Chapter 3: 夕張編
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冷蔵庫のドアポケットからぶどうジュースのペットボトルを両手で抜き取り、リビングへと戻る。ローテーブルの上には空っぽのコップが乗っている。白い猫のキャラクターがプリントされた、取っ手のついたプラスチックのコップだ。キャップを開けてそのコップに恐る恐るぶどうジュースを注ぎ入れた。1.5リットルのペットボトルがこんなにも重い。無事零さずにコップを満たすことができ、ペットボトルをテーブルの上に置いてキャップを閉めた。さあ飲むぞ、とコップにその小さな手を伸ばしかけた私だったが、何を思ったか途中でソファーの方へと振り返り、その上に乱雑に放り投げられていた白いポシェットに目をやる。ソファーに駆け寄り、ポシェットの肩紐を、むんず、と掴んで肩から掛けた。白い綿の生地でできた、恐らく手作りのものであろうそのポシェットには、赤い十字のアップリケが縫い付けられていた。あれ、このポシェット、見覚えがある。そのまま私はテーブルの方へ戻り、先程のコップを左手に握ると、中身を零さないようそっとガラス戸まで歩く。風で揺れる雑木林の向こうに青空が見えた。私はガラス戸のハンドルに手を伸ばす。
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「…あのポシェット、懐かしい…」
目が覚めた私の目尻から一粒涙がこぼれ落ちる。今はっきりと思い出した、あのポシェットは昔祖母が私に縫ってくれたものだ。そしてあのお気に入りのコップのことも。祖母の家に行った時は、必ずあれじゃないと何も飲まない、とよく駄々をこねていたものだ。
「あ、じゃああれは…おばあちゃんの家だ」
あのどこか見覚えのある家は、亡き祖母が生前過ごした夕張の家だった。
「…月島さん、元気かな」
夕張を発ち小樽に戻ってから、もうすぐ二週間が経とうとしている。私は早々に病院へと復帰し、またいつもの忙しい日常に戻っていた。唯一違うのは月島さんが迎えに来ないこと。日替わりで他の兵士が兵舎から派遣されるか、もしくは病院に駐在している兵士が送ってくれたりもする。ありがたいのだが、私の心は少し沈んだままだった。せめて怪我なく無事にやっているかどうかさえ確認できたなら、なあ。携帯電話は夢の道具だな、と溜め息を吐く。
「もしもーし、月島さーん…」
右手で電話の形を作り、耳元に当てて一人呟く。もちろん返事は返って来なかった。
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護衛兼運び屋兼尻叩きという名目で夕張滞在の延長を命じられた月島軍曹だったが、江渡貝本人が作業に集中している間は特にすることがない。あの人間剥製部屋は気が滅入るので入らないとして、その他の部屋をじろじろ見ることで暇を潰していた。
適当に入った一室で、月島軍曹は埃を被ったガラス蓋の木箱を発見した。手の平で埃を撫で落とすと、中には古い懐中時計がいくつか収められており、こういった類の物に明るくない彼にですら、それらが非常に高価なものであることが見て取れた。
「月島さん、そんな所で何やってるんですか」
廊下を通りかかった江渡貝が開けたままの扉から部屋の中を覗き込む。
「この家には色んな物があるんだな」
「ああ、その時計は父が収集していた物です」
妙な衣装を着た江渡貝は扉の枠に肩を凭れさせ、腕を組んで室内の月島軍曹を見る。
「剥製は勿論ですが、そういった精密機械を弄るのも好きな人でしたから。部品の組み立て方をよく教わったものです」
何かを見上げる様に顔を少し上げ、目線を宙に彷徨わせながら江渡貝は言った。母親に殺されたという父との古き良き記憶に思いを馳せているのだろう。そんな江渡貝を見つめながら、月島軍曹の頭の中にある思いつきが浮上する。
「おい江渡貝、もしかしてこれを直せたりしないか」
