Chapter 3: 夕張編
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早朝、誰かの小さな話し声に気付いて重い瞼を押し上げる。
「…やっぱり違う…」
横を向いていた体を仰向けに転がすと、頭巾のように包帯を巻いた二階堂浩平一等卒が私を見下ろしていた。その手には、切り取られた耳。思わず自分の耳を手で触って確認すると、そこにはちゃんと自分の耳がくっついていた。
「…に、二階堂一等卒殿…お久しぶりです」
「鶴見中尉が名前さんを連れて来いって」
二階堂一等卒は手に持った耳を口元に当て、なんで名前さんを連れて来るんだろうなぁ、洋平、と小声でぶつぶつ呟いている。
「…何かあったんですか…?」
「墓泥棒が見つかったんですよ」
私達は刺青の囚人を探しにきたはずだが、いつの間に墓泥棒捜索になっていたのだろう。今二階堂一等卒を質問責めにしても仕方がないので、とりあえず言う事を聞いておくことにした。布団からむくりと起き上がる。
「あの、…その耳って」
「洋平の耳」
虚ろな目の二階堂一等卒はそう答えながら、その耳に付けられた紐をネックレスの様に首に掛けた。頭に巻かれた包帯の耳があるべき部分に、その膨らみは無い。やはりカルテに書かれていた通り、両耳介を失っているようだ。その片方を持ち歩いて、亡くした兄弟に見立てているなんて、痛ましい。
しかし何故耳を失うような事になったんだろう。側頭部を掠るように撃たれて運良く耳を失うだけで済んだ、という筋書きも考えられるが、彼は両方の耳を失ってる―誰かが両耳を切り落としたのか?一体誰が。
「その耳…尾形上等兵にやられたんですか?」
二階堂一等卒にそう尋ねると、彼は軽蔑と哀れみの混じったような目で私を見つめた後、ポツリと漏らす。
「その内分かりますよ」
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二階堂一等卒に連れて来られた先は、本通りより外れた場所にあるまた別の旅館の一室だった。部屋の中に入り襖を開けると、窓際に伏せるようにして座り込んだ月島さんが小銃を窓の外に向けていた。月島さんは首だけでこちらに振り向き、私の姿を確認すると、すぐ窓の外に視線を戻して言う。
「その辺に座って大人しくしてて下さい」
月島さんには甘い私も、その言い草にはさすがにムッとした。入ってすぐの位置に立ち止まったままの私を避けるようにして二階堂一等卒が土足のまま畳の上に上がった。そのまま部屋の奥まで行き、月島さんのすぐ隣にしゃがみこんで言う。
「いいんですか、鶴見中尉は名前さんに"見させておけ"って」
"見させておけ"、とはどういう意味だろう。二階堂一等卒の質問に月島さんが何か答えることを期待したが、彼はそのまま黙っていた。
ポツン、と部屋の真ん中に正座し、窓から差し込む日差しで逆光になった二人の背中の隙間から外を見つめる。隣の敷地に建つミント色の洋風の家屋が見えた。小樽では比較的よく見かける洋風建築の家屋だが、炭鉱夫などの肉体労働者が多く住む夕張では珍しい。そしてどうやら、二人はこの建物を見張っているらしい。
「持ってますかねえ、あの剥製屋」
双眼鏡で窓の外を覗きながら二階堂一等卒が呟いた。月島さんは小銃の照尺から目を離さずに何か答えようとしたが、一瞬ためらい、そのまま言葉を飲み込んだ。私がここに居る以上、詳細を話すつもりはないのだろう。本当に、何故わざわざ鶴見中尉は私をここに連れて来させたんだろうか。
これ以上考えても今は無駄という事を悟ったので、諦めた私は座卓の上に投げられていた新聞を引っ掴み、畳の上に広げると、うつ伏せに寝転がって読み始める。紙の音に月島さんがちらりと振り向いたが、何も言わずにまた窓の外に視線を戻した。そうですか、そんなに私の事仲間外れにしたいですか。
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最初のうちは途切れ途切れに会話していた二人だが、もう五分程無言のままだ。二階堂一等卒が双眼鏡を床に置き、月島さんにバレないようにそーっと立ち上がる。その様子をじっと眺めている私に向かって、シーッ、のジェスチャーをした後、そそくさと部屋を出ていってしまった。
