Chapter 3: 夕張編
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一粒、二粒、と次々に頬を滑り落ちていく涙が耳たぶにまで到達し、そこに熱い感触を残してから枕に染み込んでいく。見上げる天井は真っ暗で、屋根を打つ無数の雨粒の音が部屋の中に響いていた。熱を持つ目元を少し冷まそうと、布団の外に投げ出されていた左手の平で両目を覆う。冷たくて気持ち良い。
障子を挟んだ向こう側、廊下を誰かが歩いている。足音は奥の鶴見中尉の自室からゆっくりと玄関の方へ向かい、玄関で少し物音を立てた後、戸がスライドする音が聞こえ、ピシャリと閉じた。誰かが出て行ったようだ。
ふと、顔に当てた左手の手首に、いつもの服の袖とは違う感触が当たっていることに気付く。真っ暗で何も見えないため、右手の指先で手探りに感触を確かめる。ビーズの様な丸い珠が並んだ―ブレスレット。
私は布団から飛び起き、障子を手探りで開け放つ。鶴見中尉の自室の方から漏れるランプの光が廊下をほの暗く照らしていた。走って玄関に向かう。今は草履を履くことすらも煩わしい。戸口から飛び出し、兵舎の方へ向かう道に目を凝らす。土砂降りと暗闇のせいでほぼ何も見えない。しかし、辛うじて認識できる距離に一つの人影を見た。その人影に追いつこうと、私はぬかるんだ地面の上を裸足で走る。
フードを被ったその後姿がどんどん近くなる。雨音とそのフードが聴覚を遮っていたのか、私が数メートルの距離まで近付いた頃にようやく、その人影がこちらに振り返った。私は立ち止まり、その顔を見つめる。
「また会いましたね、お巡りさん」
無数の雨粒が彼のコートに覆われた肩に当たり、ばち、ばち、と絶え間なく音を立てている。
「お巡りさんじゃない、兵隊さんだ」
表情は見えないが、いつもの、あの無表情と眉間に少し皺が寄る中間のような顔で立ち尽くしているに違いない。しかしその声音から、彼の僅かな口元の綻びを感じ取った。帰ってきた。月島さんが、帰ってきた。
私は月島さんにタックルする勢いで飛び付き、首元に腕を回した。月島さんは仰け反ることも、後ずさることもなく私を難なく受け止め、背中にその強い両腕を回してくれた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
言いたい事は山程あった。無事で良かった、怪我してませんか、あれから毎日どう過ごしてましたか、帰り道は一人で大丈夫でしたか、なんかちょっと臭いです月島さん、など、色々。それを全部後回しにしても伝えたいことが一つある。
「腕飾り、失くしませんでしたよ」
今も左手首に感じる、硬い石とチェーンの感触。二十年以上前にあなたが左手につけてくれたあのぶかぶかのブレスレットが、まだ私の手首できらきらと光っています。
「指切りしたからな」
偉いぞ、と言ってずぶ濡れの私の頭を撫でた月島さんは、数秒迷った末に、私の頬にご褒美の口付けを落とした。伝う涙の味に気付いた月島さんが、指先で下瞼を拭ってくれる。
「泣くな」
「もう一回ちゅーしてくれたら泣き止みます」
「調子に乗るな」
笑いを含んだ呆れ声で月島さんが言い、再度私の頬に唇を付けた。違います月島さん、そっちじゃないんです、けど、まあいいや。
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「で、風邪を引いた、と?」
ミイラ取りがミイラになる、とはよく言ったもので、私は白い看護衣のまま病院のベッドに横たわり布団を頭から被って、月島さんの冷たい視線からなんとか逃れようとしていた。
「…ずみまぜん」
掠れた声が私の喉からひり出された。鼻水が垂れそうになり、思いっきり啜る。はしたない。布団から目を出して声がする方向をちらりと見た。いつもの表情の月島さんが私を見下ろしている。
「帰りますよ」
月島さんはそう言って私の布団を引っ剥がすと、ベッドの横でこちらに背を向けて床にしゃがみ込んだ。
「早く乗って下さい」
大人しくその背中に覆いかぶさり、首に両腕を絡める。月島さんの首筋からいい匂いがした。お風呂に入ってきたようだ。私の膝の裏に腕を通した月島さんはそのまま軽々と立ち上がり、病室を出る。
「月島さんしばらくお休みなのに、お手数おかけします」
「看護婦から兵舎に電話があったんですよ。あなたが体調不良だから"月島さん"を迎えに寄越して欲しいと」
ちょうど詰所の前に差し掛かり、窓口の奥で三人の先輩ナースがこちらに手を振ってくれた。熱にうなされながらも私の笑みはきっと輝いていたはずだ。
病院の出入り口を通り抜け、急なスロープを下っていく。私を背負っているにも関わらず月島さんの足元はしっかりしている。兵隊さんはやっぱりすごい。
「そういえば、キティちゃんの絆創膏なんで剥がしたんですか?」
「…ああ、あの猫の」
指先で月島さんの頬を触る。あの時の擦り傷はもうかさぶたになっていた。
「かわいかったのに」
「あんなもの顔に貼って歩いたら笑われます」
「笑いませんよお」
私は少し身を乗り出して、そのかさぶたの上に口付けを落とした。