胸ポケットから留め具の壊れた名前の腕飾りをつまみ出し、江渡貝に手渡す。
「…なんで月島さんがこんな物を」
「知り合いに直せる者を探して欲しいと頼まれただけだ」
「ふぅん」
素直に腕飾りを受け取った江渡貝は、留め具を目の前に近付けてツメの部分を動かしたり、角度を変えて眺めたりして何がどう壊れているのかを確認する。
「これは…見たことはありませんでしたが、仕組みは分かりました」
「直せそうか?」
「はい、意外と簡単そうです。中のバネが錆びて折れてしまっているので、このツメの部分が戻らなくなって、」
「あー、俺には分からんので説明はいい。いくらでやってくれるか」
江渡貝は一瞬、ぽかん、とした表情をして、すぐにケタケタと笑い始めた。
「これくらいでお金取りませんよ」
「…いいのか?」
「あ、でもこれ、月島さんがボクの作業を邪魔してるってことになりません?」
「…」
「後で鶴見さんにちゃんと謝ってくださいね」
「…」
「謝ってくださいねッ」
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「お姉さん、すまないねぇ」
裂傷の治療が終わり、しゃくり声を上げる女の子の肩を撫でる母親が私に向かって申し訳なさそうに、かつ安堵を含ませた声音でそう言った。
「私は看護婦ですから」
笑顔でそう答える。病院からの帰り道、通りの端に座り込んで泣きじゃくる女の子と、その子の出血した足を焦った表情で見る母親と出くわした。どうやら急に飛び出して荷馬車と接触したらしかった。付添の兵士には待っていてもらい、二人に駆け寄って傷の具合を確認した。幸いにも出血の割に傷は深くなく、縫合は必要なさそうだったので、止血と患部の消毒・保護のみを施した。医療用ガーゼとサージカルテープをショルダーバッグにしまい込む。今朝見た夢にどうも触発されて、病院から持ち出した物だった。
「おねえさん、かんごふさんなの?」
下を向いて涙をぽろぽろ流していた女の子が、そのきらきらした瞳で私を見上げる。
「そうだよ」
「わたしもかんごふさんになれる?」
「もちろん、なれるよ」
胸元からハンカチを取り出し頬の涙を拭いてあげる。
「お出かけする時は、こうやってお鞄にガーゼとテープを入れておくの。そうしたら、いつでも怪我した人を助けれるでしょ?」
それであなたも看護婦さんだよ、と笑いかけると、女の子は首が取れそうなくらい大きく頷いた。私もこんな風に昔は看護婦に憧れたものだったな。いつの間にか憧れを忘れて、ただ安定した職を、と大学に行き、数字の羅列を処理する事を選んでしまったんだろう。あの日助けたあの人の顔も忘れて―あの人?切り取られた記憶のワンシーンがおぼろげに頭の中に浮かんだ。
「…おまわり、さん?」
あの日、私はあのおまわりさんと出会った。
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「鶴見さんなら、あのひとならそれだけで分かるはずです」
人皮で作られたなんとも悪趣味な旅行鞄に詰められた、江渡貝弥作・最後の作品。その悲しいまでにひたむきで、異常で、報われない思いは、月島軍曹へと手渡されたのだった。
「行ってください、あなたも大事な人に渡すものがあるでしょう」
この若い男の意思を、命を無駄になどできる筈がなかった。ガスが蔓延した坑道を這いつくばり、咳、そして胃から迫り上がる汚物を吐きながら前進する。徐々に奪われていく正気に必死にしがみつきながら、朦朧とする頭で辺りを見回した。誰も居ない。死体さえない。本当にこっちに出口はあるのか。そう疑った瞬間、胸元に旅行鞄を抱いたまま、月島軍曹は自分の四肢に最早力が入らないことに気付いた。頭が、かくん、と落ち、地面にぶつかる。必死に呼吸しようとする口からは咳と涎が漏れるだけとなった。旅行鞄の端を必死で握りしめる指先が胸ポケットに触れる。どうか、これを、彼女に。