三十秒ほど経ったところで、月島さんは目をこすりながら何か独り言を漏らした後、ようやく二階堂一等卒が消えた事に気が付いたらしかった。
「あれ…二階堂?どこいった?」
「こっそり出ていきましたけど」
視線を新聞から外して月島さんの方を向く。二階堂一等卒が置いていった双眼鏡が目に入った。見たい。私は四つん這いで畳の上を移動し、双眼鏡を拾い上げる。
「あ、こら、こっちに来るな」
「おじさまが"見させておけ"って言ってたんでしょう」
月島さんの横で正座をし、窓の外に双眼鏡を向ける。
「…誰もいないみたいですけど」
「さっき別の部屋に移動したようです。見ない方がいいですよ」
月島さんが片手で両目を覆いながら溜息を吐いた。そのまま双眼鏡を覗き続けていると、唯一カーテンの開いた窓の奥で二つの影が動いた。
「月島さん!誰か来ました」
月島さんは直ちに照尺へ目を遣り、照準を窓の方に合わせた。あの二人は、鶴見中尉と、誰だあの男、いやフリルのドレスを着ているから女?違う、いや、ちょっと待って、あのドレスは。
「刺青人皮…?」
鶴見中尉とその男は手を取り合って部屋に入ってくるなり、向かい合って両手を握るとワルツを踊りだした。男の着るドレスのフリルと、腕の辺りに垂れ下がった飾り布のドレープが揺れる。そしてそのドレープをよく見ると…人の顔だった。
「…月島さん…」
「見ない方がいいと言ったでしょう」
「…あれ、か、顔っ…月島さんっ…」
「だから、見ないほうがいいと言ったでしょう」
「…ぅおえっ」
「お手洗いは廊下出て左です」
私は双眼鏡を畳の上に投げ捨て急いで立ち上がると、口を押さえながらトイレへの道を走った。月島さんの忠告はいつでも正しい。
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「名前、私と小樽に戻るぞ」
鶴見中尉がノックもなく勝手に部屋に入って来たかと思うと、布団の上で看護の教科書をめくる私を見下ろしながら短く告げた。
「明朝出発だ。月島軍曹と前山一等卒はこのまま夕張に残らせる」
「…刺青人皮はもう手に入ったのでは?」
「おや、月島軍曹から何も聞かされていないのか」
あいつは存外君に甘いな、と言って鶴見中尉は笑い、私の側に腰を下ろした。
「君に情報を共有するよう指示してあったんだがな」
「なーんにも教えてくれませんでしたよ」
「そう不貞腐れるな」
鶴見中尉が私の三編みにまとめた束を指でつまみ上げ、毛先で私の頬をくすぐるように押し当ててくる。チクチクする。
「今回君を夕張に連れて来たのはな、最近君には寂しい思いをさせていたからだ」
「…そんな、子供じゃないんですから」
「病院に押し込められて、物事から遠ざけられていると思わなかったか?」
図星だった。未だに私の頬をいじめる毛先から逃れようと、顔を反対方向に逸らした。
「君を鳥籠に閉じ込めようとは思ってない」
鶴見中尉の指が髪紐を解き、三編みの髪がパサリと私の肩に落ちた。
「世界を見て、知る事も必要だろう?」
癖の付いた髪が手櫛で解されていく。
「月島は、君には純真無垢のままでいて欲しいみたいだが」
「…私は、元々そんなんじゃないです」
「少なくとも、月島はそう思っているさ」
私を巻き込みたくないと、そう思っているのだろうか、月島さんは。既に私は、兵士達や自分を傷付けた尾形百之助をこんなにも憎み始めているのに。
「あの剥製屋には、刺青人皮の贋作を作らせている」
鶴見中尉が私の髪を一房取り、くんくんと匂いを嗅いだ。布団に入る前に香油を付けたからだろうか。
「どうして贋作なんか?」
「我々以外にも金塊の存在を知る者は勿論いる」
そうか、それで偽物を使って出し抜こうという魂胆なのか。
「"不死身の杉元"という名前を覚えておきなさい」
鶴見中尉の口が耳元に近付き、私に囁きかける。
「二階堂洋平一等卒を殺した男だ」
放物線を描くオレンジ色の球体、柑橘の匂い、そして白い靴下が鮮明にフラッシュバックする。鮮烈かつ純粋な怒りの感情が私の腹の奥で静かに渦巻くのを感じた。不死身の、杉元。
「名前、君は我々の未来だ」
指先でくるくると弄ばれていた毛束が鶴見注意の口元に運ばれる。
「共に歩いてくれるか」
ちゅ、と音を立てて口付けが落とされた。私は鳥籠の鳥でも、純粋無垢でも、ましてや未来なんかじゃない。自らの意思で深淵に飛び込むただの女。そんな愚か者にこそ、この人は優しい。