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Chapter 3: 夕張編

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「あ」

ピンセットなどのツールを入れた金属製のトレーが手から滑り落ち、そこからはスローモーションだった。とっさに手を伸ばすものの、わずか一センチ届かずに床へ近付いていく。綿、ピンセット、包帯、はさみが宙を舞う。あ、やっちゃった、と思った頃には、けたたましい音を立ててトレーが床に着地した。廊下に立つ兵士、開け放った病室のドアの奥の入院患者、そして私の三歩前を歩いていた先輩ナースが、一斉に私を見る。

「…すみません」
「あらら、何やってるの。悪いけど私も手が塞がってるから、一人で片付けれる?」
「はい、もちろんです。先に戻ってて下さい」

廊下にしゃがみ込んで、床に散乱した物をトレーの上に全部乗せていく。こんなうっかりミスするなんて今日はついてないな、と心の中で呟くも、落とした物すべてが割れたり壊れたりする物じゃなかったことに気付き、何となく安堵の息を吐いた。


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目が覚めた。ぼやけた頭の中に意識を失うまでの記憶が濁流のように流れて込んで来て、目を見開いて腹の下の旅行鞄を確認した。ちゃんと、ある。

そして、更に妙な事実に気付く。辺りが明るい。狭く暗いあの坑道とはかけ離れた場所にうずくまっている自分。俺は、死んだのか、ようやく。

だるい体を起こすと、青空と風で揺れる雑木林が見えた。辺りを見回す。丈夫そうな鉄製の物干し竿、見慣れない造形の家屋、大きなガラス戸、そして濡れ縁に腰掛けた幼い子供。

なんなんだ、ここは。地獄ならもっと分かりやすくして欲しかった。

「おじさん、おまわりさんのひと?」

子供が急に喋った。草履をつっかけた足をぶらぶら揺らしている。

「…お巡りさんじゃない、兵隊さんだ」
「へーたいさん?なにするひと?」

子供は洋服を着ていて身なりが良いのに、"兵隊"がわからないようだ。

「そこで何してる」
「ピクニック!」

そして異国の言葉を使う。ふと彼女を思い出し、自分の顔が僅かに綻ぶのを感じた。

「にいちゃんはコウくんちにゲームしにいっちゃったの」
「…そうか」
「だからひとりなの」

つまんない、と頬を膨らませる。やはり彼女にそっくりだ。名前を聞いてみようかと口を開きかけるが、咳がぶり返してまたうずくまる。

五秒程連続して咳き込んだが、すぐに肺は上手く空気を取り込んでくれるようになった。再び顔を上げると、濡れ縁からこちらに降りて来ていた子供が、俺のすぐ前にしゃがみ込み、赤いコップをこちらに差し出していた。

「だいじょうぶ?のむ?」
「…何だこれ」
「ぶどうジュース」

一口含んでみると、かなり美味い。そのまま喉を鳴らして全部飲み切った。

「おだいじに」
「…ありがとう」
名前はかんごふさんなの」

自分の耳を疑った。この子供、今、名前と言ったか。あの占い師の言葉が頭を過ぎる。

『兵隊のお兄さん、その女はね、あなたに一度会ったことがあるようだよ』


「…名前、なのか?」
「そうだよ。おまわりさんは?」
「お巡りさんじゃない、兵隊さんだ」
「"へーたい"さんっていうのね」

ふーん、と名前を名乗る子供はキラキラした目線を俺に送りながら間延びした声で答えた。

「あ、へーたいさん、ほっぺけがしてるね」
「ん?大丈夫だ」

指先で頬を擦ると、確かに血が滲んでいた。爆発の時に何かで擦りむいたのだろう。この程度何の問題もない。しかし、名前は赤十字の刺繍が入った肩掛け鞄をごそごそと弄り、中から小さな横長の紙のような物を取り出した。その小さな両手の細い指で紙の端を摘むと、合わさった紙を二枚に裂くようにして剥がす。中から、白い猫の絵が印刷された不思議なテープが出てきた。

「何だそれ」
「ちくっとしますよー」
「こら」

有無を言わさず、その少女向けと思われる絵柄のテープを頬に貼り付けられた。

「おだいじに」
「ありがとう」
「…いたいのいたいのとんでいけ、する?」
「いや、しない」

えらいねえ、としゃがんだまま体を前後に揺らしながら名前が楽しそうに笑うのを見ると、やはりこちらも笑えてしまうのだった。

「お礼に良いものをあげよう」
「なあに?」

胸の衣嚢から、ようやく修理された腕飾りを取り出す。留め具が直りしっかり輪になったそれを外そうと試みるが、予想通りやり方が分からない。あの時江渡貝の話をきちんと聞いておくべきだったか。しかしよく考えてみたら、この子供の名前の腕ならば留め具を外さずとも入るに違いない。

「左手を出してごらん」
「ひだりって…こっち?」
「そうだ」

名前が少し躊躇いながらも左腕をこちらに差し出した。その小さな手首に腕飾りを掛ける。やはりぶかぶかだ。

「絶対失くすなよ、約束だ」
「ん、ゆびきり!」

白く、細い、小さな小指。指を絡めた瞬間、自分の意識はぷつりと途切れた。


再び目が覚めた時、俺は雑木林の中でうずくまっていた。頬を指先で触ると、触り慣れない感触がして、それを摘んで剥ぎ取った。あの猫のテープだった。こんな物を顔に貼ってては外も歩けない。まだ粘着力のあるそれを、もう何も入っていない胸の衣嚢の中にへばり付ける様に落とした。

立ち上がり、人皮の旅行鞄を抱き上げて、雑木林のなだらかな傾斜を下って行く。生い茂った一帯を抜けると、丁度小道の突き当たりの場所に出て来た。あの日名前が"探検"していた、あの小道だった。

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