国を護る者達の看護を―とその高き志を胸に志願しましたがッ」
「断られたのかね!」
「まさしく!私がしがない尉官の身であるから、とッ」
「あああああ!なんと頭の硬い連中だ!」
私の鼓膜が限界を迎えそうだ。唾が目に入らないように瞑っていた目を薄く開けると、有坂閣下はまた頭を抱えて唸っている。そしてふと、私の脳裏にあの医者が言い残したセリフが過ぎった。
『それでもまだ一押ししたいなら、どこかの将官にでも味方に付けるんだな!』
「…あっ、」
「…名前、黙っていなさい」
鶴見中尉が、有坂閣下には絶対に聞こえない音量で呟いた。待って、有坂閣下は―中将だ!
「…鶴見くん!」
「はいッ」
「心配せんでよい!衛生部の連中には私から話を付けておこう!」
音をたてて崩れ落ちる私の夏の夢―富良野のラベンダー畑、札幌の時計台、そして小樽の夜景―月島さんと過ごす、初めての夏。話も早々に、二人は組み立て終わった機関銃で小学生男子の様に遊び始めた。放心して立ち尽くす私の元に月島さんが歩み寄る。
「旭川に行かれるんですか」
「…月島さんも一緒に行きます?」
「行きませんよ」